告げられた真実 ―報告書と帝都の現実
──帝国医術管理局・執務会議室、早朝。
東の空がようやく白みはじめたばかりの時刻、帝都の中心にある医術管理局の中枢棟。その執務会議室では、異例の早朝会議が静かに始まっていた。
長方形の黒檀の会議卓を囲むのは、帝国医術管理局長官クルーグ=マーデルを筆頭に、上級医術士三名、皇帝直属の内務官二名。いずれも帝国の医療行政において最高権限を持つ者たちだった。
机上に置かれた一通の書状。厚手の封蝋には、アデルナ王国の王印と、魔王国アル=グレイドの紋章、そして医術交流使節団の公式印が並ぶ。封緘には魔力防偽処理が施されており、報告の内容が届くまで改竄されなかったことを意味していた。
重々しい空気のなか、内務官の一人が封緘を解除。ぴりりと紙の裂ける音が、部屋の緊張を際立たせる。
《緊急報告:帝都における呼吸器症状の集団発現について》
読み上げる声は平坦だが、文面が進むにつれ、室内の空気が確かに変わった。
──報告書・要旨抜粋──
・帝都内における「乾いた咳」「呼吸時の雑音」「体力低下を伴う倦怠感」等の症状が、下層民及び高位貴族子弟を含む複数層にて観察される。
・共通点として、最近施工された新型防湿魔法塗料を用いた壁材の居住空間が確認されている。
・調査の結果、該当塗料に含まれる揮発性微粒子の一部が長期吸入により気道を刺激し、症状を誘発している可能性が高い。
・健康な成人は自然回復可能だが、幼児、虚弱体質者、栄養不良状態の者は気管支喘息様症状への進行が懸念される。
・現在のところ急性毒性は確認されていないが、慢性的な影響は不明。
──推奨対策──
・当該塗料の施工および流通の一時停止。
・既施工施設の換気強化、および無害な代替品への張替え推進。
・症状出現者への早期診察と酸素吸入、水分補給の徹底。
・帝国医術管理局による公式通達と、全域での予防医療キャンペーン実施。
──補足──
報告書の末尾には、医術大使アヤ──王国より派遣された“異邦の医術士”の直筆による言葉が添えられていた。
「帝国に生きるすべての命が、対等に守られるよう願います。
たとえその命が、誰かの“下”に置かれた者であっても──咳をするたび、命が削られるような日々に、終止符を打つために」
読み終えた瞬間、会議室に沈黙が満ちた。
「……単なる観察結果ではない。これは、帝都に突きつけられた“警告”だ」
局長クルーグの声は低く、鋭かった。
「ただの風邪や流行病とは違う。施設構造と生活環境、魔術建材の問題……これは、我々帝国の内部政策が直接引き起こした“医療災害”の兆候だ」
内務官の一人が椅子に体を預け、重くため息をついた。
「だが……この報告を表沙汰にすれば、責任問題に発展する。施工指示を出したのは、貴族議会の予算審査局だ。事を荒立てずに済ませられるのか?」
「では黙って見過ごすのか?」
珍しく声を荒げたのは、若手の医術士だった。
「このままでは、命が……弱い者たちが犠牲になる! 本当にそれでいいのですか?」
だがその言葉に、返答はなかった。
──同刻・帝国王宮・御内殿。
しんと静まり返った御殿の一室。床には絹の敷物が敷かれ、壁には芳香を帯びた薬草香が漂っている。
その中心──薄布に覆われた寝台の上、皇子ユーリ=エグザルドが小さな体を丸め、乾いた咳を繰り返していた。
「咳が……また出ました。1度始まると長く続き、不眠が続いております」
側で看病する乳母の報告に、皇帝エドワールの手が止まった。
薬壺に入った湯を注いでいたその手は、わずかに震えていた。
皇子の頬は微かに赤らみ、細い指が胸元の布をぎゅっと掴んでいる。その小さな咳の音に、帝国を率いてきたこの男は、初めて“恐れ”を覚えた。
(……あの報告書の症状と一致している)
アヤと名乗る女が提出した報告の内容が、皇帝の心に重くのしかかる。
まさか、これほどまでに早く、自分の孫にまで影響が及ぶとは──。
「……医術大使の言葉を……侮るべきではなかった、か」
静かに席を立ち、近くに控えていた側近に命じる。
「医術管理局に通達せよ。該当塗料の施工を即座に停止、全流通を禁じるよう命令を出す。……そして、あの者──医術大使アヤに、皇子の診察を正式に要請せよ」
その命令に、控えていた宮廷医官が息を呑んだ。
「陛下……“王国の者”を、皇族に?」
それは、帝国にとってある種の“越えてはならない一線”でもあった。異国の者が、皇族の命に手を触れる──それは権威と信頼の象徴の交錯でもある。
しかし、皇帝は迷わなかった。
「──医術に国境はない。……あの者が言った言葉だ」
重く、そして確かに放たれたその一言が、帝国という巨塔の中枢に波紋を広げた。
──夜明けとともに、風向きが変わった。
帝国の中心で、ついに“命”が言葉を超えて届いた瞬間だった。今までは遠巻きに観察されていた存在──王国の医術士、魔王国と手を結ぶ異邦の者──彼女が持ち込んだ真実が、ついに動かした。
だが、変化は始まったばかり。
彩子──アヤは、次なる決断を迫られることになる。
咳の拡大を止めるには、帝都全域にわたる実地調査と継続的な医術支援が必要不可欠だった。
だが、それは“内政干渉”と捉えられかねない。
帝国の保守派が反発すれば、彩子自身が政治的な標的となる可能性もある。
それでも彼女は知っている。
目の前に咳をして苦しむ命があるかぎり、迷うことはできない。
今、帝都という巨きな構造のなかに、確かに一本の“命の楔”が打ち込まれた。
それはまだ細く、脆いが──
確かに未来へと繋がる“亀裂”となりつつあった。




