14.冬野紬パート【3】
夢か現かぼんやりした眠りから覚めると、窓から射し込む陽光を遮る影があった。
「……フラン……」
聞き覚えのある声にゆっくりと瞼を持ち上げる。彼を覗き込んでいた少女が、パッと明るい笑みを浮かべた。
「フランおじさん、おはようございます!」
「……おはよう、紬」
少女が軽く目を丸くする。それから、嬉しそうに笑みを深めた。
「よし、朝ごはんにしましょ! お腹が空きました!」
玄関ポーチに出て、昨日の残りのサンドイッチを食す。サンドイッチは日持ちしない食事だが、日持ちしない具材の物は昨日で食べ尽くした。寒いほどひんやりした空気の中に置いておいたため、日持ちする食材の物はまだ賞味期限が有効だろう。紬はナタリーの認識を信用することにしている。
紬にとって、フランは自分を「冬野紬」として認識していないものだと思っていた。それでもフランは、はっきりと「紬」と言った。フランの意識は、ある程度は保たれているのだ。
「フランおじさん、ツムギがいつまでこの屋敷にいたか、覚えてますか?」
「……わからない」
「そうですか……」
フランの意識はある程度は保たれているようだが、混濁していることに間違いはないらしい。ドロシーたちがフランを見捨てたとは思えないが、なんらかの理由があって消えてしまったのだろう。
「……ツムギは……いつまでもここには居られなかった」
「ふむ……」
***
フラン
「……ここまでのこと……覚えておこうか?」
◆「覚えておいてください」
◆「ヒントがほしい」
◆「フランのことを教えて」
◆「ヒントがほしい」
フラン
「…………」
◇◇◇
ツムギ
「……ツムギ……ゆびわ……持ってる……」
◇◇◇
フラン
「…………」
◆「フランのことを教えて」
フラン
「……アイリーン・パーシー……」
冬野紬
「パーシーさんの奥さん、ですよね。アイリーンさんのことは結局、解明できなかったんですよね。ここにいるアイリーンさんのこと……ですけど。アイリーンさんは、まだこの屋敷のどこかにいるんですか?」
フラン
「……さあ」
冬野紬
「ふむ……。
ドロシーたちはいなくなったとはっきり判明してるけど、アイリーンさんの存在は有耶無耶になっている……。ただ、フランおじさんがこの屋敷を出られないところを見ると、まだ何かしら怪異が存在し、その力がフランおじさんに及んでいる……。父さんたちの調査記録から考えると、それはアイリーン・パーシーである可能性が極めて高い。アイリーン・パーシーへの対処法は……」
フラン
「……ツグミ……」
冬野紬
「えっ?」
フラン
「…………」
冬野紬
「……?
なんだろう、この違和感……。この屋敷はアイリーン・パーシーの領域のはずなのに、あたし……その影響を受けてない……?」
フラン
「…………」
冬野紬
「フランおじさんがアイリーン・パーシーの影響を受けていることは確かなのに……ここには、アイリーン・パーシーが確かに存在しているはずなのに……」
フラン
「…………」
???
