3. ついに天秤は傾いた
だめだ、もう座っていられない……。
牢馬車の床に横たわり、マーニャは膝を抱え込むようにして身体を丸めた。
指先の震えが恐怖によるものか、熱によるものなのか……もう、それすらも分からない。
背中の傷による発熱と疲労。
さらに連日の寝不足も相まって、意識が朦朧とする。
死んだほうがいっそのこと楽なのでは……そんな考えが頭を過ぎる中、絶世の美女がマーニャの視界をふさいだ。
《ねぇマーニャ。わたくし、試してみたいことがあるの!》
だってマーニャが勿体ぶるから、話が全然進まないんだもの。
こちらの体調をまったく考慮しない、自由奔放ぶり。
余程不満なのだろうか、アンジェリカはプクリと頬を膨らませ、拗ねたように口を尖らせている。
《本当に身体を借りられるのか、事前に確認をしたいの》
おねだりモードで可愛らしく目を瞬かせるが……正直、嫌な予感しかしない。
「確認、ですか?」
《そうよ。出来るかどうかも分からないのに、待たされるなんて無駄でしょう?》
わたくしは久しぶりに、生身の身体を味わいたいの!
そう告げるなり、アンジェリカの顔が大きく視界に広がり――。
「ぶ、ぶつか!?」
そしてスッと、マーニャの身体を通過した。
「……何をされているのですか」
《だめだわ、素通りしちゃうみたい》
残念そうに薄桃色の瞳を揺らし、くるくるとマーニャの周りを回っている。
《どれ、私も試してみるか》
「ルビィ様まで!?」
続けてルビィもマーニャの身体を通り抜けようとしたが、こちらは通過できずに、直前でパチンと弾かれてしまった。
《何か抵抗力が働いているようだな》
《そういえば聖職者が神託を受ける時、神が降りてくると聞いた事があるわ。それと同じ理屈で出来るんじゃなくって?》
「どんな理屈ですか……」
神託を受ける聖職者なんて、話に聞くだけでレトラ神聖国ですらお目にかかったことがない。
身体を拓けと言われても、やり方すら分からないのだ。
《案ずるな。剣術と同じく練習あるのみ。一度コツを掴めば、後は上達するだけだ》
アンジェリカのみならずルビィまで参戦し、生身の身体を手に入れたら何をしようかと、持ち主を無視して話に花を咲かせている。
乗っ取る気満々じゃないですか……。
マーニャの身体を通過したり弾かれたり、身体を重ねてジッとしてみたり。
手に手を携えた悪女達の『杜撰なマーニャ乗っ取り計画』は、マーニャの体調と意思を無視して続いてく。
「……今、身体に入っても、痛みや熱で辛くなるだけですよ?」
《そんなの、わたくし達は気にしないわ》
《だからどうしたと言うのだ。それすら『生』の証だろう?》
身体を貸すなんて、一言も言っていないのに。
これじゃあ埒が明かないわねと、アンジェリカが再び眼前に迫ってきた。
《……この馬車はどこに向かっているのかしら? もしかしたら、恐ろしい目に遭うかしれないわ》
何やら物騒なセリフを吐きながら、うふふと微笑む姿は、咲き誇る大輪の薔薇のようである。
《そんな時、貴女を助けてあげられるのは、私達だけ》
――貴女に起こる出来事を拒みたいのであれば、私達が引き受けてあげるわ。
熱に浮かされ、意識が不明瞭な状態にあってなお、息を呑み見惚れるほどに美しい。
《だから代わりに、その身体を貸してちょうだい》
《必要とあらば、死の直前でも構わない。間際で味わう『生』は、最高に心が滾るからな》
その言葉は甘やかに、ゆるりとマーニャを捉えていく。
魂まで蕩けてしまいそうな悪女達のささやきに、ぐぐぐ……と、天秤が傾いていく。
そもそも身体を貸せるのか。
貸している間、自分の意識がどうなるのか、正直気にはなっていた。
