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第10話 何が嘘で何が本当なのか

 金曜日、トラは宣言通り松岡建設の本社ビルに行ってきた。

 大月翼さんはもう退職が決まっていて、有給消化のため休みだったそうだ。しかし他の女子社員から

「海外事業部の永瀬さんと結婚する」

という情報が得られたらしい。彼女は敦の婚約者だと言っていたが、それには嘘偽りはなく、会社では既に既成事実として広まっていたそうだ。


「でも、いつから付き合ってたんだろ?」

「だよね。浦西さんにフラれたって噂、わりと最近まであったのに」

「いつの間にか指輪も外しちゃったもんね」

「もともと遊ばれてただけだったんじゃない? ほら、浦西さんの結婚相手って、ナカジン技研の専務の娘さんらしいよ。そっちが本命でしょ」

「彼女もそっちは遊びで、本命が永瀬さんだったのかな。出世頭だし」

「いや、あてつけじゃない?」

「可哀想、永瀬さん……いいように利用されて」


と、女子社員はかなり好き放題言っていたらしい。

 いったどうしたらそんな会話を聞くことができたのか疑問だったんだけど、そこは追及しないでおいた。女の集団ほど怖いものは無いし。

 まぁとにかく、彼女は会社内でかなりやっかまれていたんだろう。相当モテてたらしいから……女は怖いね。


 その辺の噂は話半分に聞くとしても、とにかく彼女が比較的最近まで浦西さんと付き合っていていつの間にか敦に乗り換えた、ということは事実のようだった。


 私はやっぱり、敦の肩を持ってしまう。何も知らない、と女子社員に嗤われていると聞いて、黙ってはいられなかった。

 でも……それは、間違いだったらしい。


 敦は、「全部知っている」と断言した。恐らくそれには、彼女のこと……彼女のお腹の父親のこともすべて、含まれている。

 全部わかってて、彼女と結婚しようと思ったんだね。そこまで覚悟を決めていたんだ。



「――――ごめん」


 長い沈黙のあと、そう口に出したのは私ではなく敦だった。

 びっくりして顔を上げる。いくぶん穏やかになった敦と目が合う。


「清良は、俺が騙されてると思ったんだよな。俺は清良を裏切ったのに、清良はざまあみろとは思わないんだ。ギリギリのところで見捨てられない」

「……」

「底意地は悪くないんだよな。それは知ってる。……怒鳴りつけて、ごめん」

「ううん……私こそごめん。立ち入り過ぎた。ちょっと、無神経だったよね」


 私は部外者だ。なのに正義感ぶって、何をやってるんだろ。

 そりゃ、彼女に突撃されて、あんな言われ方をして、かなりムカついた。その仕返しという気持ちが無かったかと言われたら、自信はない。


「……無神経なのは、俺だから」


 敦はそう言うと、すっかり氷の溶けてしまったコップの水を一気に飲み干した。


「……違うんだよ。翼が悪いんじゃない。俺が卑怯だったんだ」

「え……」


 店員が、空になった敦のコップに水を注ぎ、静かに去っていく。

 その後ろ姿を見送ると、敦は「全部、言うよ」とポツリと呟き、去年四月、本社に転勤になった頃からの話をし始めた。



   * * *



 本社勤務になり、敦は受付嬢の大月さんと出会った。

 社内で顔を合わせれば挨拶をしたり、他愛無い話をしたりして、ゆっくりと親しくなっていったという。二人きりでデートしたりとか、そういうことをした訳ではないけれど。

 ほどなく、彼女がナカジン技研の浦西哲也さんと付き合っているらしいという噂を聞いた。敦は密かに、ショックを受けたという。

 そのとき、自分が彼女を好きになっていたことに気づいたそうだ。


「噂されてるほど恋愛に器用じゃないんだよ。まぁ、噂されるぐらい上手には隠せていない、とも言えるか」

「そうね……」


 敦は浦西さんと仕事をする機会も多く、彼の女グセの悪さをよく知っていた。

 松岡建設内でもちょこちょこ話には出ていたが、実際の浦西さんはもっと酷かったらしい。

 気弱な敦は人畜無害とでも思ったのか、浦西さんは敦を気に入ったらしい。飲みにも付き合わされるようになって、そのとき自分の女性遍歴をまるで武勇伝のように語っていたそうだ。

 その中には、大月さんの話も含まれていた。

 

 何でこんなのと付き合ってるんだろう、彼女は。

 そう思った敦は、あるとき彼女にすべてぶちまけてしまう。

 そこには「自分に振り向いてくれないかな」という打算もあったかもしれない、無神経なのは俺、卑怯なのは俺だ、と申し訳なさそうに敦は呟いた。

 清良となかなか会えなくなったけど別れた訳でもない、そんな状態なのに、と。


 その後、何となく流れで彼女と関係を持ってしまったらしい。付き合っていると言えるような関係ではなく、ただ彼女を慰めるだけだったそうだけど。

 そして浦西さんのその事実を聞いても、彼女は浦西さんとの付き合いをなかなか止められなかったようだ。呼び出されれば応じていたようだ、と敦は言った。

 やがて浦西さんから「結婚するからもう終わり」と一方的に捨てられて、ようやく彼女は独りになった。


 それが、二か月前の出来事。彼女がいったい妊娠何か月なのか敦は言わなかったからわからないけど、彼女のお腹の子供の父親は、実際のところ浦西さんかもしれないし、敦かもしれない。

