月影の森
夜が凪いで、樹木が月光の中に立ち止まった。
秋の内に木の葉を敷いた道は、雪に暖められて眠っている。
細かい氷になった上を、波のような光が伝って、遙か向こうまで道程を示す。
誰の声もなかった。
木々のざわめきすら。
月は、雪雲の間から覗いて、あまりに無口だった。
僕は、枝を通って降りてきた光を浴びながら、耳を澄ました。
風のあった時は、誰かに笑われた声が聞こえていた。それは、梢の空に打つ音だったのだろうか。深い波の揺らぎが視界にもあったけれど、今は沈黙に覆われて、呼吸をやめたように何もない。塞がれた空間は立体感に乏しかった。
ふと風が駆け抜けて、森が蘇生した。
僕はほうっと息をついて、人が死んだ時も、あんな感じなのだろう、と思った。
死ぬのは、ちょうど海が静かになる瞬間で、人はただ、そこから再び波を起こせないだけなのだ。病院の祖父がそうであったように。
中国文学の学者だった祖父は、僕が中学生の時に亡くなった。あの日、僕が学校から病院に行くと、母と祖母が青白い顔で待っていた。今晩が危ないらしいの、今の内に食事に出るわ、お父さんもすぐ来るから、と母が僕の肩を抱いた。
二月の病室は暖房が足の方には届かずに、冷たい異界の川が流れている感じがした。
様々な機械の置かれた枕元に近づくと、祖父の布団ががさりと鳴った。見ると、祖父が薄く瞼を持ち上げて微笑っている。その口元が、緩やかに言葉を発していた。殆ど声はかすれて、抑揚のうなりに昇った音だけが、空気に放たれる。けれども、僕の聞いたことのある発音ではない。
手を握って、僕は祖父に、ここにいることを伝えた。
祖父は心持ち頭をのけぞらせて、窓の外の雪空を見上げた。
「letu letu,yuan de wosuo」
二度繰り返して、祖父は長く大きな息を吹き出した。それきり、祖父の命は絶えてしまった。
――後になって、父に最期の言葉の意味を尋ねると、父は渋面を作って、「楽土楽土、爰に我が所を得ん」と答えた。祖父はそれを中国の音で読んだのだ、という。それから、「恨みの歌だ」とつぶやいて、僕に中国文学者にだけはなるな、と命令したきり、もう何も言わなかった。
けっきょく、僕がその詩を漢文で見たのは今年大学に入ってからだ。けれど、どうして「恨み」なのかは、いまいちわからないままだった。
風は僕を道の先に押していた。
袋に入ったショートケーキとワインを落とさないように抱えて、森を進む。
月は背後から射して、細かい氷になった雪が、木々の枝から流れた。クリスマスに相応しい冷たい森だ。下宿の炬燵が恋しい。
早く帰りたかった。大学裏の暗い森を抜けて、明るいアパートへ。風の行くまま、僕はひたすら歩く。
行く手には、まだ街灯が見えなかった。
さっきから、十分は歩いている。
もう、抜け出ていいはずだ。
だが風は僕を許さず、背を突いている。僕は抗って身をよじって、左手を振り回した。
ひょうぅ……。
空気が巻いて、マフラーが顔に当たった。木々に波が興り、やがて打ち返す。
飆、と鋭い風が起つと、森はまた、沈黙した。マフラーを外して、視界を取り戻すと、僕は傍で低い唸り声を聞いて、辺りを見回す。
月は、僕をからかっているのだろうか。
樹木を照らす光が、目前に現れた堂にも注いでいた。
朱塗りの欄干は艶やかに光を宿し、石の階段が白く、僕を誘っている。
屋根は端が天に跳ね上がって、瓦が月光を波と映し出していた。
幾何学模様の窓枠が、赤い明かりに浮き上がり、声は横に長いその建物から、綿々と漂って来るのだった。
森に、誰かが住んでいるという話は知らなかった。
幻だろうか。
それにしては、全てが赤すぎる。
風は、まだ止まっていた。
「楽土、楽土。爰に我が所を得ん」
突然、声はこの句を述べた。前庭で立ちすくんでいると、沈んだ男の声は、こう続けた。
「……三歳女に貫うれども、我を肯て顧る莫し。逝に女を去り、彼の楽土に適かんとす。楽土、楽土。爰に我が所を得ん。――嗚呼、何ぞ三歳の久しからんや」
声はため息をつき、途切れ、涙に崩れた。
楽土楽土、爰得我所。
僕は震えた。
この詩を吟じているのは、誰だろう。
建物に一歩踏みだし、大声を出す。
「そこにいるのは、どなたですか」
声は止まり、沈黙に身を潜めた。しかし、また大きな息をついて、声は逆に聞き返した。
「おぬしは何者ぞ」
勿体ぶった口調に、僕は少し呆れた。どうやら、酷く高貴な人物がいるらしい。
