セイラン
──セラヴィア渓谷・連携拠点内 中庭、午後遅く。
視察を一通り終えたセイラン=ヴァルメルは、報告書を手に仮設の中庭に立っていた。風が薬草の香りを運ぶ。遠くでは研修生たちが片付けを始めている。
(この空気……妙に穏やかだ)
そこに──歩み寄ってくる気配。
「帝国からのご視察、ご苦労さまです。……少し、話してもいいかしら?」
白衣を纏った女性が、セイランの横に並ぶ。
“アヤ”──アデルナ王国医術院長、彩子。
「……対象者から声をかけてくるとは、驚きです」
「“対象者”って呼ばれるのは少し慣れてないけど。あなたが視察中にとても真剣な目をしていたから、話しかけてみようと思ったの」
彩子の笑みは、どこか“疲れている者”にしか出せない静かな温度だった。
「私は、セイラン=ヴァルメル。帝国医術管理局直属。あなたの“医術指導”を観察し、記録する任務で来ました」
「うん、そう聞いてた。だからこそ……直接“あなた自身の声”を聞きたいのよ。帝国の医術士が、どんな思いで来たのかって」
セイランは数秒黙り、目線を落とした。
(もし、これが帝国であれば──判断の誤りは処罰される)
「……私は、“指令”に従ってここに来た。それがすべてだと考えていました」
「でも、“それだけじゃない”って顔に出てるわよ。さっき研修生を見ていたとき──あなた、彼らのやり取りから目を離せなくなっていた」
「……観察の一環です」
「じゃあ、聞くけど。あなたの“観察対象”に、心が動いたことはある?」
セイランの肩がわずかに揺れる。
「……あなたは、敵かもしれない。帝国から見れば、“混乱の芽”だと定義されている。それでも……」
「それでも?」
「あなたは“命”と“学び”に対して誠実だった。それは……帝国の誰よりも、医術士の姿だった」
沈黙。
やがて彩子は、柔らかな声で言った。
「“敵”でも“味方”でもなく、“医術士同士”で向き合える日が来るとしたら──それは、あなたみたいな人から始まるのかもしれないね」
セイランの目が、微かに見開かれる。
「……あなたは、敵を信じるのか」
「信じない。ただ、希望は手放したくないの。そうしないと、“救えたかもしれない命”が、無駄になるから」
──それは、単なる理想論ではなかった。血と汗と涙で積み重ねた“現場の医術士”としての実感だった。
「……私は、貴女を“観察”するつもりだった。だが今は──“学びたい”と思っている」
「それなら、いいスタートね。……セイランさん」
風が、二人の間を通り抜ける。
帝国と王国、その橋の上に立つような二人の医術士。 その出会いが、のちに新たな道をひらく“始まり”だった。
──セイランの胸に、わずかに痛むような熱が残っていた。それは命じられた任務には含まれていない感情だった。
報告のために一時帰国する。
(こんなにも帰国に気が重くなるとは......)
──ザラディア帝国・情報局《黒曜》本部、地下第三情報室。
石造りの冷たい空間に、魔導灯の青白い光が沈む。
長机の上には、未提出の報告書が一通だけ置かれていた。
「……彼女は、命を軽んじる者じゃなかった。むしろ、誰よりも……」
セイラン=ヴァルメルは報告書を前にペンを握りしめたまま、視線を落とす。
(“対象人物:医術士アヤ。王国における政治的影響力、民衆信望ともに極めて高い”)
書式通りに埋めたはずの文言が、紙面の中で不自然に浮いていた。
(“対象との接触において特筆すべき点”……)
何を「特筆」すればいいのか。
──あのまなざし。
──誰かの過ちを責めるのではなく、正す声。
──命を前にして、敵も味方もなく動く姿勢。
どれも、帝国の教育では“理想主義”として排除されてきた感情だ。
(……それでも、あの人を“脅威”と記すことが、正しいとは思えない)
ペンが止まり、セイランは報告用紙の端に小さく書き足す。
「対象は、医術士として真摯な姿勢を有し、王国と魔族間の連携において、極めて重要な接点となっている。
敵視すべきではなく、接触と交流の意義を再評価すべきとの意見を補足する。」
──扉の向こうに、上席審問官の足音が近づいてきた。
セイランは深く息を吐き、報告書を閉じた。
「……これは、“任務報告”じゃない。“人としての記録”だ」
たとえこの一文が、誰かにとっての裏切りと映ろうとも──
彼は、見たものを、真実として届けたかった。
(アヤ……あなたを見て、私も“医術士でいたい”と思ったんだ)
──まもなく、報告書は提出される。
だがその“余白に込められた本心”は、帝国内のある者たちに、小さな波紋を生むこととなる。




