光の矢、闇を裂く
──帝国東門・夜明け前。
東の空が淡く白み始め、ようやく冷気の中に一縷の温もりが混じり始めた頃、医術交流使節団は出立のときを迎えていた。静かに列を整え、馬車と護衛隊が国境へと向かって進み始める。
帝国での任務は終わった――そう思いたかった。だが、彩子の胸には一抹の不安が残っていた。どこか、空気が“張っている”。
その直感は、まもなく現実となる。
空気を裂いて、雷のような魔力の奔流が上空を走った。
瞬間、辺りの風が凍る。人々の視線が空に向けられた刹那、凄まじいまでの殺気が降ってきた。
「伏せて――!」
警戒していた《灰の鴉》が即座に魔力障壁を展開した。訓練された動きで守りを築くが、直後に放たれた高密度の攻撃魔法は、それをも押し潰そうとするほどの殺意を秘めていた。
「──アヤさん!」
その攻撃は、明らかに彩子一人を狙っていた。敵は帝国の諜報機関《黒曜》。彼らの狙いは、最初から彩子に絞られていたのだ。
魔力を纏った者が迫る。時間が凍りついたような錯覚のなか、彩子は馬車を飛び降りた。足元に落ちていた一本の剣を咄嗟に拾い上げる。
剣道――学生時代にかじった程度の経験だった。けれど、そのときの身体の動きは、不思議なほど自然だった。
「……こんなところで役に立つなんてね」
冗談めかした言葉とは裏腹に、全身の筋肉が震えている。刃が迫る。反射的に剣を構えたその瞬間、キンッと金属の衝突音が空気を切り裂いた。
自身の振るった剣が、敵の斬撃を弾いた。
衝撃で腕がしびれ、剣を握る手がかすかに震える。体力も、魔力も、限界は近い。
(駄目……このままじゃ……)
そのときだった。彩子は無意識のうちに左手の指輪を握りしめていた。レオンハルトから預かった、細身の金属の輪。冷たく、けれど不思議と心強く指に触れた。
同時に、胸元に提げていた黒角の護符が、かすかに――いや、確かに光り始めた。
(レイ……?)
次の瞬間、まるで光の帳が空間を裂くように、銀の髪が翻った。
黒いマントを纏った男が、彩子の前に突如現れる。
「……間に合った」
魔王国王・レグニス=アーガイル。魔族の転移術を用いて、彩子の呼びかけに応じたその姿は、神話の戦士のようだった。
鋭い視線で敵を見据えると、彼は魔剣を抜いた。空気が震える。次の瞬間、剣から放たれた衝撃波が迫る魔法をすべて打ち砕く。
「その命、俺が守る」
低く、確かな声が空気を貫いた。言葉が持つ力、それだけで空気が変わる。魔王に“殺意”が通じるはずがない。敵の手は、次々に崩されていく。
《黒曜》の刺客たちは、徐々に後退し始めた。その動きに合わせるように、《灰の鴉》の一部と、魔王国の影の部隊《夜巡》が尾を引くように追跡に回る。
闇を裂くような光の矢――それは、確かに彩子のもとに届いていた。
戦闘の余波が治まり、ようやく彩子は剣を地面に置いた。全身から力が抜け、膝が震える。
「レイ……どうしてここに……?」
問いに対して、彼はわずかに口角を上げた。
「護符の魔力は、ただの装飾じゃないって言ったろ? アヤが呼べば、俺は必ず行くって……もっと早く呼んでくれるかと思ってたのに」
冗談めかしてそう言うと、レグニスは手を差し伸べた。彩子はその手を取ろうとしたが、ふと身体のバランスを崩す。
「あっ……」
よろけた瞬間、レグニスの腕が即座に彩子の身体を支えた。
「大丈夫か?」
心配そうに顔を覗き込むレグニスに、彩子は少し困ったように微笑んだ。
「えっと……安心したら、腰が抜けちゃったみたい」
その言葉に、レグニスはふっと息を吐き、穏やかな笑みを浮かべた。
「まったく……昔と変わらないな、アヤは」
その言葉には、彼が知る彩子との記憶、過ごした時間、心の距離がすべて込められていた。
彩子を抱きかかえ馬車に送る。
──そして、使節団は無事に国境を越える。
緊張から解放された人々の間に、安堵の空気が流れる。だが、それと同時に、“越えた”ことの意味が胸に重く刻まれる。
ここまで生きてきた。仲間と共に戦った。そして、命を繋いだ。
その事実だけで、十分すぎるほどだった。
アデルナ王国の東端、国境警備塔には、王自らが姿を見せていた。
レオンハルト・アデルナ。
彼の表情には、安堵と同時に、どこか影のようなものが差していた。
すでに、帝国で何が起きたのかの報告は届いている。命を狙われたアヤ、敵の正体、そして彼女を救った存在の名も。
──レグニス=アーガイル。
魔王の名を聞いたとき、レオンハルトの胸には複雑な思いが去来した。
(俺は……アヤを守れなかった)
王という立場。動くには制限が多すぎた。敵地に自ら出向くことも、あの場に立つことも叶わなかった。
彼女を守ったのは、魔王だった。
嫉妬ではない。悔しさでもない。
ただ、ひとりの男として――届かない現実に、静かな痛みを感じていた。
(……ありがとう、レグニス)
心の中で、そう呟いた。
そして、視線を国境の先に向ける。
朝日が、ようやく昇り始めていた。希望のように、確かな光を湛えながら。
その光を受けながら、帰還の馬車はゆっくりと進んでくる。中には、命を救い、国を越え、絆を育んだ仲間たちが乗っていた。
彩子は、その中で静かに目を閉じていた。
彼女の手には、あの剣が。胸元には、黒く光る護符が。そして、指には今も、王から預かった指輪があった。
旅の終わりは、同時に新たな始まり。
守られた命の灯は、やがて“未来”という名の試練を照らしていく。




