―リュシアン、帝国の動きを語る―
──フェリア村・深夜。
月は雲に隠れ、村を包む闇はひときわ濃かった。
彩子は一日の仕事を終え、書庫の椅子に身を沈めていた。
レイはすでに眠っている。
疲れた心を、薬草の匂いがそっと癒してくれる。
……その静けさの中で、空気が変わった。
(魔力の気配……!)
ふいに、風もないのに蝋燭の火が揺れた。
彩子は椅子を離れ、背後に目を向ける。
「──久しいな、医術士」
月明かりの隙間に、黒衣の男が立っていた。
「……リュシアン」
「敵意はない。隠密で来た。“王国”にも“帝国”にも気づかれていない」
彼の声はいつも通り静かだったが、どこか張り詰めていた。
「夜更けに訪ねてくるなんて、よほどのことがあったのね」
彩子が静かに問うと、リュシアンはわずかに目を伏せた。
「帝国が動いている。“お前を確保せよ”と、皇帝直属の影が動き出した。
報告では、お前が“魔族すら癒す異邦の医術士”として評価されている」
「……密偵、ね。やっぱり動いたか」
「既に村の周辺に2人潜伏している。今のうちに動けば追い払える。だが、再び来る。必ずな」
リュシアンはわずかに視線を逸らし、続けた。
「……私の軍の名で庇護を与えることもできる。“魔族の医術顧問”として公的に迎えれば、帝国も下手に手は出せない」
「それは……“保護”の名を借りた“拘束”じゃないの?」
リュシアンは一瞬だけ黙った。
「……私個人の願いとして言う。お前が、誰にも踏みにじられないように。
今、私が動かねば、“誰かに攫われる”未来が見えてしまったんだ」
彼の声には、普段では考えられないほどの熱がにじんでいた。
彩子は小さく息を吐いた。
「ありがとう。……でも、私はまだこの村でやるべきことがあるの」
「……そうか」
「でも、あなたが警告してくれたこと──ちゃんと、心に留めておく。
それが“信頼”ってものでしょ?」
沈黙が流れ、やがてリュシアンは僅かに頷いた。
「お前はいつも……こちらの想定より強いな」
「それ、褒めてる?」
「認めている」
言い終えると、リュシアンは背を向けた。
再び風が吹き、闇に紛れるように彼の姿は消えた。
その余韻の中、彩子は心の奥で呟いた。
(王も、帝国も、魔族も──私を“誰かのもの”にしようとしてる……)
けれどその中で、確かに一つだけ、揺るがぬ事実があった。
(それでも私は、命を救う者でいたい。誰のものにもならずに)
夜が深まり、火が静かに灯る書庫に、彩子は静かに目を閉じた。
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隠れた英雄 ―隠れ里の獣人とエリシア―
──その夜、フェリア村から北へしばらく進んだ森の奥。
湿った草の匂いが濃く、月明かりさえ届かぬほど木々が鬱蒼と茂っていた。
その静寂を破ったのは、低く唸るような獣の声。
「……俺たちの鼻を、舐めるなよ」
葉陰から姿を現したのは、隠れ里の獣人たち。
鋭い耳と尾を揺らしながら、密かに侵入していた帝国の密偵を取り囲んでいた。
「……っ、囲まれている?」
黒装束の密偵たちは気配を消していたつもりだった。だが──
彼らの足音も、匂いも、隠れ里の者たちの五感からは逃れられなかった。
「随分と無粋な真似をしてくれたじゃないか。あの人に近づこうなんて──」
獣人のひとりが爪を構える。 緊張が弾ける寸前──
「やれやれ。もう少し静かに終わらせてくれると助かるのだけど?」
柔らかく冷たい声が、頭上から降ってきた。
「……!」
樹上に立つのは、黒髪の女性──エリシア。
その紅い瞳が一瞬、淡く光った。
次の瞬間、密偵たちの体から力が抜ける。
「な……!? まさか……」
「遊びはここまで」
密偵たちは音もなく、次々と地に崩れ落ちていった。
全員、深い眠りに落ちている。
エリシアはひとつ息をつき、肩をすくめた。
「リュシアン様の命令じゃなきゃ、こんな雑用に出向かないんだけどね。
……まあ、せっかく出張ったんだし、ゆっくり“話”を聞かせてもらおうか」
唇の端に笑みを浮かべ、倒れた密偵たちに手をかざす。
魔族式の精神探査術──対象の記憶を読む術が、静かに発動した。
「ふむふむ……なるほど。帝国の“研究局”ね。アヤを回収して、生体実験のサンプルにでもしたかったわけか」
吐き捨てるように笑い、エリシアは獣人たちに軽く合図した。
「では、この子たちを“保護”しましょう。リュシアン様の元へ」
そのまま闇へと、彼女の姿は消えた。
──同時刻・フェリア村、彩子の家。
「……ふぅ」
台所で湯を注ぎ終えたレイは、静かに息をついた。
(隠れ里の小さな使者から、“密偵排除”の報が届いた)
「……アヤへの脅威は、ひとまず退けられた」
レイは窓辺を見つめ、ふと言った。
「これからも、守りを強化する。意識しておけ」
誰にともなく語りかけたその声に、空気がかすかに震えた。
それは、目には見えない“精霊”のような何かが、返事をしたようにも感じられた。
レイは首にかけた小さなペンダント──折れた角の欠片を握りしめた。
「ヴァシュタールも、王国も……どこも黙ってないだろうな」
彼の視線の先には、火の灯った鍋があった。
人参とジャガイモ、玉ねぎと干し肉。ゆっくり煮込まれ、いい香りが漂っている。
「そろそろ、アヤが戻ってくるころだな」
穏やかな微笑を浮かべたレイは、鍋に味見をしながら、思った。
(どう生きたいかは、アヤが決める。俺たちは、それを支えるだけ)
──こうして、知らぬ間に守られた静けさのなか、夜は更けていくのだった。




