―1人を救うことから―
治療を始めて、二週間が経過した。
「……清らかな水」
彩子の手のひらから、ふわりと浮かび上がった水の球がきらめいた。
(里の長とレイに教えてもらった魔法……ようやく使えるようになってきた)
日々の鍛錬と魔族の知識の融合により、彩子はステータス確認もできるようになっていた。
四属性に加え、聖属性の素質あり。
薬草の調合、患者の診断、基礎治癒魔法も着実に強化されていた。
今日も朝から、集落を見回る。
かつて荒れていた空気は、今ではどこか明るく感じられる。
通りすがりの猫獣人が声をかけた。
「アヤ、もう行くのか?」
「えぇ。まだ熱が下がらない子がいるからね」
向かう先は隔離区画──
里の最奥に作られた、高い塀で囲まれた施設。
出入りのたび、徹底した手洗いと消毒が義務づけられている。
(今回の感染はウイルス性。
自然排出されれば治るけど、問題は……細菌感染の方だったなぁ)
煮沸や消毒では太刀打ちできない相手に、抗菌薬が必要だった。
敗血症になれば命は危うい。
(おかげで調合の経験値は上がった。
でも……嬉しいことじゃない。命が失われる可能性があるって意味だもの)
今の世界には、ワクチンもなければ、十分な治療設備もない。
衛生と知識だけが頼りだ。
ふと、夢の中で聞いた“神様みたいな声”を思い出す。
(……あのとき。「ステータスを見てごらん」「スキルを活かすといい」「無理は禁物だけどね」──って)
特定の信仰は持っていなかったが、彩子は静かに手を合わせた。
「……おかげ様です。ありがとうございます」
生と死の境では、不思議なことが起こる。
彩子は、それを知っていた。
隔離施設では、感染拡大はほぼ鎮圧されていた。
空気感染ではないため、手洗いとゾーニングを徹底した結果、封じ込めに成功している。
ウイルス性の感染者は、残り一人。
(問題は……こっち)
隣の建物では、細菌性感染の重症者が5人。
特に深刻なのは、まだ幼い子供だった。
体力の低下、抵抗力の喪失、高熱の持続──
発症から三日が経過しても、回復の兆しが見えなかった。
その時だった。
「……なんで俺たちの子供は助けないんだ!!」
突然、肩をガシッと掴まれた。
壁際に追い込まれ、獣人の父親が涙ながらに怒鳴っていた。
(……そうだよね)
痛みよりも、胸を締め付けられる思いだった。
親でありながら、子供を救えない無力感──それは種族を越えた、普遍の痛みだ。
「口に入れても吐き出しちまうんだ、飲めない、薬も水も……どうしたらいいんだよ!!」
そこへ、レイと数人の獣人たちが駆けつける。
「待って!」
レイが彩子をかばうように立ちふさがった。
だが、彩子は怒号の中でも冷静だった。
「……そうね。口からがダメなら、別の方法。うん……ある」
すぐさま近くの病室へ駆け込み、スキル画面を開く。
調合欄を確認し、作成済みの解熱薬の成分をチェックする。
「経口がダメなら……直腸吸収。坐薬ね」
粘膜吸収なら、体力が落ちた者にも即効性が見込める。
彩子は調合スキルを応用し、即席の坐薬を生成。
初めての方法に抵抗を示す両親を説得し、子供に投与した。
解熱できれば、体力の回復はぐっと早まる。
──そして、彩子は付きっきりで看病を始めた。
クーリング、清拭、水分補給、体位交換。
両親にも教えながら、一つ一つ一緒に行った。
三日間、看病を続けていた両親は、
わが子の顔色が少しずつ良くなり、呼吸が落ち着いていくのを見ながら──
「……ありがとう」
そう、小さく呟いた。
「もう少しですよ」
彩子が優しく声をかけた時、
子供は、かすれた声でこう言った。
「……おなか、すいた」
その一言に、両親も、付き添っていた獣人たちも、涙をこぼした。
魔法と知識と、看護のすべてを注ぎ込んで──
小さな命が、確かに、戻ってきた。
収束に向かう現場を見渡しながら、彩子は小さくため息をついた。
(……まだまだだなぁ)
知識も技術も、まだ足りない。
まるで、新人に戻ったみたいだ。
(……今度神様みたいな人に会ったら、何をねだろうかな)
そんなことを考えながら、彩子は悪戯っぽく笑い、
仮眠を取るために、そっと静かな部屋へと戻っていった。