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黎明の旅立ち

──アデルナ王都・王立医術院 正門前、黎明。


 まだ陽が昇りきらぬ王都の空には、白く薄い朝靄が漂っていた。石畳に落ちた微かな霜が靴音を吸い、吐く息が白く浮かびあがる。冬の名残を引きずる冷たい空気に、身を縮める者もいれば、逆にその張り詰めた静けさを噛みしめるように、ただじっと佇む者もいた。


 そんな空気の中で、王立医術院の正門には、既に多くの関係者たちが集まり始めていた。貴族、学官、軍属、平民出身の医術士や実習生たち──それぞれの立場を越えて、今日ここから発つ者たちを見送ろうと、誰もが静かに列を成していた。


 門前には、出発に備えた馬車が数台。車輪には厳重な緩衝装置と防魔の結界が張られ、随行の兵士たちは無言のまま整列している。銀と青の制服に身を包み、槍を静かに立てるその姿は、王都の凛とした冬空と調和するような緊張感を放っていた。


 そして──その列の中心に、ひときわ目を引く存在がいた。


 白と藍の式服を纏い、腰まで流れる黒髪を結い上げた女性。王国医術院の院長であり、今回の「医術交流使節団」団長でもある、アヤ──かつて“彩子”と呼ばれた一人の女性だった。


「……思ってたより、静かね。もっと騒がしくなるかと思ったのに」


 凛とした立ち姿を崩さずに、ぽつりと漏らしたその声は、風にかき消されるほど小さかった。だが、その声音には、どこか自分自身を鼓舞するような力があった。


 その耳元に、唐突に聞き慣れた低い声が届く。


「それは、皆が“言葉にできないほど心配してる”ってだけさ」


 アヤがはっとして振り返ると、そこには旅装に身を包んだ男が立っていた。漆黒の髪と、深紅の瞳──魔王国の主、レグニス。だが今の彼は、その威光を脱ぎ捨てた一人の男、“レイ”として、彼女の前にいた。


 彼は言葉を継がず、無言のまま首元から黒い革紐のネックレスを外すと、それを丁寧にアヤの首にかけた。


「……これは、俺の角から削った黒角の護符。守護の魔法が込められてる」


「え……いいの? あなた、いつもこれ……」


「いいんだ」


 彼は遮るように、穏やかな口調で言った。


「お守りって言ったけど、本当の意味はそれだけじゃない。……もし君が危機に陥ったとき、俺が“精神感応”で気づけるようになってる」


「そんな魔法まで……」


 アヤは、護符に添えられた体温を感じながら、それを両手でそっと胸元に抱きしめる。想像以上の思いがそこに込められていることが伝わってくる。彼の不器用な優しさが、息苦しいほど真っ直ぐに胸を打った。


「ありがとう、レイ……」


 アヤが見上げると、彼はただ一言だけを残した。


「……無事で帰ってきてくれれば、それでいい」




 その静かなやりとりの空気を断ち切るように、またひとりの男が足音を立てて近づいてきた。


 重厚なマントを肩にかけ、金の装飾がさりげなくあしらわれた王服を纏った、アデルナ王国の王──レオンハルト。


 王である彼の姿には、威厳と威光が自然と備わっていた。だがこの朝の彼は、ただ一人の人間として、そして何より“彼女の未来を信じる者”として、その場に立っていた。


「アヤ」


 そう呼びかけた彼は、懐から黒い天鵞絨の箱を取り出し、そっと開けた。


 中には、シンプルな銀の指輪が一つ。


「……左手を、出してくれるか?」


 突然の申し出に、アヤは驚いた表情を浮かべたが、言われるままに左手を差し出す。冷たい朝の空気の中で、その指先だけがわずかに震えていた。


 レオンハルトはその薬指に、慎重に指輪をはめた。銀の地金に、極小の魔石がひとつ、淡く光をたたえている。


「これは、“誰のものか”を明確にするための指輪だ」


 アヤは、目を見開いたまま一言も返せず、頬に熱が上るのを感じた。


「……っ、また、そんなこと言う……」


 思わず目を逸らしながら、声を震わせる。


「帝国が、君を何者かと問うとき、私はこう答える。“アヤは、この国の未来を担う者であり、王の伴侶である”と」


 その言葉は、王としての宣言ではあったが、それ以上に、彼女の心の一番深い場所に、まっすぐ届く言葉だった。


 指輪をはめたその手を、彼はしばしそっと握り、目を逸らすことなくまっすぐに見つめた。




 やがて、門番が一礼とともに報せる。


「──馬車の準備、整いました」


 出発の時が来た。


 アヤは静かに息を吸い込み、二人の王に背を預けるようにして、一歩下がった。そして、ふっと微笑む。


「行ってくるね。ちゃんと帰ってくるから──信じて、待ってて」


 レイは言葉を返さず、ただ黙って頷いた。

 レオンハルトは一言だけ、凛として告げた。


「……待っている」


 それは祈りでも、約束でもない。彼女が戻ると信じている者の、疑いなき言葉だった。


 そしてその瞬間、朝日が雲間から差し込み、王都の空を照らし始めた。光の筋が正門を越え、アヤの背を包み込む。


 アデルナ王国から帝国へ。

 その旅路は、ただの外交ではない。命を繋ぎ、未来を変えるための、一歩だった。


 護符の魔力がわずかに脈動し、指輪の銀が陽光を受けてきらめく。

 その背に、多くの想いと祈りを受けながら、アヤはついに歩き出した。


 新たな時代の扉を、静かに、確かに──その手で開くために。

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