7. 今宵、貴方の妻になるのでしょう?
アンジェリカが何かに耐えるように表情を歪ませたが、それも一瞬のこと。
ルーカスの首へと腕を回し、唇を重ねようとした次の瞬間――アンジェリカは動きを止めて、目を閉じた。
既視感のあるその姿。
まさか……頼むから終わりであってくれと額に汗した視線の先で、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
その中には、澄んだ翠緑の瞳。
少し顔を傾ければ唇が触れる距離で、こぼれ落ちそうなくらい大きくマーニャは目を見開いた。
すぐさま小さく悲鳴をあげて、飛び上がるようにベッドの隅に縮こまる。
先程まで、死にたくば死んでも構わないとすら思っていたのに。
強烈な二人を見た後だからか、震え怯えるその姿にどうしようもなく庇護欲をそそられる。
「……短剣は、没収だ」
不幸続きの儚げな少女が、自身に剣を突き立てる姿は見たくないと今は心底思ってしまう。
さらに言うとルビィの手に渡ったら最後、どうなるか分からない危険性も排除したい。
「あの、そのなぜか気付いたらこんな感じで」
人格が変わっている間は意識が無いのだろうか、状況が理解できず、緊張のあまり身体をガチガチに固くしている。
目を丸くして警戒し、怯える姿が小動物のようで、憐れに思えて仕方ない。
共に極刑に処せられる運命のマーニャに心を傾けるつもりなど毛頭なかったが、これ以上突き放すこともできず、ルーカスは自嘲気味に息を吐いた。
「……せいぜいバレないよう、気を付けることだな」
一言だけ言い残し、自室へと戻ると、そのまま後ろ手に扉を閉める。
一人になった途端、身体中からどっと汗が噴き出した。
心を落ち着けるようにそっと息をつき、壁にもたれたまま、ルーカスは天井を仰ぐ。
……酷な仕打ちをするものだ。
十六歳と聞いていたが、想像していたよりもずっと幼く見えるのは、世俗から遠ざけられていた聖女だからだろうか。
続き部屋の扉を開けた時、片隅でひとり怯え、佇むマーニャを目にしたルーカスは、そんなことを考えていた。
下賜された際、城に連れてくるよう命じられたが、魑魅魍魎がのさばる王宮に呼んだ日には何をされるか分からない。
突然祖国を滅ぼされ、過酷な運命を背負わされたマーニャがあまりにも憐れで、たまに息抜きに訪れる別邸へと押し込めた。
「――――公開処刑だ」
突然の死刑宣告に、マーニャの顔から血の気が引き、死人のように青褪める。
処刑は一年後だが、この婚姻が死すらも厭わぬほど苦痛であれば、自ら命を絶つことを止める気は無いと、短剣を手渡した。
恐怖で平静を保てなくなったのだろうか、マーニャの身体がゆらりと揺れる。
「お前のような年端もいかぬ娘を、このような形で娶るのは、不本意極まりないのだが」
もはや精神の限界なのだろう。
辛そうに眉をひそめ、ギュッと目を閉じている。
その心情を憂い、どうすることもできない自分の無力さに歯噛みする。
だが次の瞬間その指先が、突然強い意志に支配されたかのように鋭く動いた。
戦場で感じる、死に瀕した時の……身体中の毛が逆立つような緊迫感。
命のやり取りには慣れているはずのルーカスの背を、冷たい汗が伝う。
少女は目にも止まらぬ速さで鞘を払うと、その細い腕からは到底考えられない力で襟首を掴み、剣先を喉元へと突き付けた。
慢心していたつもりは無いが、これでも有数の騎士のはず。
防ぐ間すらなかったことに驚き、声も出ないルーカスの目の前で、「今日を以て夫婦になるのだろう」と告げた瞳が黄金に染まる。
「さぁ、腹を割って語ろうではないか」
身体が地に沈み込むような凄まじい圧。
少女が立ち上がるだけで、空気が震えた気がした。
そして次の瞬間、状況が目まぐるしく動き出し、ルーカスはただ平静を装うので精一杯だった。
「夢……ではないな。あと一年も、この状態で!?」
いっそすべて夢であって欲しいが、最後に目にした、怯え戸惑うマーニャの顔が頭から離れない。
ふと自分の腕に目を落とすと、先程マーニャの背に触れた辺りだろうか、血が付いていた。
捕虜になった際、怪我でもしたのだろうか。
そういえば帰宅直後、侍女から報告があると耳にした。
……だが今日はもう、何も考えたくない。
あれだけ元気に動けているのだ、明日でも問題ないだろう。
ルーカスは放心したように、ふらふらと歩みを進め、自室のベッドに勢いよく倒れ込んだのである――。