再び名を呼ぶ時
──アル=グレイド魔王宮・戴冠準備の間。
式典の数刻前、彩子は控え室とは別の回廊をひとり歩いていた。
王族賓客として丁重に案内されたにもかかわらず、この異国の城内にはまだ慣れない空気が漂っている。
(レイ……じゃなくて、レグニス。今は、もう)
心の中で何度も繰り返していた。
そんなとき、回廊の先──黒曜石の柱の影から、静かな声が届いた。
「アヤ」
足が止まる。
振り返ると、儀礼の衣装を半ばだけ身につけた青年がいた。
かつてと同じ髪色、同じ優しい目を持ちながら、纏う気配は確かに“王のそれ”だった。
「……王様が、こんなところに抜け出してていいの?」
彩子の問いに、レグニスはどこか懐かしい笑みを見せる。
「うん、ほんの少しだけ。……“君に会いたかった”から」
その言葉に、彩子は返す言葉を一瞬失い──
「……まったく、レイの頃と変わらないんだから」
そう言って肩の力を抜いた。
レグニスは歩み寄り、ほんの一歩の距離で立ち止まった。
「アヤ、ありがとう。……僕がここに立てるのは、君が命を救い、道を示してくれたから」
「私だけの功績じゃないわ。あなたが、ちゃんと選んでくれたからよ。戦わずに治めるという道を」
「でも、僕一人では選べなかった。“人間に救われる魔族”なんて、かつての僕には想像すらできなかった」
視線が交わる。
互いに“日常”だった時間が蘇る。
薬草園で過ごした静かな午後。
忙しない診療の合間の他愛ない会話。
そして、心の隙間を埋めてくれた、穏やかなまなざし。
「……それでも、君を“置いて”ここに戻ってきたこと、今でも少しだけ後悔してる」
「後悔、なんてしないで。だって、それがあなたの場所でしょ?」
彩子の声は穏やかで、どこか懐かしい温度を帯びていた。
「レグニス。……“王様”として、幸せになってね」
そう言って、彼女は優しく微笑んだ。
レグニスは、ほんの少しだけ黙ってから、静かにうなずく。
「……ありがとう。“アヤ”と呼んでいた日々は、僕にとって一生の宝物だよ」
名を呼ぶその声は、今や“王”の響きを帯びていた。
けれど、その奥に確かにいた──
「レイ」という名の、友であり、仲間であり、静かな温もりを持つ存在。
──それだけで、彩子の胸に、何かやさしいものがふわりと芽生えた。
「……行ってらっしゃい、“魔王陛下”」
「うん。見てて。君が灯してくれた火を、僕が未来に繋げる」
二人は、もう一度微笑み合うと、それぞれの役目へと歩き出した。
──扉の向こうには、戴冠という“歴史の始まり”が待っていた。
──アル=グレイド王宮・儀礼控室、夜。
盛大な戴冠式を終え、賓客たちが徐々に帰路につき始める頃。
煌びやかな広間から少し離れた小さな控え室に、ふたりの王が静かに向き合っていた。
レグニス=アーガイル──魔族の王。
レオンハルト=アデルナ──人の王。
「……ようやく、終わったね」
先に口を開いたのはレグニスだった。式の正装のまま、ネクタイを緩めることなく椅子に腰を落とす。
「王とは、かくも着飾り、かくも話し疲れるものだったとは」
それに対し、レオンハルトがわずかに口元を緩める。
「そこは人も魔族も変わらないらしい。おめでとう、レグニス陛下。……あなたは、民に歓迎されていた」
「ありがとう。君の国からの祝電、彩子が直筆で添えてくれたのだと、皆に見せびらかしてしまったよ」
その名が出た瞬間、ふたりの間にわずかな沈黙が生まれた。
やがて、レオンハルトが低い声で問いかける。
「……彩子とは、話したか?」
「うん。式の前に少しだけ。“アヤ”と呼んでいた時間は、今でも宝物だと伝えた」
「……そうか」
レオンハルトは視線を落とす。
「彼女は、特別だ。治癒の力だけではない。あの人の“在り方”が、皆の生き方に影響を与えている」
「同感だ。……君は幸運だね。あの人に隣で生きることを、選んでもらった」
「幸運であり、同時に覚悟を試され続ける毎日でもある」
レグニスの目が細まる。
「君は、羨ましいと同時に、よく似ている。彼女の“自由”を一番大切にしている。それが伝わる」
「束縛しない愛情ほど、難しいものはない。……私は王として、あの人の力を借りているが、“王妃にするため”に隣にいるわけじゃない」
レグニスは小さく頷く。
「私も同じだ。──だから、アヤは君を選んだのかもしれない。誰より自由を守ってくれる人を」
「……その想いが、報われる未来であってほしい」
王たちの言葉には、戦いも策略もない。ただ“彼女”という存在を通して、互いに尊敬と誠意を交わし合う静けさがあった。
やがて、立ち上がったレオンハルトが、手を差し出す。
「改めて。レグニス王──我らが築くべき未来に、争いは不要だ」
レグニスもまた手を握り返す。
「願わくば、医術と和解が我らの時代の旗印となりますように。そして、彼女の信じた“命を繋ぐ道”が、両国の礎となることを」
──手と手が重なったその瞬間、かつて“同じ一人の女性”を想っていた者同士の間に、確かな“信頼”が芽吹いた。
その後、ふたりの王は余計な言葉を交わさず、それぞれの扉を開いて夜の廊下へと戻っていった。
互いの背中に、これからの未来と、過去への敬意を宿しながら。