『ツグミ〜!』
冬野紬
「……!」
***
眩い陽が照らす綺麗な庭で、優しい微笑みが手を振っている。
「……ツグミ、違う……ツムギ……」
「ごめんなさい。ツムギって言いづらくって……」
「…………」
頭を撫でる手は温かく、慈しみが込められていた。
「ねえ、ツグミ。私ね……もう、外の世界が綺麗に見えないの。ここから出たくない……ずっとここにいたい……」
「…………」
その悲しそうな表情は、小さな胸を締め付ける。それでも、できることは何もない。
「だから……私が死んだら、これをどこかに隠して」
差し出された手は何かを握り締めている。それを、小さな手に優しく置く。
「…………」
「……ふふ。あなたは不思議な子ね。どこから来て……どこへ行くのかしら。……ツグミ。私のこと……どうか、忘れないで。覚えていてね」
「……指輪じゃない……。指輪だなんて、一言も言ってない……!」
頭の中に流れ込んだ映像に、紬はハッと顔を上げる。振り向けば、影の落ちた顔は冷たい表情をしていた。
「フランおじさん。ツムギがアイリーン・パーシーから大事な物を預かったって、どうして知っていたんですか? どうしてそれが指輪だって思ってたんですか?」
「……ツムギが言っていた」
「……そんなはずはありません。フランおじさんがアイリーン・パーシーの秘密の部屋に行ったあと、ツムギは……二度とフランおじさんと会えなかったんだから!」
紬を見据える鋭い目つきは、これまでの視線とはまったくの別物だった。
「見つけたわ、アイリーン・パーシー! 今度こそ、フランおじさんを返してもらうから!」
影の落ちた顔が歪み、その口端がつり上がる。その意識は、混濁などしていなかった。
「ふふ……また会えて嬉しいわ、ツグミ。あなたが来るのを、ここでずっと待っていたわ」
「どうしてツムギに執着するの? ツムギは、フランがいなければここには居ないはずの存在だった!」
「……そうね。ゆっくり、お話しましょ?」
眩い光に目を強く瞑る。瞼の裏の白みが薄くなり目を開くと、赤いドレスのアイリーン・パーシーの足元に、ずっと探し求めていた人物が倒れていた。
「フラン……起きて、フラン!」
その瞼は硬く閉ざされ、いくら揺すぶってもぴくりとも反応しない。
「普通の人間が……三年間も閉じ込められて、正常な精神でいられると思う? 私は、フランの心を守ってあげていたのよ」
アイリーン・パーシーは優しく微笑んでいる。しかし、内に秘める狂気を隠すことはできていなかった。
「そんなの……フランを解放すればよかっただけの話! ツムギのためにフランを閉じ込めるなんて、普通じゃない!」
「ええ。私が普通だと思うの」
その笑みは恍惚とすら言える。ようやく目的を果たせた悦びが、アイリーン・パーシーを包み込んでいた。
「ツムギ・フユノ……あなたは特別な子。時空を超え、過去に干渉し……未来を変える。あなたこそ、なぜフランに執着するのかしら」
「……先にツムギの質問に答えて」
「ふふ……随分とお喋りが上手になったわね。……いいわ、教えてあげる。あなたが、私を『お母さん』と呼んで慕ってくれたからよ」
「……?」
わけがわからず顔をしかめていると、それすらも楽しむようにアイリーン・パーシーは微笑んでいる。
「私は……夫によって、時間をかけて命を蝕まれていった。真綿で首を絞めるように……ね。それと同時に、精神も崩壊していったわ。娘のドロシーですら、私を恐れるようになった。その中で、あなただけが……真っ直ぐに私を見つめてくれた。あなただけが、私の領域に足を踏み入れてくれた。あなたのおかげで、私の心は満たされたわ。だから……あなたの大事な人を奪いたくなったの」
その表情に邪悪な色が込められる。それはもう、ツムギの知っているアイリーンではなかった。
「は……? 意味がわからない!」
「あなたがここで誰かを待っているのは、すぐにわかったわ。あなたが言っていたフユノという苗字をもとに、あなたの家系を探り……ウィンターズ家に辿り着いた。ナタリー・ウィンターズ……フラン・ウィンターズ……。時期的に、この姉弟のどちらかだと思ったわ。程なくして私は死んだけれど、運には見放されていなかった。フォルテオ・パーシーが、レヴァラン探偵事務所に依頼を出したの。あとは、あなたの行動を見ていれば、すぐにわかったわ。フラン・ウィンターズ……あなたは彼ばかり見ていたものね」
ぞくりと背筋が凍る。アイリーン・パーシーの領域に踏み込んだことで、フランを捕える好機を与えてしまったということだ。
「……どうしてフランを……」