「もし身体に入れたとして」
そうしている間も、ガタガタと牢馬車が揺れるたびに床へと打ち付けられ、背中の傷が徐々に開いていく。
「……後で、ちゃんと返してくれますか?」
《もちろんよぉ。一緒に、最善を探しましょう》
――何もかもが不安な、血濡れ王太子妃『アンジェリカ・グルーニー』。
《責任を持って返すと約束する。戦いが必要であれば私が担おう。どうだ、それならば文句はないだろう》
――得意満面に宣う、狂乱の女王『ルビィ・シエノス』。
今にも気を失いそうに弱ったマーニャを相手に、欲望まみれの二人の悪女。
《答えになる材料すら揃っていないのに、頭で考えていても仕方ない。すべてを受け入れ、何が出来るのか……何が出来そうなのか、自分の中で消化していけ。話はそれからだ》
怯え戸惑う心のうちを見透かすような、魅力的な提案の数々は、憔悴したマーニャの心に小さな希望となって積もっていく。
「それなら……少しだけ、ですよ?」
勢いに押され、ついに天秤は傾いた。
アンジェリカは顔を後ろ向け、ルビィにそっと、視線を送る。
マーニャの視界の外で交わされる眼差しは、開け放たれた檻の中、至高の獲物を求めて舌舐めずりする猛獣のよう。
マーニャが告げるなり、ガタリと音がして牢馬車が停まる。
鉄格子の隙間から、貴族の屋敷らしき建物が目に入った。
***
「いくら戦争捕虜とはいえ、これはあまりにも……」
マーニャの衣服を脱がせるなり、侍女は言葉を失った。
鞭打たれ腫れあがり、血が滲むその背中に、アンジェリカとルビィも息を呑む。
侍女はマーニャの身体を清めた後、後ほど医師をお呼びしますと告げて部屋を後にした。
《その傷は、どこで付けられた? アスガルド王国か?》
「……」
《それともレトラ神聖国によるものか?》
――そう。レトラ神聖国の神殿内で付けられた傷。
だが何も答えず、マーニャは困ったようにルビィを見上げた。
《お前は、聖女だろう。それに、王女だったはずでは?》
いくら聞かれても、余計な情報を口にする気はない。
沈黙を守るマーニャに、ルビィは苛立ちを露わにする。
《まったく頑固な子ねぇ……ところで誰の屋敷なのかしら? 調度品の質は高く、屋敷の外観も豪奢。かなり高位の貴族かもしれないわ》
アンジェリカは部屋の隅々に目を留め、冷静に分析している。
《誰であろうが関係ない。邪魔なら叩き潰すまでだ》
知ったことかとルビィが言い捨てると、アンジェリカが《ルビィ様は相変わらずねぇ》と笑いながら、ふわりふわりと室内を上下した。
《扉一枚挟み、男のものであろう私室。続き部屋に広い寝室。『妻』として下げ渡されたようだけれど、いわくの付いた亡国の聖女を、昨日の今日で娶るような男よ? ……存分に注意なさい》
悪女とは言え元王太子妃。
その忠告を心に留め、憂鬱な気持ちでその時を待っていると、屋敷の主が帰ってきたのだろうか。
階下から規則正しい足音が聞こえ、隣室に人が入って来たのを感じた。
どんな人なのだろう。
酷い目に、遭わされたらどうしよう。
怯えるマーニャを嘲笑うかのように、足音は近付いてくる。
激しく波打つ拍動を押さえていると、扉の前に誰かが立つ気配がした。
ただ一点を見つめるマーニャの瞳に、部屋を繋ぐ一枚の古びた扉が映り込む。
少し籠もったような音を立て、鉄の扉がゆっくりと、――まるで躊躇うように開かれた。
ひときわ大きな影が落ち、黒い軍靴が、静かに中へと差し込まれる。
ギクリと身体を強張らせたマーニャを射貫くように、鋭い視線が向けられる。
闇夜を溶かしたような漆黒の瞳。
冷たく、無機質な眼差しが、まっすぐにマーニャを射貫いた。