―帝国の影、フェリア村に忍ぶ―
──フェリア村の平穏な午後。
畑仕事を終えた村人たちは、井戸のそばで軽い雑談をしていた。
彩子は薬草庫の棚を整理しながら、村の子供たちに手洗いの方法を教えていた。
「石鹸は手のひらだけじゃなく、指の間もね。はい、ここも」
笑い声と日差しに満ちた、何気ない日常。
けれど、その空気に異質なものが紛れ込んでいた。
その夜、森の中。
月明かりの届かない暗がりに、二つの影が身を潜めていた。
「……あれが“医術士アヤ”の住まいか」
ひとりは黒い外套の男。
もうひとりは、粗衣に身を包んだ農民風の若者。だが、その目は鋭かった。
「素性は不明だが、“異界の者”の可能性があると報告されている」
「魔族とも接触があると聞く。王国に囲われる前に、我らの手で確保すべきだ」
それは帝国直属の密偵──**《黒の枝》**の一隊。
帝国宰相の密命により、アヤ=彩子を極秘に確保し、帝都へ連行することを目的としていた。
「交渉は?」
「無意味だろう。医術士は“敵味方関係なく命を救う”と知られている。だが、それは理想論。帝国の利益にはならん」
「では……どう動く?」
「数日以内に“薬草盗難”を装って攫う。毒気のない催眠薬を家に仕込む。外に出た瞬間を狙うのが確実だ」
「“あの少年”は?」
「魔力が高く、警戒すべき存在。だが相手はまだ子供だ。隙は作れる」
獣の気配に紛れて、影は闇へと溶けた。
──翌朝。
「……あれ? 薬草棚、誰か触った?」
棚の並びがわずかに違っていた。
彩子はすぐに異変を察したが、「風で揺れたのかも」と自分に言い聞かせた。
(でも、変ね……)
その違和感を、レイもまた感じ取っていた。
「アヤ、最近この辺りに見かけない顔が多くない?」
「……気のせいかなって思ってた。でも、村の子が“森に変な人を見た”って言ってたわ」
(まさか──帝国?)
彩子は、王都での出来事を思い出していた。
あの“クレイグ商会の男”も、ただの商人ではなかった。
(レイの言った通り、何かが動いてる)
目の前の穏やかな日常の下に、何かがじわりと迫ってきている。
その夜、彩子の家の前を誰かが通った。
レイは寝床から起き上がり、音もなく窓際へ移動する。
木陰に紛れていた“気配”が、ふと立ち止まり、こちらを見た。
──レイと目が合った。
だが、相手は微動だにしない。ただ、静かに口元を歪ませた。
次の瞬間、影は森の奥へと消えた。
「……アヤ、護衛が必要だ」
レイは、初めて“命を守る者”として、冷たい決意を口にした。




