第11話 狡いのは、誰?
喫茶店を出ていく敦の背中を見送ったあと、再びテーブルの上に目を落とした。
百円玉が三枚、綺麗な正三角形になるように置かれている。敦の几帳面な性格が滲み出ているようだ。
眺めていても仕方がないので、ゆっくりと手を伸ばす。
一枚、二枚と右手の指で百円玉を摘まみ上げ、左手の手の平に載せた。
だけどおかしいな。三枚目の百円玉は、つるつる滑って、上手く拾えない。
視界が揺らいで、慌てて首を横に振る。
すると、私の左側からトレーナーを腕まくりしたにゅっと長い少年の腕が伸びてきた。百円玉を拾い、私の左手に載せられる。
チャリ、と小さく音が鳴った。
「……オレ、余計なことしたかなあ……」
そのままストン、と向かい側に座ったのは、トラ。帽子を目深にかぶり、ややしょんぼりと肩を落としている。
どうやらまたしても、この喫茶店のどこかに潜んでいたらしい。
驚きはしなかった。何となく、いるような気がしていたから。
「オレが思ってたのより、ずーっと複雑だった」
「そうね」
「嘘でも、本当でもなかった」
「違うよ。嘘かもしれなかったことが、ちゃんと本当になったの」
「……え?」
トラが、ぽかんとした顔をする。
私が少し微笑むのを見て、ますます戸惑ったような表情を浮かべていた。
いいよ、分からなくて。
これは、私と敦の話。八年は無駄じゃなかったっていう話だから。
敦はきっと、私に話すことでようやく腹が決まった。彼女のお腹の子供の父親は自分だって。彼女を幸せにするのは自分だって、やっと覚悟ができたのだ。
ありがとう、は恐らくそういう意味だろう。清良が容赦なく突っ込んでくれたことで、最後は卑怯者にならずに済んだ、と。
でもそれは、敦が優しいからだろう。
やっぱり私は、敦にも彼女にも酷いことをしたと思う。こそこそ調べて好き勝手に推測して、二人が必死になって隠していたことを問い詰めるなんて。
「トラ。特技かもしれないけど、匂いだけじゃ肝心なところは何も分からないんだよ」
「……うん」
「でも、私が悪い。トラを止めなかったんだから。大人のくせにね」
「……」
「いろんな嘘があるね。いろんな本当も」
鞄から財布を取り出し、三百円をしまう。そしてどうにか気持ちを奮い立たせ、席を立った。
お会計をするためにカウンターに伝票を出しながら、近くに置かれていたカレンダーを見る。
明日は火曜日、久しぶりのお休み。
今日はこれから、どうしようかな。どっぷり反省会をしないといけないところだけど、今日ぐらい好き勝手やりたい気もする。
でも……もう、ヤケ酒はしないようにしないといけないけど。
喫茶店の重みのある木製の扉を開けて、人気のないフロアへと足を進める。コツ、コツと自分のパンプスの音がビルの壁に反響しているのを聞きながら、ゆっくりと階段を下りた。
外に出ると、もわっとした生温かい風と飲み屋街の喧騒に当てられ、思わず足を止める。酔って大騒ぎをしている集団やぴったりと寄り添っているカップルがあちらこちらにいた。
すうっと息を吸い込み、気持ちを入れ替える。楽しそうにはしゃぐ人たちの間をすり抜け、最寄り駅へと足早に向かう。
「――清良さん!」
アスファルトの上を走ってくる音が聞こえ、グッと左腕を掴まれる。
足を止めると、やや強めの力で強引に振り向かせられた。
トラが右手で私の左腕を掴んだまま、荒く息をついている。
「……何?」
「枝葉を取って考えようよ。清良さんは、何も悪くないよ」
「え……」
「彼氏が心変わりして、清良さんは一方的に別れようって言われたんだ」
「……」
「その理由を知りたいって思うの、変じゃないよ。清良さんは悪くない。オレが勝手にいろいろ嗅ぎまわって、余計なことを吹き込んだだけ」
「トラ……」
「ね、一人で泣かないでよ」
「何を……」
そう言われて、初めて気づいた。我慢したはずの涙が、いつの間にかすうっと頬を伝っていたことに。
