獅子なき国の獣たち
──魔王国・黒嶺の山荘 夜
黒嶺の山々に囲まれた一角、かつて魔王直属の軍が密議を交わしたという古の山荘。その広間に、焚き火の赤が妖しく揺らめいていた。
その炎は、暖を取るためのものではなかった。
周囲に集う魔族たちの表情を照らし、逃げ場のない空間を演出する。
火の粉が舞うたびに、誰かの胸の裡に隠された猜疑が赤く炙り出される。
「獅子は現れぬのか。ならば、我らが喉笛を食い合うのも当然よな」
重々しい声が沈黙を破る。
語ったのは、“獄炎将”の異名を持つ老将軍、ザルフ=イグレス。白髪と刻まれた無数の傷跡が、彼の過去の苛烈さを物語っていた。
その隣で、紅衣を纏った若き魔族が、静かに扇を鳴らす。
「国とは、王によって縛られる檻でもありますからな。いまのように、我らが思うままに振る舞える方が、いささか……快い」
「忌々しいのは、“あの小僧”だ」ザルフの声が鋭くなる。「レグニスとか言ったか。死んだはずの隠者の子……魔王の末裔だと?」
「末裔であろうと、魔力であろうと、所詮は若造。民の支持など泡沫よ。むしろ、騒がせてやればよい。混乱は我らの糧となる」
「“あの者”を近づけるな」
低く、だが確かに空気を変える声。
広間の奥、黒い帳に包まれた玉座のような座に座する女神官ミレヴァが、盃を置いた。
「“白衣の医術士”――アヤ。王の名を騙る使者が、魔族に“信”など与え始めたら……この国は再び“理”に目覚める」
ミレヴァの言葉に、杯を持っていた若者が手を止める。
「……確かにな。愚かではあるが、民は希望にすがる。アヤという存在が、それを形にしてしまえば――」
「芽は早いうちに摘み取るべきだ。アヤと、レグニスの繋がりも」
焚き火が弾ける音とともに、部屋に静寂が落ちる。
酒が注がれる音だけが、唯一の動きを示していた。
「我ら“影の評議”は、王なき時代にこそ存在価値がある。王が戻れば、均衡は崩れ、我らは粛清の対象となる」
誰も反論しなかった。
事実、それがこの集まりの前提だった。
「それに、彼らの背後には動きがある。王国も、帝国も……奴らが望む未来が、我らにとって良いものとは限らぬ」
その言葉に誰かがうなずき、誰かが拳を握る。
一方その頃、アヤのもとには一本の封書が届いていた。
灰白の蝋が封を閉じ、その印には古めかしい“蛇の紋章”が刻まれていた。
送り主の名はない。
けれど、アヤはそれを見た瞬間に理解していた。
これは――「警告」だ。
手紙を開くと、そこにはたった数行が綴られていた。
>《王を名乗る者が現れれば、魔族の血は再び流れ出す。
> 医術士よ。王の隣に立ちたいのなら、あなたの手にもまた血が付く覚悟を》
アヤは静かに封を閉じた。
風のない室内で、白衣の袖が微かに揺れた。
その瞳は悲しみと決意に満ち、誰の声も届かぬ沈黙の中で、ひとつの言葉を呟く。
「……それでも、誰かの命を救えるのなら」
遠く、黒嶺の空に雲が流れる。
その下で、獣たちは牙を研ぎ、獅子の不在を嗤いながらも――恐れていた。