 だけどこれは、あくまで私の推測だ。敦はそんなことは一言も言わなかった。

 責任を取る、という言い方もしなかった。


「とっくに翼に気持ちが移っていた。なのに、清良に何も言わなかった。このまま自然消滅でいいんじゃないか、とか都合のいいことを考えていた。……ごめん」


 敦が言ったのは、それだけだった。あくまで彼女が大事だから、という意思表示。


「彼女は、私のことを知ってたの?」

「一応は。最初がそんな感じで、付き合っていたわけではなかったし。だけど……年明け頃かな。いつになったらちゃんと彼女にしてくれるの、と言い始めた」


 少し冷めてしまったブレンドを口に含みながら、敦が渋い顔をする。

 コーヒーの渋みのせいか、苦い記憶を絞り出しているせいかはわからないけど。


「もう自然消滅のようなもんだよって言ったけど、ちゃんと別れてきてくれ、じゃないと不安だって。妙に写真を撮り始めたのも、その頃かな。そっちだってちゃんとは切れてないだろ、と思わないこともなかったけど、そうやって俺にしがみついてくれるんならいいかって。……そのうち本当に別れて、ますます不安がるようになって。それで、二週間前かな。妊娠がわかって。情緒不安定になって、泣いて暴れて大変だった」

「……」

「そりゃそうだよな。浮気性の男に振り回されて、捨てられて。今度こそ、と思って俺を選んでくれたのに、肝心の俺がそんな状態だし。だから、本当に俺が悪い」


 敦は、彼女のお腹の子供が自分の子だと思っている。だけどそれは100%ではなくて、だからそれを別れの理由にするのを躊躇った。

 そして彼女は、そのことに感づいた。敦が私に妊娠のことを言わなかったことには不満だったし、不安だった。

 私に宣言することで、公の事実にしたかったのかもしれない。確信を得たかったのかもしれない。


 そう言えば三か月前に一度、敦から連絡が来た気がする。確か『ちょっと会えないか?』みたいな文面だった。

 だけど三か月前――1月と言えば、センター試験の直前だ。私は追い込み時期で忙しくて、

『無理かな。何の用事? メールじゃ駄目?』

とか送った気がする。その返事は……思えば、無かったような。


 今にして思えば、対応が雑だ。適当過ぎる。

 それに、本当に無理をすれば会う時間ぐらい取れたはずだった。今、こうして二人で会っているように。


 だけど私は、敦を後回しにした。

 敦はこの返事を見て、私への気持ちが完全に無くなったのだろう。

 つまり、私達の仲はとっくに終わっていたのだ。私が自覚していなかっただけで。


「清良に、どこまで言ったらいいかよくわからなくて。だから、曖昧な態度になったのかも。ただ、翼が清良を恨むような事態にだけはしたくなくて……」


 確かに、敦にしては彼女への対応が素早いな、とは思った。勘を働かせて予備校まで来るなんて、と。

 敦なりに私への配慮もあったんだな。あのときすぐに私たちに声をかけなかったのも、予備校の前だったから。


 あの状況で敦が現れたら、彼女は興奮して、確実に男女の修羅場と分かる展開になっていた。

 生徒が通るかもしれない場所でそれは、私の立場として非常にマズい。はっきり言って大迷惑。

 だから私がどうするか、しばらく成り行きを見守っていたのだろう。まぁ、私がどう彼女を扱うか丸投げした、とも言えるけど。


 あの地下の喫茶店で冷たい口調で私を断ち切ったのも、私を嫌いになったからじゃない。

 それは、何となくは分かっていた。だてに八年も付き合ってない。

 だけど……心にしこりが残ったのは確かだった。その八年を全部捨てないといけないのか、と。


「……ごめん。結局、全部喋らせて」


 いろいろ聞けて良かった。でもそれは私の都合で、敦は決して話したくはなかっただろう。


「清良は誰にも喋らないだろ。だから、まぁいいよ」

「うん。信用して」

「ああ。最初から逃げずに話せばよかった。俺も、ちゃんとしないとな。――父親になるんだし」


 父親、という言葉が妙に耳に響いて、思わず敦の顔を見た。

 口に出したことで、敦も踏ん切りがついたのだろうか。憑き物が落ちたような顔をして、コーヒーの最後の一口を飲み干している。

 そして店内の壁に掛けられた時計を見て、「じゃあ」と言いながら立ち上がった。

 続けてポケットから小銭入れを出し、百円玉を三枚、つるりとした木製テーブルの上に置く。

 三百円……この店の、ブレンドの値段。


「最後はワリカンな」

「……わかった」


 少し頷き、テーブルの上の百円に手を伸ばす。その様子を見ていた敦が、

「ありがとう、清良」

と言葉を落とした。

 ふと視線を上げる。一瞬だけ、敦と目が合う。

 過去を見つめる目だな、と思った。


「……どういたしまして」


 何にお礼を言われたのか、そして私もどういうつもりで返したのか、よくはわからない。

 敦は軽く頷くと、そのまま足早に外へと出て行った。



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 トイレのミネルヴァは何も知らない
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