束の間の別離
──王立医術院・職員棟の屋上、夕暮れ。
石造りの高台に柔らかな風が吹き抜け、彩子は手すりにもたれながら西の空を見つめていた。
街を包む鐘の音が、今日という日を静かに閉じようとしている。
「……懐かしいな、この感じ」
思わず漏れた言葉に、自分で驚く。
(いつだったっけ……“現場が好きなんで”って、課長昇進を断ったの)
前の世界。命が行き交う急性期病院で、日々ナースコールに走っていた頃。
管理職の打診はあった。けれど彩子はその都度、断っていた。 患者の隣にいたい。記録や会議よりも、目の前の「いのち」と向き合いたかった。
でも──
(……本当は知ってたんだ。現場が変わらない理由も、誰の声も届かない仕組みも)
数字にならなければ届かない声。
会議室で作られた理想論が、いかに現場を追い詰めているか──知っていたのに、気づかないふりをしていた。
「“私には向いてない”って、言い訳だったんだよね」
けれど今、彩子はその“向いてない”と拒んできた場所に、自ら足を踏み入れていた。
王立医術院の設計図を携えて、貴族たちや政治の中枢に言葉を届けようとしている。
(セラフォード公爵だって、私の話を真っ正面から聞いてくれた)
それは奇跡でも他人の力でもない。
今まで彩子が「誰一人見捨てなかった」積み重ねが築いた信頼だった。
「もう逃げない。“上”にいなきゃ、現場は守れないってわかったから」
手すりから身を起こし、まっすぐ空を仰ぐ。
(……もし、あの頃の私が今の私を見たら、なんて言うかな)
そんな想いがふと胸をよぎった。
そのとき、彼の顔が思い浮かぶ。
レオンハルト。
孤高の王として、誰よりも強く、誰よりも孤独だった人。
──『貴女を支えるために王であって良かったと、今ではそう思えるようになりました』
そう言った彼のまなざしは、王冠の威厳ではなく、ひとりの男の確かな決意を映していた。
「前の結婚では、こんな気持ちもなかったけど……」
呟きながら、彩子は胸に手を当てる。
(今は……彼を支えたい。彼が守ろうとするこのアデルナという国を、私も一緒に支えたい)
風が白衣を揺らす。
それは決して軽くない“責任”の重さ。
けれどその背中には、迷いのない歩みが宿っていた。
──夕暮れが、静かに夜へと移ろいはじめる。
その空の下で、彩子は確かに、“次の一歩”を見据えていた。
──王立医術院・裏庭の薬草園、夕刻。
傾きかけた陽が、柔らかな金色の光で庭を包む。
薬草の葉が風に揺れ、穏やかな香りを運んでくる。
彩子は、草を束ねながらふと立ち止まった。
背後に気配。
もう、その気配はすぐに分かるようになっていた。
「……レイ?」
「うん。今、ちょっとだけ話せる?」
どこか迷いを含んだ声に、彩子はゆっくりと振り返る。
彼はいつものように笑っていた。けれど、その笑みの奥にある“何か”を、彩子は見逃さなかった。
「……何があったの?」
「……アヤ。僕、戻らなきゃならないんだ。魔国に──“アル=グレイド”に」
言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。
「……え?」
「僕は……本当は“王”なんだ。魔族の国、アル=グレイドの継承者──レグニス=アーガイル。そして……今日、正式に王として即位するよう求められた」
彩子の手が、薬草からするりとこぼれ落ちた。
「……ずっと、隠してたのね」
「うん。ごめん。でも、あなたの傍にいるには、“レイ”でいるしかなかった。医術士アヤとしてじゃなく、“人としてのあなた”と一緒にいたかったから」
風が、二人の間をそっと吹き抜ける。
「あなたと一緒にいた時間、すごく楽しかった。薬草を摘んだり、洗濯を手伝ったり、どうでもいいことで笑ったり──全部、嘘じゃない。本当に、幸せだった」
「私も……ありがとう」
静かに、けれどはっきりと彩子は答えた。
「でも、あなたの居場所はそこだったのね。……“王”としての道へ、帰るのね」
レイ──いや、レグニスは頷いた。
「アヤ。これは別れじゃない。ただの一区切りだよ。あなたがいる限り、僕は戦わずに世界を繋ぐ道を選べる。だから……必ず、また来る」
そう言って、彼は彩子の前に手を差し出す。
「魔王としてじゃなく、“レイ”として、また会いにくる。その時はまた、洗濯でも一緒にしようね」
彩子は笑って、涙をこらえ、その手を握った。
「約束よ」
──その日、魔王国への帰還命令を受けた“青年”は、静かに王立医術院を離れた。
彼の背に、彩子はそっと手を振った。
(今度会う時は、きっと“それぞれの役目”を果たした姿で)
そして、彼が去ったあと、薬草園には春の香りがただ静かに残っていた。




