ー婚姻の儀ー
──アヤの控室──
朝靄が薄らいでいく窓辺に、柔らかな光が差し込んでいた。
神殿の奥、特別室のひとつ。
そこは今日、花嫁となるアヤの控室だった。
白銀と青を基調とした儀礼衣装が、背中から羽のように広がる。
軽やかな絹のレースが重なり、陽の光を浴びるたびに刺繍糸が柔らかく煌めいた。
アヤは化粧鏡の前に静かに座り、映る自分をじっと見つめていた。
「……今日、なんだね……」
そのつぶやきは、誰に向けたものでもない。
けれど、その声には、驚きと、緊張と、そしてほんの少しの戸惑いが滲んでいた。
――ほんの数年前まで、自分がこの世界に存在していたことすら、信じられなかった。
前世ではただの看護師。命を救うために奔走し、そして自らの命を燃やし尽くして亡くなった。
この世界に来てから、数え切れない苦難と決断を重ねてきた。
「……でも、ここまで来たんだ」
ふいに控室の扉がノックされた。
「どうぞ」と返すと、扉の向こうから医術士のサリアが顔をのぞかせた。
「アヤ様、装束の確認が完了しました。髪飾りの最終調整に入ります」
「ありがとう、サリア。……本当に、今日まで支えてくれて」
サリアはほほえんだ。
「いえ、アヤ様の姿を見ていると、私たちも誇らしくなります」
サリアの手には、蒼い水晶の髪飾りが握られていた。
それはかつて、王国と魔王国が交わした友好の証として贈られた宝石だった。今日、それがアヤの頭に飾られる。
サリアがそっと髪を整える間、アヤは目を閉じた。
ふと、あの夜のことが浮かぶ――封印の間でレグニスと手を取り合い、全力を尽くして魔核の災厄を封じた夜。
そして、倒れた彼を看病し、自らの体温で温めたこと。
あの時、はっきりと知ったのだ。
この人を失いたくない、と。
「……アヤ様、髪飾り、完成です」
そっと目を開けると、鏡に映る自分がまるで別人のようだった。
花嫁として装いを整えられたその姿は、少女でも、医術士でもない。
ひとりの女性として――そして、王の隣に立つ者としての風格を帯びていた。
「……サリア。緊張してきたかもしれない」
「アヤ様が緊張されるなんて……でも、今のその表情、とても綺麗です」
化粧鏡の前から立ち上がったとき、控室の外からざわめきが聞こえてきた。
扉の向こうには、医術士の若手たち――ミレイ、カルヴァス、そして数人の医術士仲間が、整列して立っていた。
ミレイは花束を抱えて、ぎこちなく笑みを浮かべていた。
「アヤさん……! すっごく、綺麗……!」
「お前が緊張してどうする」
カルヴァスが思わず吹き出したように笑ったが、その瞳はどこか潤んでいた。
「アヤさん、今日の日を迎えられて、本当に良かったです」
「ありがとう、みんな」
アヤは、そっと一歩ずつ彼らに歩み寄った。
それはまるで、ここまで共に歩んできた仲間に、最後の感謝を伝えるかのようだった。
「私がここにいられるのは……みんなが、私を支えてくれたから。どんな時も、諦めずにそばにいてくれたから」
ミレイが思わず泣き出してしまい、それをカルヴァスが困ったように受け止める。
「おいおい……まだ式が始まってないぞ」
「だってぇ……本当に、嬉しいんだもん……」
アヤはそっとミレイの手を取って、微笑んだ。
「ありがとう。これからも、一緒に命を救っていこう」
「はいっ!」
その声には、たしかな未来への誓いが宿っていた。
部屋の外では、式の始まりを告げる鐘が鳴った。
アヤは最後に鏡の自分に微笑みかけ、扉の前に立った。
「行こう。レグニスの隣へ」
その歩みは、まっすぐで、揺るがなかった。
──魔王側の控室──
深い蒼と黒を基調に仕立てられた重厚な礼装が、広い控室の中央に据えられていた。
魔王レグニス・アーガイルが纏うその衣は、代々の魔王の儀礼服をもとに新たに縫い直されたものであり、今日という日にふさわしい威厳と美しさを備えていた。
控室の大窓からは、神殿の外を囲む森と、朝日にきらめく光の霧が見渡せる。
それはまるで、世界そのものが二人の門出を祝福しているかのようだった。
レグニスは、衣装の前立てを整えながら、鏡の前で静かに息を整えていた。
額の魔紋はいつになく穏やかに輝き、黒銀の髪も端正にまとめられている。
今日の彼は、魔王であるよりも、ひとりの男であり、アヤという女性に心を捧げる存在だった。
「……落ち着かない顔だな、レグニス」
声をかけたのは、側近のリュシアン=ヴァルゼイルだった。
彼は自らも礼装に身を包みながら、遠慮のない微笑を浮かべていた。
「いつものような鋭さがない。だが……それもまた、今日という日らしい」
レグニスは苦笑した。
確かに、戦場へ赴く時のような張り詰めた気配はない。けれど、胸の奥にあるこの緊張と鼓動の高鳴りは、ある意味、それ以上のものだった。
「……リュシアン。俺は、これで良いと思うか」
「何がです?」
「この手で命を奪ってきた者が、誰かの隣に立つ資格などあるのかと、ふと……そう思った」
静かに語るその言葉に、リュシアンは一歩近づき、真剣な瞳で応じた。
「だからこそ、アヤ様の隣に立つのです。彼女は命を救い、あなたは命の重さを知っている。……それは、ともに未来を守る者として、最も強い絆ではないでしょうか」
レグニスは、しばしその言葉を噛み締め、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな。彼女となら、すべてを受け入れていける」
控室の扉が軽くノックされた。
「レグニス様、ご準備はいかがでしょうか」
現れたのは、侍従長のエルダだった。老齢の彼もまた、この晴れの日のために一層丁寧に身なりを整えていた。
「神官より、式の進行が始まる旨が伝えられております」
「わかった。すぐに向かおう」
レグニスは最後に鏡の前に立ち、自身の姿を見つめた。
そこには、過去の重責と未来への決意を宿した、ひとりの男の姿があった。
彼は、マントの留め具に手を添えながら小さく呟いた。
「……ようやく辿り着いたな」
「レグニス様」
リュシアンが静かに声をかけた。
「この国にとって、あなたは魔王です。しかし……今日のあなたは、それ以上に“アヤ様の夫”であることを、皆が理解しています」
レグニスは微かに笑い、扉へと歩みを進めた。
「ありがとう、リュシアン。……行ってくる」
「ご武運を」
かつて幾度も交わした戦場への送り出しの言葉を、あえて祝いの門出に用いたリュシアンに、レグニスは深く頷いた。
そして、その背に一人の若き従者がそっと声をかける。
「レグニス様……どうか、アヤ様を、幸せにしてあげてください」
その言葉に、レグニスは振り返り、柔らかく微笑んだ。
「当然だ。……彼女こそが、俺のすべてだから」
控室の扉が開かれる。
そこから差し込む光は、祝言の舞台へと続く、新たな未来の扉だった。
レグニスは深く息を吸い込み、一歩踏み出す。
その歩みは、まっすぐにアヤの元へと向かう。
彼の心にあるのは、ただひとつ。
——今日、アヤと共に始める未来。
それが、すべての始まり。