慌てて空いていた右手の人差し指を眼鏡のフレームの下から差し込み、目尻をさっと拭う。そのまま誤魔化すように「ふふっ」と笑ってみせた。
「ちょっと、やめてよ。さすがに今は弱ってるから。頼りたくなる。本当に、グジャグジャになるから」
「だから、なっていいんだって。オレ、一晩中でも慰めるよ。清良さんをいーっぱい甘やかす。ね、だからオレと一緒にいよう?」
何て甘い誘いをするのかな、この子は。本当にガンダルヴァじゃないのかしら。
何もかも忘れて、すがりつきたくなる。……だけど。
「この涙は、失恋の涙じゃない。自己嫌悪の涙」
「……自己嫌悪?」
「そう。無くしてしまいたい。敦にフラれたあの夜から今までのこと、全部。ここ数日間の自分は、本当に嫌い」
「オレは好きなのに……」
トラのその言葉に、思わず笑みが漏れる。
やだな、もう。どうしてこの子の言葉はこんなに沁みるんだろうね。
「トラに甘えるのもいいね。そうしたい気持ちはあるよ」
「え!」
「でも、これまで二十六年間生きてきた矢上清良は、どうしてもそういう人間は許せないの」
多分目の前にいたら、何を甘ったれてるの、悲劇のヒロインぶって馬鹿みたい、自業自得でしょって、説教すると思う。
だけど、今日ぐらい見逃してよ、と思う自分もいて。今日ぐらい、全部棚上げしたっていいんじゃない?と自分を甘やかしたい気持ちもある。
「だから、トラ。甘えさせてもらうとしたら、今だけ。今日が最初で最後。私は全部忘れるよ。無かったことにする、何もかも。じゃないと無理、私が。後悔する」
「え……」
「それが嫌なら、腕を離して。何日かしたら、頼りがいのある知り合いのお姉さんに戻るから」
ね?と問いかけ、わずかに微笑む。
狡い大人の女で、ごめんね。
トラは人の気持ちに敏感だから、わかるよね?
「それって……どっちみち、次にオレを選ぶことは無いじゃん……」
トラは、私の言いたいことを正確に把握したらしい。やや項垂れながら口元を歪め、ひどく悲しそうな顔をした。
そうだね。無い。
あんなひどい出会い方して、こんな自己嫌悪に陥るような関わり方をして、そのままずるずるとトラと恋仲になることはあり得ない。
そんな私は、絶対に許せない。
だけど、今日は本当に凹んでるから。何も考えずに甘えたいときもあるから。
無邪気で素直なトラとの時間が欲しいと思っている自分もいるのよ。トラは、私が欲しい言葉をくれるだろうから。
だけど、それを決めるのをトラに任せてしまった。本当に狡いね。
それでも、トラの右手は私の左腕を離そうとはしなかった。
俯いたまま、微動だにしない。きっとこの二択に迷っているんだろう。
「……じゃあね」
しばらく無言の時間があって、そう声をかける。
トラはきっと最終的に私の腕を離すだろう、と思った。関係を断つ方じゃなくて、ただの知り合いに戻る方を選ぶだろう、と。
だからそう言って、腕を振り払おうとしたんだけど。
「嫌だ」
たった一言そう告げられ、グイッと引き寄せられる。そのまま懐に入れられた。背中に両腕が回って、ギュッと抱きしめられる。
「それならオレは、たった一晩でも清良さんと一緒にいる方を選ぶよ」
私より数センチだけ背が高いトラ。華奢に見えても、やっぱり立派な男の人の身体だった。
トラの心臓の鼓動が伝わってくる。その体の熱さも。
「だって清良さんをこのまま放っておくほうが、オレにとってはあり得ないから」
私の耳元で、トラが囁く。少しだけ、苦しそうに。
「……そう……なんだ……」
声が震える。
やだな、また涙が出てきた。何の涙かはわからないけど。
これは失恋の痛みでも自己嫌悪でもなくて……何だろうね。
溢れる涙と共に、私の輪郭が溶けて崩れて無くなってゆく。
その日、私は――自分の意思で、理性を手放した。
次回、最終話です。