まゆげ
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
また、眉毛がなくなってる。
通学の電車の中、座席に座る私の目の前に立つ、スーツを着た若いおじさんを見てそう思う。
おじさんの右の眉毛は、真ん中から眉尻までの半分がなくなっている。うっすらはえてきた眉毛も、また次の日にはなくなっている。眉毛をいじっているのをよく見るので、きっと自分で抜いているのだ。眉毛を抜くのはストレスを感じているからだというのを、以前なにかで聞くか読むかしたことがある。
おじさんの眉毛は、ストレスのせいで半分消えた。働くというのは、相当しんどいことらしい。私は、おじさんの眉毛を見てそう思う。
高校生になったばかりの私だけど、時間は待ってはくれない。その証拠に、十五歳だった私は先日十六歳になった。このまま順調に歳を重ね、私も数年後には働くようになるだろう。もしかしたら、働きたくても働けないかもしれない。どちらにしても、きっとストレスを感じることだろう。そうなると、私も自分の眉毛を抜いてしまうのかもしれない。
私は、おじさんの眉毛をじっと見つめ、将来の自分を思い、少し涙ぐんでしまった。
「おじさん」
私は涙声で、ぐずぐずとおじさんに呼びかける。
「この席、どうぞ。座ってください」
おじさんはきょとんと私を見る。
「え?」
と言われ、
「え?」
と返す。
「もしかして、僕のことですか?」
おじさんは言う。
「そうです。おじさんのことです」
私は答える。
「おじさん……」
おじさんは自分でそう呟いて、
「ありがとう」
それでも私が立ち上がった席におとなしく座ってくれた。私は、背伸びをしてつり革につかまる。
おじさんは、私の降りる駅のひとつ前で電車を降りる。
「ありがとう。疲れていたので助かりました」
アナウンスが流れると、おじさんは言って立ち上がった。降りるおじさんに、負けるな! という気持ちを込めて手を振ると、おじさんは戸惑ったように会釈をし、背中をまるめて歩いて行った。
「おじさん、これをどうぞ」
次の日、私は遠慮するおじさんに無理矢理に席を譲ってから、ポケットから取り出した真新しい眉ペンを渡す。
「これは?」
受け取ったおじさんは戸惑ったように私を見る。
「眉ペンです。これで眉毛を描くんです」
「まっ」
おじさんは小さく声を上げ、右手で自分の眉毛を隠した。
「いまさら隠しても、眉毛がないことはわかっています」
「そうですよね」
諦めたように、おじさんは呟いて、
「ありがとう」
と、これまた諦めたように言った。
おじさんの降りる駅のアナウンスが流れる。
「きみは、どこの駅で降りるんですか?」
ふいに訊かれ、
「おじさんが降りる駅の、いっこ先。隣の駅です」
答えると、
「隣の駅か。未知の世界だなあ」
おじさんは言った。
「僕は、この駅から先に行ったことがないです」
「おじさん、眉毛描いてない」
おじさんの顔を見て、私はがっかりする。おじさんの右の眉毛は半分消えたままだ。
私は、今日も遠慮するおじさんに無理矢理に席を譲り、背伸びをしてつり革につかまっている。
「いやあ……」
おじさんは言って、うつむいてしまった。
「描き方がわからないなら教えてあげますよ」
そう提案すると、おじさんはぶるぶると首を横に振った。
「なんとか。なんとか、自分でやってみます」
おじさんは遠慮しいだ。
「あの」
おじさんはまさに遠慮がちに口を開く。
「僕は、まだ二十五歳なんです」
おじさんは言う。
「そうですか。私はもう十六歳になりました」
私も言う。
「え、あ、あー、もう……? なら、仕方ないですね」
おじさんは諦めたように言った。
なにが仕方ないのかよくわからない。大人になったら、仕方のないことが増えるのだろうか。
おじさんの降りる駅のアナウンスが流れる。
「お休みの日は、この駅より先に行ってみたらどうですか」
私は言う。
「気分転換になるかもしれません」
「それもいいかもしれませんね」
おじさんは諦めたようにうなずく。
頭のわるい私は、補習を受けることをつい先日、先生から提案され、土曜日も学校へ通うことになっていた。土曜日のこの時間帯の電車は、平日よりもほんの少しだけ空いている。
ぼうっと座席に座る私の隣に、誰かが座る。他の席も空いているのだからわざわざここに座らなくても、と思い、チラリと見ると、おじさんだった。今日はスーツじゃないので一瞬誰だかわからなかった。
「おはようございます」
おじさんは言った。
「おはようございます」
私も言う。
「おでかけですか?」
「いつもの駅よりも先へ行ってみようと思って」
おじさんは言う。私はうなずき、
「眉毛、やっぱり教えてあげます」
言うと、
「まっ」
おじさんは小さく声を上げ、右手で右の眉毛を隠す。
「変ですか」
おじさんはうつむく。
「ちょっと変です」
私はうなずく。
「おじさん、とりあえず、隣の駅で降りましょう」
「え?」
「眉毛、描き直してあげます」
私は、おじさんと電車を降りる。私にとってはいつもの駅だけど、おじさんにとっては隣の駅だ。
「わ、若い子が多い……」
別世界だ、などとおじさんは呟き、視線をきょろきょろと彷徨わせている。
「そこのベンチに座ってください」
私は言う。
「ちゃっちゃとやっちゃいましょう」
「え? え?」
おじさんはオドオドしながら言われるままに駅のベンチに座る。私はおじさんの膝にまたがって、眉毛を描き直してあげる。
「ひゃあ」
おじさんは妙な悲鳴を上げ、さらには両手を挙げ、無抵抗の姿勢を取った。
「やめてください。私がいじめてるみたいじゃないですか」
了
ありがとうございました。