「入ってもいいですか」
答を聞かずに僕は石段を上って建物に入った。
すると、中で椅子をけ倒す音がして、声はうわずったのだ。
「ぶ、無礼者っ、な、何者ぞ、この」
覗くと堂には、ただ幅が狭くやたら長いテーブルがあるだけだった。人影はない。それでも、まだ声はあった。
「な、何を考えておるのか。莫迦者」
何を考えて、か。
肩をすくめ、赤い光に覆われた部屋に滑り込む。
「そりゃ、どうも。どこにいるんです」
応えると、テーブルの下から、椅子を起こしながら人が現れた。
僕はケーキとワインを取り落とさないように抱きなおし、相手を凝視した。
寝起きだろうか。その人は腰までの長い黒髪を垂らし、手には櫛を持っている。
私に髪を見られたのが恥ずかしいのかうつむいて、手早く髪をまとめると、白い布で覆った。
着物のように垂れた袖は、その人が腕を上げると同時に肘のあたりまでずり下がる。
それらが、部屋に灯された赤く太い蝋燭の明かりに照らし出されていた。
「あんた、誰」
僕の知りうる限り、彼はスタイルが古すぎた。
「わ、儂は東漢の詩人だ」
その人はこちらを見ない。
東漢の詩人――その漢が中国漢王朝ならば、ノーベル賞ものだ。
「ご冗談を」
「何を、儂は景初二年、己の詩が盗まれたから、この地に渡って来たのだ」
景初?
「それは魏の年号だ。二三八年。今から一七二二年前ですよ」
日本は卑弥呼の時代になる。僕が告げると男は天を仰いで涙した。
「そんなになるのか」
「待ってください。そんな人が生きているはずないでしょう」
「うん」
男は感慨深そうに頷いた。
「儂は器に刻んだ詩を盗まれたのが悔しくてな。黄河に身を投げて魂のみになってこの地まで追いかけたのだよ」
何だって。
たかだか詩のために、死んだ?
あんた、幽霊かと問いただそうとした時だった。
男のお腹が鳴って、僕らの視線が真っ向から合った。
「あんた、腹減るの」
本当に漢の幽霊で、空腹歴一七二二年だとしたら、由々しき問題ではある。
「あんたではない。管融だ」
中国文学の授業では聞いたことのない名前だった。
「そう。で管さん、おなか空いてるんだ」
「……何か、食べ物を持っているのか」
僕はコンビニエンスストアで買ったケーキを取りだした。ショートケーキが二つ。
「これでよければ、やるよ」
「それはなんだ」
「食べるの、食べないの」
男は上目遣いに僕を睨んだ。
彼の背は、そう高くない。僕が一七四㎝だから、一六〇㎝くらいだろうか。漢民族にしては小さい方だ。
しばらくして、男は椅子に腰掛けた。
「では、こうしようではないか。おぬしが一つ食べよ。儂も一つ食う」
信用してないな。
でも、二個とも奪われるよりましだと思い直して、僕はコートを脱いで手前の椅子に腰掛け、ケーキを一つ男の前に置いた。そして、包装を解いて頬張る。生クリームが喉にしみて甘い。すぐにワインが飲みたくなった。
僕は瓶を取り出してテーブルに乗せる。
「ねぇ、かわらけとか、そういうの、ないの」
男はなおも僕の様子を探っていたが、やがて立ち上がり、硝子の杯を二つ持ってきた。
「器ならある。おぬし、それはなんだ」
「酒。葡萄の美酒、夜光の杯」
唐詩でも引用してやろうかと思ったけれど、この人は三国時代の人だ。知るはずもあるまい。
僕はワインを注いで彼に渡した。
すると、男はにやりと笑って続けた。
「飲まんと欲すれば、琵琶、馬上に催す。酔いて沙上に臥す、君笑うこと莫かれ。古来征戦、幾人か回る」
そんなこと。
「それは唐の王翰の涼州詞だ。景初の人なら、知るはずは」
「儂は詩を探している。中国の詩の類であれば、この国に入ったものは殆ど知っておると言ってもよい」
それから、ケーキをつかむとワインをかけて宙に放り投げる。
するとケーキは霧状に分かれて、蒸発するように消えた。
「なかなか美味い」
笑顔には陰惨な美しさがあった。
僕はしばらく彼に見とれていたが、再び酒を求められて我に返った。改めて注いだワインは赤い炎の影に揺れ、硝子は薔薇の深い紅色に染まる。
「久々の酒だ。随分前にあの男が来た時以来だな」
機嫌の良くなった男は立ち上がり、僕の腕に腕を絡めて交杯しようとした。僕はとっさに身を引き、顔をしかめる。
「婚礼の祝杯じゃないんだから」
交杯酒は中国で夫婦の契約を表す儀式だ。僕は幽霊と結婚するつもりはない。だが、男は呵々と笑った。
「何を言う。我らで婚礼はなかろう、小僧」
小僧?
