命の重み
【Scene:命の重み、秤にかけられて ―皇子と市民の間で】
──帝国医術管理局・中央診療棟、緊急医術報告室。
早朝の空気がまだ冷たさを残す中、緊急医術報告室には既に数十名の関係者が詰めていた。室内には魔導式の診断報告装置が複数立ち並び、その中心に、医術大使アヤが静かに立っていた。
手にしたのは、最新の症例報告書。
「……対象施設の壁塗料に含まれていた化合物は、蒸気性の揮発性微粒子。特定の体質において、気道の炎症および狭窄を引き起こす可能性があります」
アヤの声は落ち着いていたが、その内容は重かった。目の前に座るのは、皇帝直属の侍医団。そして、医術管理局の高官たち。
「現時点での治療指針は、酸素吸入と水分補給、そして“汚染源からの隔離”です。特に幼児、体力の弱い者、栄養状態が不良な者には即時対応が必要です。後手に回れば、呼吸不全に至る危険もあります」
その瞬間──部屋の扉が激しく開かれた。
「至急! 陛下の御孫、第三皇子殿下が発熱と咳を悪化させ、昏睡の兆候が現れています。診察を──急ぎお願いしたいとの勅命です!」
使者の声に、室内が一気に緊迫した空気に包まれる。
アヤは立ち上がりかけた。しかし、同時に隣の魔導モニターが切り替わり、帝都南部・臨時診療所の映像が映し出される。
映像の中では、痩せ細った子どもを抱える母親たち、息苦しそうに咳き込む老人、倒れたまま順番を待つ少年たちの姿があった。
アヤは一瞬、目を閉じた。
(……どちらも助けを求めている。どちらも命だ)
「この子たちを置いていけない。今、重症化し始めている子が複数いるわ」
その声は、静かながら確固たるものだった。
しかし、背後から声が上がった。
「──アヤさん」
ミレイだった。真っ直ぐな目で、アヤを見据えていた。
「後は、私たちが引き受けます。セイランさんも、カルヴァスも、サリアさんも、現場に出ています。……未熟かもしれません。でも、アヤさんが“戻ってくる場所”は、私たちが守ります」
その背後には、他の若手医術士たちの姿もあった。各々が不安を抱えながらも、それでも前を向こうとしていた。
アヤは、わずかに口元を緩めた。
「……ありがとう。頼りにしてるわ。後をお願い」
そう言って、背筋を伸ばし、第三皇子の待つ皇宮へと向かった。
──帝国後宮・皇子殿下私室。
絹の天蓋が下がる皇子専用の寝室は、静まり返っていた。だがその中に響く、小さな苦しげな呼吸音がすべてを圧していた。
幼い第三皇子ユーリ=エグザルドは、ベッドに横たわり、額には高熱の兆しがあり、唇はかすかに青みを帯びていた。細い指が胸元の布を握りしめ、咳のたびに全身を小さく震わせていた。
アヤは、共に来たセイランと短い視線を交わし、すぐさま診察を開始する。
「気道狭窄が進んでる。補助魔法による酸素ボール、急いで」
魔力で形成された透明な球体が皇子の顔を包み、酸素を送り込む。
「体温は39.2度、血圧は維持されています。気道内出血は確認されず、肺音にラ音(湿性雑音)。気管支炎から細気管支炎への進行が疑われます」
「スキャン結果。肺の下葉に影、肺炎の兆候あり」
セイランとの連携は、すでに言葉を要さない域に達していた。
アヤは冷静に判断を重ねる。(ただの喘息か、感染性の肺炎か、それとも誘発性のアレルギーか──)
「点滴で水分と電解質の補給を行うわ」
言いながら器具を取り出すと、部屋に緊張が走った。
「ま、待ってください。……針を刺すのですか? 皇子のお身体に?」
乳母が声を震わせて詰め寄る。
「ユーリ殿下は脱水傾向にあります。高熱と肺の炎症で水分は失われ、口からの補給が不十分な今、静脈からの補液が不可欠です」
その言葉に反発するように、数名の近衛騎士が剣に手をかける気配を見せた。
だが、アヤは一歩も引かなかった。
「私は、命を守るためにここに来ました。誰であれ、それを止める理由にはなりません」
皇帝エドワールが、沈黙の中で片手を上げた。
その静かな動作が、すべてを黙らせた。
「アヤ、そなたの医術に、我は口を挟まぬ。存分に行え」
その言葉は、帝国における公式な治療許可を意味していた。
アヤは魔法を展開し、ユーリの腕に“透視照明”の魔法を施す。細い血管が光に浮かび上がり、彼女は慎重に穿刺を行った。
静脈ルートが確保され、点滴がゆっくりと滴下を始める。負担が最小限となるよう、速度は魔法的に制御された。
さらにアヤは、ユーリの上体をわずかに起こし、枕で体位を調整する。
「肺が広がり、呼吸が少しでも楽になるように」
セイランが頷いた。
やがて、皇子の呼吸が安定し、発熱も次第に和らぎ始めた。侍従たちが小さく安堵の声を漏らす。
「……助かった、のか」
「今はね。でも、これは応急処置。再発の可能性もあるし、原因を取り除かない限り、安心はできません」
その言葉に、皇帝の眉がわずかに動いた。
──帝都南区・臨時診療所前。
その頃、ミレイたちが対応する臨時診療所の前には、不満の声が高まっていた。
「金がない奴から治療するなんて、不公平だろう!」
「俺の子供はまだ診てもらってないのに、なんで後回しなんだよ!」
トリアージにより命の危険度順に優先される仕組みが、貧富の誤解と怒りを生んでいた。
だが、ミレイが前に進み出た。
「……誰かが“今すぐ”命の危機にあるから優先してるんです!」
震える声で、しかしはっきりと叫ぶ。
「それが嫌なら……私を責めてください。でも、順番だけは……絶対に、変えられません!」
一瞬、沈黙。
人々は彼女を睨みながらも、やがてしぶしぶ列に戻っていく。
その背に、サリアがそっと手を置いた。
「伝わってるわ、ちゃんと。あなたの“本気”が」
ミレイの頬には、気づけば涙がひとすじ流れていた。
──夜が帝都を包み込む頃。
皇宮でも、市民の街でも──命の重みが、初めて同じ天秤にかけられた。
“命に値段をつけない”
アヤが口にしたその言葉が、ただの理想ではなく、現実として形になりつつあった。
静かに、だが確実に。帝国の空気が変わり始めていた。
皇帝の年齢は50代の設定です。
第三皇子は5歳くらい、年を取ってからできた子なので1番のお気に入りです。
腹黒なのは皇帝じゃなくて側近や周辺貴族ですね。