「言ったでしょう? あなたの大事な人を奪いたくなった……。フランがこの屋敷に囚われれば、あなたは私を頼って来る。フランがこの屋敷から出られなければ、あなたも出られない……。あなたもフランも、私なしでは存在し続けられない……。……ふふ……ふふふ……あっはははは!」
身の毛もよだつ笑い声が空間を震わせる。もう、あの頃のアイリーンはいない。
「三人で永遠にこの屋敷で暮らすのも、悪くないかもしれないわよ?」
「……そんなの、無理に決まってる」
「どうかしらね……。この屋敷は、すべて私の領域。あなたたちはその住人。どこへも行かせないわ」
もう、あの頃のアイリーンは、どこにもいない。あの優しかった「お母さん」は消えてしまった。冬野紬が導き出す答えはひとつ。
「……紬、お母さんの大事な物……返す」
アイリーン・パーシーの眉がぴくりと震え、その表情から笑みが崩れる。
「もうこんなもの、いらない! あたしは、フランおじさんと外の世界で生きて行く。こんな暗い場所じゃなく……光の届くところで!」
「……駄目よ……そんなの許さないわ……」
『紬! 紬ー!』
『紬ー! どこにいるのー!』
温かい声に顔を上げる。紬とフランを必要とし、ともに生きて行く者たち。それは、本物の愛。
「行かせない……あなたたちは、ここで永遠に存在し続けるのよ!」
悲痛な叫びがビリビリと空気を震わせる。足がすくみそうになりそうなほどの波動に耐え、紬は手帳を取り出した。
「……ダニー、お願い……力を貸して!」
手帳から小さなタグが舞う。タグから光が溢れ、その中に柔らかい背中が浮かび上がった。丸い二本足が着地すると、ぽす、と綿の音がした。
「やれやれ……ボクのお尻のタグを引き千切って勝手に持ってったと思ったら……まあいいけど。いいとこ取りは、ボクの十八番さ!」
ぽん、と柔らかい手を叩くと同時に、浅葱色の光が辺りを包み込む。アイリーン・パーシーが短い悲鳴を上げた。一瞬の浮遊感のあと、着地する感覚で紬は目を開く。そこはパーシー夫人の寝室だった。
「フランおじさん! 起きて! 起きて!」
「いた! 紬ちゃん、フランくん!」
ドアが開くと同時に聞こえて来た声に、紬はホッと息をつきながら顔を上げた。
「イーディスさん、バリーさん! 早くここを脱出しないと!」
「よし、任せろ」
バリーがフランを肩に担ぎ上げると、紬はイーディスの手を借りて立ち上がる。駆け出した足は、充分に動いてくれそうだ。
四人がエントランスに辿り着いたとき、アレックスとナタリーも屋敷の奥から戻って来るところだった。
「紬!」
「フラン!」
ナタリーがバリーに背負われたフランを覗き込む。フランがその声に反応する様子はない。しかし、いまはそれどころではない。
「早くこの屋敷から出て! ダニーが頑張ってるうちに!」
四人は力強く頷き、踵を返す。屋敷の奥からは憎悪に似た空気が流れて来る。このままここにいれば、きっとあの闇の中に引き摺り込まれることだろう。
しかし、イーディスが扉のノブに手をかけたとき――
「……ニガサナイ……」
真っ黒な手が紬とフランの腕を掴む。そのまま屋敷の奥に引き摺り込もうとする強い力に対抗するため、紬はフランの腕を掴んで足に力を込めた。
「しつこい!」
その殺気にも似た憎悪が、紬とフランを呑み込まんと膨らみ続ける。そのとき、フランの手にぐっと力が込められた。
「フランおじさん、立って! こんなところで捕まって、後戻りするわけにはいかないんです! 帰ろ、あたしたちのお家に!」
「……うん。……僕を連れて行ってくれ」
「はい!」
紬が全身の力を腕に集中させフランを引っ張ると、負けを認めたように闇の手が離れていく。それは、徐々に力を失っていた。
「……ツグミ……行かないで……」
弱々しい声が呼びかける。小さな切望は、消えようとしている。
「……あたしはもう、ツムギ・フユノじゃない。あなたに守られていた弱いツムギじゃない」
「……ツグミ……」
「……ここまでだよ。きみはもう……アイリーン・パーシーじゃない」
「……あ……アア……」
闇の手が空を掴む。いまでもふたりを探している。
そこに、ぽすぽすぽす、と柔らかい足音が響いた。あの愛らしくも憎らしいクマのぬいぐるみが、息を切らせていた。
「やっと追いついた! ぜえ……はあ……捕まえたぞ!」
ダニーが闇の手に掴み掛かる。もう、その手はふたりには届かない。
「紬、フラン……こいつはボクが連れて行くから」
「ありがとう、ダニー……」
微笑みかける紬に、ふふん、とダニーは得意げに笑う。
「もし会うことがあれば、ドロシーによろしく。たまにお墓参りしてくれたら、本物のアイリーンママも喜ぶと思うよ。……それじゃあ、バイバイ」
優しい声に背中を押されるように、ふたりはドアに歩み寄る。その外に待つ者たちのもとへ。本来、在るべき世界へ帰るために。




