王たちのまなざし
──アデルナ王国・王宮・私室執務室、夕刻。
薄暮の陽が、西の窓から差し込んでいた。絹のカーテンが淡く光を通し、執務室の調度品に長い影を落とす。
広い室内に、ひとり。レオンハルトは執務机に肘をつき、手元の報告書に黙々と目を通していた。
机の上には、王国の諜報組織《灰の鴉》より届いた、極秘の報告書。硬質な封蝋が剥がされ、黒字で記された分析と見解が、次々に彼の視界を埋めていく。
【第三皇子ユーリ殿下、快方へ向かう】
【市民診療における混乱、使節団側により収束】
【帝国貴族層の一部が自発的に診察を希望】
【医術管理局、交流提案への再協議の兆し】
そのすべてが、ひとりの異邦の医術士による影響を端緒としたものだった。
「……君は、やはり“ただの医術士”ではないな」
低く漏らした独り言に、誰が応えるわけでもない。だがその声音には、敬意と、それとは異なる別の感情――痛みのようなものが潜んでいた。
(帝国の心臓部で、君は命を救い、信頼を得ている……)
彼女は外交官ではなく、王族でもない。ただの一医術士。だがその行いは、帝国に“対話”の可能性をもたらした。
レオンハルトは手元の報告書を伏せ、そっと目を閉じた。
(あの帝国で、彼女は一人で戦っている。誰の庇護にも頼らず、誰かの命を想って)
握った拳に、無自覚に力がこもる。
「帝国が彼女の行動にどう応えるか……それ次第で、この大陸の均衡すら変わる」
立ち上がり、窓辺へ歩む。遠く、夕闇が街を覆い始めていた。
見据える視線の先には、帝国の大地。その先にある“変わろうとする可能性”が、うっすらと揺らめいていた。
「君の背を支えると言った。ならば私は、国内の医術制度を整える。王国、帝国、そして魔王国……三国をつなぐ“医術の道”が揺るがぬものとなるように」
それは一国の王としてではなく、彩子――アヤという名の一人の女性を信じる、ひとりの男としての誓いだった。
──静謐な夕暮れ。
王の胸には、すでに次なる準備が始まっていた。
──魔王国アル=グレイド・王宮・宰相の間。
同じ時刻、夜の帳が石造りの宮殿を覆っていた。
月光が高窓から差し込み、長い影が石床を滑るように伸びていた。宰相の間の奥、重厚な扉の手前。回廊の柱に背を預けるように、ひとりの男が書簡を手にしていた。
魔王・レグニス。威圧の化身とも呼ばれるその男は、今はただ静かに、帝国から届いた密書の文面を見つめていた。
“帝国第三皇子、快癒す。医術大使アヤの施術により、容体安定。帝国内、支持層の拡大顕著”
さらりとした文言の裏に込められた、重みをレグニスは見逃さなかった。
「……皇子を救ったか」
ぽつりと呟き、唇に微かな笑みを浮かべる。
「やはり、相変わらずだな、アヤ。命に関して、迷いがない」
重く閉ざされた扉の向こうでは、宰相たちが帝国との外交再編について議論を始めていた。
「帝国の態度変化を受け、交流規模の見直しを――」
「軍事機密の開示を求めるか、それとも医術分野に限定すべきか――」
だがレグニスは、その声に耳を貸すでもなく、書簡を静かに折りたたむ。
彼の目が見つめるのは、“彼女”が命を賭して立つ、その場所。
「……だから言っただろう。あの人は、“誰のものでもない”が、“誰の命でも救う”。それが彼女という存在の本質だ」
ひとり言のような声に、背後から控えの執務官が歩み寄る。
「陛下、帝国の改革派より、使節団への支援を求める打診が届いております」
レグニスはふと目を細め、すぐに指示を下す。
「……使節団との連絡を強化しろ。帝国改革派との交信ルートを拡張しろ。必要なら――我が名を使え」
「畏まりました」
返答と共に去る執務官を見送り、レグニスは再び月光に目を向けた。
(帝国が本当に変わろうとしているのなら……それを拒むことは、我らの矜持に反する)
どんなに異質であろうとも、相手が変化を望み、命を守ろうとするのなら、手を差し伸べるのが“王”の責務だ。
そしてそれを、最前線で実行しているのは、他でもない――アヤだ。
──時の狭間。二つの王国で。
静けさに包まれた王たちの空間で、同じ想いが静かに形を成していく。
それは権力でも、軍略でもない。“命”という普遍の価値に心を動かされた者たちの、静かな連帯だった。
彩子――アヤは、国家の旗を掲げることなく、ただ医術士として人を見て、命を救っている。
その姿が、レオンハルトに決意を与え、
レグニスに行動を促し、
帝国に疑問と希望を同時に刻みつけた。
それは確かに、ひとつの時代の始まりを告げていた。
“命に貴賎なし”――その理念を軸に据え、三国がかすかに交わり始める。
決して派手ではない、小さな光。
けれどそれは、国という構造の奥深くに、確実に“変化”という楔を打ち込んでいた。
やがて時代は動く。
剣ではなく、命を繋ぐ手で。
支配ではなく、理解を重ねて。
王たちのまなざしの先にあるもの――
それは、ただひとりの医術士が信じて疑わなかった“命の可能性”だった。




