―リュシアンの注視―
──数日後。魔族領、ヴァルゼイル砦。
冷たい岩肌に囲まれた戦略拠点の会議室。
リュシアンは、広げられた報告書の一枚にじっと目を通していた。
その内容は、隠れ里からの定期報告ではなく──
里の偵察を続けていた副官・エルゼから、極秘裏に届けられた報告だった。
「……“アヤ”という人間の女が、魔族の子供を救った?」
美しい銀の髪をかき上げ、リュシアンは報告に目を落とす。
内容は、信じがたいもので満ちていた。
──魔法の効かぬ病を治療。
──薬草と、独自の知識による調合。
──看護という行為。
──坐薬という聞きなれぬ手段。
そして何より──
「誰の種族にも関係なく、命を救おうとする姿勢」
「……これは、ただの“人間”ではないな」
報告をまとめたエルゼが、隣に立つ。
「彼女は、医術士と自称していますが……その行動は、まるで“何かを託された者”のようにも見えました」
リュシアンはしばし黙し、やがて椅子から立ち上がる。
「“人間はすべて敵”──という時代は終わりつつあるのかもしれないな」
「ですが、リュシアン様。彼女を“脅威”とする声も、軍内には少なからず──」
「……その声を否定はしない。だが“命を救う者”を脅威と断じる世界に、果たして未来はあるのか?」
重くも穏やかな口調だった。
そして、リュシアンは一枚の地図を指差す。
「“フェリア村”と“隠れ里”……あの女は、偶然そこにいたわけではあるまい。
必要な情報は収集しろ。……だが、直接接触するのは、私が決める」
エルゼは静かにうなずいた。
(リュシアン様が“注視する”と決めた──それだけで、この女の立場は変わる)
静かに、だが確かに。
“アヤ”という存在が、魔族内部で重要人物として浮上し始めていた。
その動きは、やがて大きなうねりとなって、
彼女自身も知らぬまま、世界の運命を巻き込んでゆく──。
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静かなる訪問者 ―リュシアンとの非公式な接触―
夜。フェリア村よりさらに深い森の奥。
治療支援を終えた彩子は、隠れ里の小さな薬草庫で調合帳と向き合っていた。
火灯しのみの薄明かり。
湿った木と薬草の香りが染みついた静かな空間に、そっと気配が差し込む。
──気づいていた。
(足音も、魔力の気配も……それでも、いる)
彩子は静かに言葉を放つ。
「誰?」
その一声に応じて、影がひとつ現れた。
フード付きの長衣に身を包み、目元を隠した長身の男。
一見すれば人間だが、彩子の右目には微細な魔力の揺らぎが映っていた。
「失礼。あなたが“アヤ”か」
声は低く落ち着いていたが、どこか鋭い気配を帯びている。
「そうだけど……あなたは? 里の人じゃないよね」
「通りすがりの者だ。だが、あなたの噂は魔族領の北の端まで届いている」
「噂、ね。どんな内容かは聞かないけど……用件は?」
「薬がほしい」
「症状は? 私、医者じゃないけど診断なら右目でできるの」
「……頭痛を抑えたい」
(頭痛か。原因はいろいろ……高血圧、片頭痛、不眠。さて、どれだろう)
「どんな時に痛むの? 常に? それとも眠れない時?」
予想に反し、真っ直ぐに問いかける彩子に、男の眉がわずかに動いた。
(怖がらない……?)
彩子はその表情に気づき、ふっと笑みを浮かべた。
「あなたのように高圧的な医者を何人も知ってるから、対応には慣れてるのよ」
現場で出会ってきた医師たちの顔が脳裏に浮かぶ。
思えば、理不尽な上司にも鍛えられてきた。
「あなたを診てもいい?」
右目でのスキャンを意味していた。
「ああ、構わない」
高位魔族であれば、自身の魔力量をコントロールできる。
情報の開示も自在だが、リュシアンはそのまま受け入れた。
不快感はなかった。
むしろ、何かが優しく触れるような、奇妙な心地よさがあった。
「……治療を要するような異常はないわ。頭痛も一時的なものに見える」
彩子は薬棚から錠剤を二種類取り出す。
「こっちは痛む時に1錠。でも次に飲むまでに間隔を空けて。
もう一つは眠れない時用。ハーブが主成分だから、身体への負担は少ないはず」
「……ありがとう。試してみよう。対価は?」
想定外の問いに、彩子は一瞬言葉に詰まる。
「では、これを渡そう」
男が差し出したのは、小さなピンクの石がついた金のネックレスだった。
「え……宝石なんて、受け取れませんよ」
「安物で申し訳ないが、今手元にあるのはこれだけだ」
“安物”という言葉に、彩子は思わず肩の力を抜いた。
「……では、ありがたくいただきます」
男は黙ってうなずいた。
しばらくの沈黙の後、ふと問いかける。
「あなたは“人”だ。それなのになぜ、魔族を助けた? 今も私に薬を渡した。怖くないのか?」
彩子はゆっくりと答える。
「人も魔族も、命を持っていることには変わりないと思ってる。
そこに、種族や身分、年齢で重さの違いなんてない。
でも──何でもできるとも思ってない。
私ができることなんて、ほんの限られた範囲。
それでも、目の前に苦しんでいる命があるなら……私には、黙って見過ごせないだけよ」
彩子は苦笑を浮かべた。
(無力だと知った、あの日から……私は)
「命に、種族の差はない……か」
男は低く呟き、ゆっくりと背を向けた。
「薬屋か治療院でも開けばどうだ。お前が歩き回るより、よほど効率がいいだろう」
「え?」
彩子が聞き返した瞬間、男の姿は霧のように消えていた。
──その夜。ヴァルゼイル砦、リュシアンの私室。
静かな石の部屋。
鎮痛剤の瓶を手に取ったリュシアンは、黙って1錠を口に含んだ。
(……面白い存在だ)
数分もしないうちに、頭を締め付けていた痛みがふっと消えた。
「しばらく──観察させてもらおうか」
その瞳には、敵意ではなく確かな“興味”が灯っていた。
──命に種族の差はない。
そう言い切った一人の人間に、魔族の将が心を動かされ始めていた。