31. お前、見えているだろう?
「ええとその、神殿にいた時のクセでつい」
我ながら苦しい言い訳。
まさか触れると悪女が見えるか試したかったなんて、言える訳がなかった。
「……目の下に影ができています」
クマだけじゃなくその頬も、何やらゲッソリとこけている。
「ああ、最近忙しかったからな。……お前にも出来ている」
――私にも?
気遣ったつもりが自分も同じことになっていたらしい。
昨夜は眠りが浅かったからだろうか。
だがそもそも戦争捕虜になって以来、ぐっすりと熟睡できた試しがないのだ。
「夜は眠れているのか?」
安眠には程遠く、燃え盛る神殿の光景が脳裏をちらつき、夜中に何度も目が覚めてしまう。
眠れなくなった原因は、アスガルド王国なのですが。
そう言いたいところだが何と答えたものか悩ましく、マーニャは物憂げに目を伏せた。
「言えた義理ではないが、夜どうしても眠れず困った時は、続き扉をノックするといい」
いつでも話し相手になってやる、とルーカスは続ける。
「それにこれ以上酷くなると、目の下が黒くなってタヌキのようになってしまう」
「タヌキ……?」
険しい顔で何を言い出すのかと、堪えきれずに吹き出してしまう。
クスクスと笑うマーニャを見てルーカスの目元が緩み、……そして、クシャリと相好を崩した。
「ああ、……笑ったな」
険しかったルーカスの眉間の皺が和らぎ、その瞳が嬉しそうに生き生きとした光を帯びる。
どこか幼さすら感じさせる、初めて見るルーカスの満面の笑み。
触れた手のひらから温かな熱が伝わり、恥ずかしいような、嬉しいような……くすぐったい気持ちが押し寄せて、身体がじんわりと温かくなっていくのが分かる。
ルーカスも同じなのだろうか、戸惑うように瞳が揺れた。
遠慮がちな指先が頬に伸びる。
身を乗り出したルーカスの眼差しの強さに、たまらず視線を下向けて――。
「……ッ」
マーニャは身体をギクリと強張らせた。
目に飛び込んできたのは、しゃがみながらマーニャを見上げる薄桃の双眸。
私達の存在を忘れていたわね?
特等席で見物していた『血濡れ王太子妃』は、そう視線で語りかけてくる。
そういえばルビィ達が見えるのか、確認するために触れたのだった……!!
すっかり目的を忘れていた自分に驚いて、では見えているのだろうかとルーカスの様子を窺うが、あまり表情に出さないタイプなのでよく分からない。
マーニャの不安気な眼差しに気付いたのだろう、「すまなかった」と呟き、頬に伝わっていた熱が離れていく。
「あの、違うんです!」
触れられたのが嫌だったわけではないのだ。
気が付けば衝動的に身体が動き、ルーカスの指先を握りしめていた。
「嫌とかではなく、その……変わったことはありませんか?」
「変わったこと?」
怪訝な顔をするルーカス。
だが先程までとは異なり、どこかぎこちない……ような気がした。
「何か見えたりは?」
「いや、特には」
握りしめた指先が、じっとりと汗ばんでくる。
《……お前、見えているだろう?》
マーニャが違和感を感じたその直後、ルーカスの耳元へ顔を近づけ、『狂乱の女王』はうっそりと微笑んだ。
《素直に答えたほうが得策だぞ? おいマーニャ、握ったままにしておけ》
「え? は、はい!」
引き抜こうとした指先をギュッと握り締めると、それ以上は抵抗する気になれなかったのかルーカスは短く溜息をついた。
「見えているが……何のつもりだ?」
《マーニャが触れると我らが見えるのか、という検証だ》
見事実証されたなと高らかに笑うルビィ。
「もしや他に誰か、見えた者がいるのか?」
《さぁな、おいおい検証していくとしよう》
斜め下では麗しき元王太子妃が、ルーカスを見上げて微笑みを浮かべている。
必死で平静を保とうとするルーカスの頬が、わずかに引きつった。
《ねぇ、ルーカス様。初めてこの姿でお目見えできた記念に、一つだけ忠告してあげるわ》
前から気になっていたの、とアンジェリカの形の良い唇が動く。
《病で伏したお母様……最後にお会いしたのはいつ?》
「……何が言いたい」
《ディラン様といい、ドレイク様といい、約束を守るような方にはとても見えないのよねぇ》
だってすぐに裏切りそうでしょう? とアンジェリカは付け加える。
それゆえドレイクと会った時は神使を模したのだが……。
《延命治療、本当にされているのかしら》
コトリ、と少女のように首を傾げたその瞳に一瞬、獰猛な光が宿る。
《レトラ神聖国を亡ぼす以上に国民感情を揺さぶる出来事なんて、そうそう無いと思うのよねぇ》
だって同じ神を拝する神殿を焼き払うなんて、通常なら有り得ないでしょう?
それも、聖女を断頭台に送るだなんて。
《マーニャの利用価値が高まった今、最も要らないのは、――貴方だわ》
「……」
《本当に、生きているのかしら?》
私なら一年も待たないけど。
そう言い残し、アンジェリカは飽きたように窓の外へと消えていった。