僕の眉間に皺が刻まれるのが、目元の緊張でわかった。
「それを言うなら小娘だろ」
今度は男が怪訝そうな顔をした。僕は座ったまま、上目遣いに彼を見た。
「僕は女だ。見てわかれよ」
「何だと」
男は大きな目を丸くして叫んだ。
「今は短髪にずぼんだと男ではないのか! それにおぬし、女にあるべきものが」
視線はしきりに僕の胸を行き来している。
「小さいだけだよ」
「小さいって、……程度があろう」
程度って何だ。
僕はむっとして、テーブルをど突くと立ち上がった。
「うるさいっ。そんなに疑うなら証拠を見せてやろうか!」
「証拠だと?」
「股間に陽物がなければ女だろうか、えぇ?」
男は口をぱくぱくさせてから顔を手で覆い、横を向いた。その胸は激しく波打っている。
「お、おぬし、し、心臓に悪いぞ」
二千年近く生きている幽霊に心臓の善し悪しもあるもんか。
「――ならば」
彼の声はかすれて途切れ、酷かった。
「は?」
「おぬしが本当に女子ならば、そのようなことを口にするではない。……僕というのもな」
手を再び杯にやった男は、顔が赤く照っていた。気まずくなって僕もワインに口をつける。僕らは黙々と酒を飲んだ。
けれど、それもたまらなくなって僕から尋ねた。
「ねぇ、随分前に来たあの男、なんて言ってたけど。時々、客があるの」
男はちらりと僕を見て、目を閉じた。
「五十年程前から、男が一人、訪ねてきていたのだ。儂の作品を探してくれる唯一の人だった。名を秋瀬川信一といったが」
僕は椅子を蹴倒した。
「どうした、こぞ、小娘」
一瞬、声が出なかった。頭の中で漢文がもの凄い勢いで流れて、訳を喚く。ようやく、漢文の尻尾を捕まえて、思考の端に組み敷くと、僕は叫んだ。
「秋瀬川信一は、僕の祖父だ!」
男も立ち上がった。額に髪が一筋降りたが、彼はそれを振り除けなかった。
「祖父は、五年前に亡くなりました。僕は、僕は孫の秋瀬川和巳」
「何と!」
叫ぶなり、男は呆然と立ちすくんでいたが、じきに泣き出した。嘆きは次第に大きくなり、嗚咽が堂の空気を震わす。
僕は奇妙な感覚にとらわれた。これは目の前で祖父を失った時の僕と同じだ。僕は、僕を見下ろしていた。祖父の死に狼狽える中学生の僕を。
テーブルの向こう側に回り、彼に手を伸ばそうとした。
と、突然、管融は声を張り上げて、詩を詠んだ。
詩中に、森打つ波が行き渡り、また返した。異郷での恨みを孕んだ風が、景色に満たされていた。
――こんな詩を詠う詩人を、他に知らない。
僕は管融を助け起こし、手に杯を持たせると、腕を絡めて交杯した。
「僕が、貴方の詩を探そう」
彼は涙を一層激しく流し、目を見開き、何事か喚き、椅子に倒れる。
それから、やっと絞り出した声で、一人にしてくれ、とつぶやいた。
後には中国の言葉らしき独り言が、延々と続く。
僕はいたたまれなくなって、飲み残しのワインを置いて外に出た。
少し歩いて振り返ると、蝋燭の明かりも、堂も、見えなかった。
ただ木が揺れ、森の真ん中に風を集めて、再び戻るばかりだ。
道を行きながら、僕は管融の詩を反芻していた。
悲しくて、それでも透明な詩。祖父もまた、彼の詩が好きだったのだろう。
中国文学者になるな。――父の言葉を思い出して、僕は夜空を振り仰ぐ。
月はいよいよ冴えて、皓々と光を降ろしていた。
〈完〉
*楽土の詩は、『詩経』の「碩鼠」です。
お楽しみいただけましたら幸いです。
途中で出てくる年号などでわかるように、昔書いたものです。メモリーから掘り出したものに、少し手を加えました。
話はこれだけで終わっていて、続きがないです。
もしかして、詩を探す話でも書くつもりだったのかもしれません。
幽霊っぽいものが出てくるのでジャンルをホラーとしました。
*作中、1722年前とありますが、おそらく、1752年前の間違いではないか、と思います。ただ、当時、1960年代の物語を書こうとしていたのかもしれないので、そのままにしておきます。
*いいねと評価をいただきました! ありがとうございます!