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―風に抱かれた午後―

その日、彩子は家の裏手にある丘へ足を運んでいた。


ぽかぽかとした春の陽気に誘われて、自然と足が向いた場所だった。


眼前に広がるのは、一面に咲く小さな花々。

芝桜に似たピンクの花が、丘の斜面をやわらかく覆っていた。


「……きれい」


ぽつりと漏らした言葉とともに、彩子は花畑の中にそっと身を沈める。


寝転がった体を、花と風と土が優しく包んでくれる。


(青い空……この景色……)


前の世界では、こんなふうに空を見上げることなんてなかった。

常に誰かの命と向き合い、時間と責任に追われていた日々。


「……気持ちいい」


まぶたが重くなる。

心地よいまどろみに、彩子はゆっくりと身を委ねていった。


──雲のような、白く柔らかな空間。


「あなたは、どうしたいの?」


どこからともなく、声が届いた。


視界の奥に、誰かがいる。けれど姿ははっきりしない。


「……もう少し、学びたいな。魔法って、私にとっては未知だったから。もっと上手く使えるようになりたい」


彩子は、ゆっくりと自分の両手のひらを見つめた。


「前の世界への未練は?」


「……うーん。勤務シフトに穴あけちゃったことくらい? ほんとに、ごめんって感じ」


ふっと苦笑する。


「でも……私はもう、あの世界で、やりきったのよ。50年以上、生きたし」


「それでも、後悔はないの?」


「後悔なら、何度もした。でもね、仕事の中で学んだの。

在宅医療でいろんな家庭に行って──その人の人生に触れて、思ったの」


「どんなこと?」


「一つとして同じ人生はない。誰もが、いろんな感情を抱えて生きてるって」


「あなたは、そんな人たちの命を守ろうとしてきたのね」


「……違うの。私、そんな立派な人間じゃない」


ふいに、彩子の声が揺れた。


「むしろ、無力さを突きつけられたの。あれもこれもできるって思ってたのに……どうにもならない現実に、打ちのめされた」


「……」


「私ができるのはほんの少しのこと。だけどね、生きたいと思ってる人に、“生きよう”って言葉をかけることはできた。

それだけでも──意味があるって思えるの」


ふわりと、優しい風が髪をなでた。


「今できる精一杯をやる。ただ、それだけでいいのよ」


「……寂しくないの?」


「うーん。正直言うと──誰かを本気で“好き”になったことって、ないかも。

私、恋愛には臆病だったの。意外?」


彩子の頬が、ほんのり紅くなる。


「じゃあ、心からあなたを愛してくれる人が現れたら、どうする?」


「えっ……いや、それは……わからない……っ」


動揺した彩子の声が、風に混じって消えていく。


遠くから、くすくすと笑うような声が聞こえた。


「彩子。あなたがこの世界を“好き”になってくれたら、私は嬉しい。

魔法も大事だけど──“人”や“心”も、たくさん学んでね」




──丘の上、現実の世界。


「いや、それは、だからっ!」


思わず叫んで飛び起きた彩子は、はっとして辺りを見渡す。


「……夢? なんか、いろいろ話したような……恥ずかしい……」


胸に手を当てると、心臓が高鳴っていた。呼吸も、わずかに荒い。


「“好きな人が現れたら”……って……」


ふと脳裏をよぎったのは、あの微笑み──“アルバート”の姿。


「なんでアルバートの顔が……っ!」


顔が熱くなるのを感じ、彩子は頭をぶんぶんと横に振った。


(妄想よ、これはただの妄想。そうよね)


心を落ち着かせるように、彩子は深呼吸をひとつ。


「……とにかく、今日は帰ってちゃんと寝よう。睡眠、大事」


空を見上げると、相変わらず晴れ渡る青空が広がっていた。


その下で、彩子はゆっくりと歩き出す。


(私は──この世界で、生きていく。小さくても、私のやり方で)


そう、心に静かに誓いながら。

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