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静かな咳

──帝国医術管理局・中央実習棟、大講義室。


 冷たい大理石の床に、規則正しく並べられた黒鉄の椅子。高い天井には音響魔法の術式が張り巡らされ、声の反響を最小限に抑えていた。


 ここ、中央実習棟の大講義室は、帝国の医術士育成の中心たる場。今日は特別な講義の日であった。


 王国・魔王国の使節団来訪にあわせて開催された「公開講義」には、帝国各地から集められた若手医術士たちだけでなく、保守的な高位医術士、軍属の医務官、さらには貴族階級の子弟や令嬢たちまでが列席していた。


 まるで、帝国全体の「医術の空気」が一堂に会しているかのようだった。


 壇上に立つ彩子──今や“医術大使アヤ”として知られつつある彼女は、落ち着いた口調で口を開いた。


「本日の講義は、“現場対応における初動判断と多種族間の生理差異”です」


 背筋を伸ばし、整った白藍の衣の裾を軽く揺らしながら、彩子は視線を巡らせる。会場は静まり返り、全員が集中していた。


「これは、命の現場で最も求められる“観察力”を鍛える訓練でもあります。言葉も、種族も、階級も違う相手に対して、何が共通し、何が異なるか。まずはそれを見抜くことが、命を救う第一歩になります」


 淡々とした説明のなかで、ふと彩子の眉がわずかに動いた。


 (……咳?)


 静かな講義室のなかに、断続的に小さな咳の音が混ざっていた。最初は一人。続いて二人、三人……注意を向けるにつれ、会場のあちこちで、喉を押さえるしぐさが目に入る。


 (気のせい、じゃない。……音質が乾いてる。浅くて、けれど繰り返されてる)


 咳をしているのは、一部の令嬢たちや、装飾過多な制服を着た貴族子弟たち。だが、それだけではなかった。彼女が前日に訪れた下層民居住区で見かけた子どもたち──彼らもまた、似たような咳をしていた記憶が甦る。


 (この咳、まさか……)


 講義の終了後、彼女は迷わず控室で使節団員たちに指示を出した。


「カルヴァス、ミレイ、セイラン……診療体制を。咳の質が一致している。貴族区と下層で同時に症状が出ているなら、局地的な感染症か、空気由来の可能性が高い」






──帝都郊外・下層民居住区、臨時診療舎。


 石畳から外れた一角に、急ごしらえの診療所が設けられた。石の壁に囲まれた仮設の空間に、人々が列をなし始めている。


「呼吸音、明らかに雑音が混じってる。発熱例はばらつきあり。潜伏期も個人差が大きい……」


 聴診器を当てながら、彩子は記録用紙に速記で文字を書きつける。脈拍、酸素飽和度、喉の腫れ、胸郭の動き──あらゆるデータをその場で記録し、カルヴァスやミレイが患者から生活背景を丁寧に聴取していた。


「高位貴族区の若者にも、同じ症状が出ていたと?」


 セイランが問うと、カルヴァスが頷いた。


「ええ。特に、屋内で長時間過ごす者たちに多く見られました。窓を閉め切っていた部屋が多いようです」


 (……ならば、感染源は空気か。あるいは建物内部……)


 彩子の思考が、警鐘を鳴らすように走る。単なる風邪ならここまで一致しない。しかも、種族差が見られない点も異常だった。






──帝国医術管理局・資料閲覧室・夜。


 石壁に囲まれた静寂の空間。魔灯がぼんやりと本棚を照らし、空気は紙と薬草の匂いで満ちていた。


 セイランが開いた古い記録簿の一節に、アヤたちの目が止まる。


「……この症状、旧市街区で十年前に報告された“微粒子型黴胞ばいほう”と類似しています。ただ、当時は下層の貧民層限定の発症で、特に“通気性の悪い家屋”が多かったようです」


 サリアが苦い表情で呟く。


「でも、今回は明らかに貴族層にも波及してる。……これは、伝播条件が変わってる」


「──建材、です」


 沈黙を破るように、ミレイが小さく口を開いた。


「帝都一帯の建物に、最近“新型魔法塗料”が使われたと聞きました。特に、湿気対策と称して、壁の内側に大量に塗布されていた、と」


 彩子の目が鋭くなる。


「……防湿処理による副反応。閉鎖空間で揮発する物質が気道に影響を?」


「このままだと、感染ではなく“誘発型の慢性症状”として、慢性的な被害が広がります。しかも自覚症状が出にくい……」


 セイランの声は震えていた。


「でも、帝国がこれを“政策由来”と認めなければ、処置も是正もできない……」


 彼の手が、無意識に記録用紙を握りしめる。過去の帝国──自らの母国が、似たような事例を“なかったこと”にした苦い経験が甦る。


 そのとき、彩子が彼の肩にそっと手を置いた。


「私たちは、責めるために来たわけじゃない。医術の名のもとに、“守るため”にここにいる。だから今は──伝えよう、“何ができるか”を」


 その目はまっすぐだった。否定や怒りではなく、救おうとする意志だけがあった。






その夜、彩子たちは《帝都感染対策緊急報告》を使節団名義で提出した。提出先は帝国医術管理局、そして皇帝陛下直轄の参事官室。


報告には、推定原因と症例データ、初期対応案、そして以下の一文が添えられていた。


「これは非難の書ではなく、協力の書である。我々は、帝国とともに命を守るためにここに在る」


まだ、帝国の中枢からの返答はない。


だが、その報告書は、確かに帝都という密閉された空間に、ひとつの風穴を穿った。


帝国という巨大な塔の壁に、ようやく刻まれた“命の楔”。


それはやがて、押し寄せる変革の序章となるのかもしれない──。

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