第7話
臨時更新です。更新を火、木、土、日の12時頃に変更しました。
さて、互いにああは言ったもののいつまでも戻らなければソフィア……はわからないがポールたちは心配することだろう。それを理解している2人はどちらからともなくポールの家へと足を向けた。
音を立てないように────扉が耳障りな軋みを上げたのであまり効果はなかったが────細心の注意を払って彼らはポールの自宅へと戻ってきた。変わらず寝台の横にいたソフィアが振り向いたが、すぐ興味を失ったように目線を逸らされた。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているシリルを軽く小突いたルーカスは、重病人がいるとソフィアはいつもこんなだよ、と囁いた。へぇ、と数回シリルは頷き、手持ち無沙汰に周囲を見渡した。
ポールたちの祖母の様子は先程からあまり変わったようには見受けられなかった。むしろ悪化しているような節さえある。キャサリンはそんな祖母の左手を両手で包み込むように握っていた。そう言えばポールの姿が見えない。
訝しく思ったルーカスがソフィアに尋ねるか否か迷っていると、家の戸がまた音を立てて開いた。ソフィアが勢いよく振り向く。つられてルーカスも目線を向けると、そこにいたのはポールだった。
「先生、持ってきたよ! 」
ポールの手に握りしめられていたのは、ソフィアの診療室の棚に所狭しと並べられていた薬草の瓶だった。ソフィアはおざなりに礼を言うと、瓶を受け取り、調剤を始めた。
「薬師と医術士の違いって何なんですか? 」
小声でシリルはルーカスに尋ねた。ルーカスは、うーん、と悩む素振りを見せた。
「呼び方の違いって気もするけどね……。強いて言うなら、医術士の診療所には目を離せない患者さんが泊まれるってとこかも」
なるほど、とシリルは頷き、いやわかんないけどね、と答えるルーカスに、十分です、と微笑んだ。
「ねぇシリル」
不意にルーカスが言った。シリルはソフィアの手元から目を離さずに、何ですか、と答えた。
「あの薬草、この辺には生えてないって知ってた? 」
シリルはかぶりを振った。だよね、とルーカスは笑った。
「あれ、すっごく貴重なやつでさ。今ソフィアが使ってる分だけでざっと銀貨5枚分だよ」
シリルはぎょっとした顔をした。
それも当然である。銀貨1枚とは現在の日本円にすると1万円程度である。自給自足に近い生活をしているこの村の住人でも隣である領都に買い物に行ったりするため、最近では少しずつ貨幣が流通し始めている。金貨は馬鹿高い────日本円になおすとざっと100万円────ため、庶民は滅多に持たないが、銀貨と銅貨程度なら普通にやり取りが行われる。
ソフィアの職業は医術士、要するに皇都の試験を受けていないモグリの医官である。そもそも医官の試験は皇城に仕官するための試験であるから、民間で治療を行う医官は存在しないのであるが。
貴族や大商人を相手にするならともかく、庶民を診ているソフィアの懐はお察しの通りそう温かくはない。寧ろ、採算を度外視して治療しようとする性格の所為で寒々しいことになっている。
「……参考までにお伺いしますが、ソフィアさんって診療代はいくらお取りでしたっけ? 」
シリルが半目になって尋ねた。ルーカスは遠い目をして答えた。
「安い薬草なら材料費ギリギリ賄えるくらい。高いやつでも銀貨1枚までしか取らないし、払えない人には野菜を籠いっぱいで手打ち、後は出世払いとかが多いかな……」
……ご承知の通り、田舎のダキヘラ村出身の少年少女が出世して本当に代金が払えるようになるというのは相当のレアケースである。
「ですが、そんな貴重な薬草を……」
シリルは言い辛そうにその先を口籠った。ルーカスは力のない笑みを浮かべた。
「絶対に助からない人に使うのは勿体ない、って? 」
シリルは、すみません、と言って俯いた。そうだね、と哀しそうにルーカスは同調した。
「だけど、それでも家族としてはどんな手を使ってでも助けたい、楽にしてあげたいって思うと思うんだ。だって、家族だから」
シリルはもう一度、すみません、と言った。謝る事じゃないよ、とルーカスが言った。
「それはそれで“正しい”からね」
シリルが何か言おうとしたその時、ばあちゃん! 、とポールが叫んだ。驚いてそちらを見ると、ポールたちの祖母が薄っすら目を開けていた。熱は随分引いたようだ。
「おばあちゃん! 良かった……」
キャサリンは涙ぐんでいる。しかし、ソフィアはというと唇を噛んで俯いていた。シリルが目線でルーカスに問うた。ルーカスは小さく首を振った。
「センセ、ありがとうね」
シリルが初めて聞いたポールたちの祖母の声は嗄れていた。ソフィアは無言で首を振った。
「センセ、あたしゃ、判ってるよ。一時的な、こと、なんだろ。あたしにも、お迎えが、来たってことさ」
ソフィアがハッと顔を上げた。その瞳は潤んで、目元は赤く染まっていた。老婆は優しく微笑んでいる。言葉の意味を理解したポールとキャサリンの表情に驚きが走る。
「この子、たちと、ちゃんと、お別れできる。十分、過ぎるくらい、だよ。だから、そう泣かないの、ね? 」
優しく、諭すようにそう言った。ソフィアは駄々をこねる子どものように首を振った。
「アタシにはこれくらいしか出来ない。父さんなら、どうにかできたかもしれないのに」
ポロポロと涙がソフィアの頬を伝った。
「ばあちゃんにはアタシだって世話になったんだ。助けたいよ、出来るもんなら……っ! 」
老婆は困ったように笑った。
「センセ、人間、いつかは、死ぬんだ。あたしは、今がそうだ、ってだけ。レオが、生きてたって、それは一緒」
ソフィアは首を振り続けた。老婆は震える手を伸ばし、ソフィアの頭を撫でた。
「ポール」
老婆が呼んだ。彼女はもう祖母の顔をしていた。
「キャサリンと、仲良くね。お前は、優しい子だ。あたしの、誇り、だよ」
ポールも涙で目をぐしゃぐしゃにしながら、うん、と頷いた。
「キャサリン」
キャサリンは泣き出しそうに顔を歪めていた。
「ポールに、沢山甘えなさい。たまには、甘やかして、やりなさい。お前は、甘え、下手、だからね。人を、頼れる子に、おなり」
キャサリンの涙腺が遂に決壊し、彼女の目から涙が一気に幾筋も流れた。
「ばあちゃんは、双子神の御許でも、お前たちのことを、ずっと、見守ってるからね……」
辛うじてそう言い終えると老婆は激しく咳き込んだ。口元をおさえた手には血がベッタリとついていた。
「センセ、後のこと、頼んで、いい、かい」
ソフィアが何度も頷く。それを見た老婆は安心したように微笑み、不意にヒュッと音を立てて硬直した。慌ててソフィアが背を摩ったが顔はどんどん青くなっていき、その内それを通り越して土気色になり、……そのまま、息絶えた。兄妹はその間必死に祖母を呼び続けたが、老婆は帰らぬ人となった。
独特の重苦しさが家全体を支配した。
あまりに大きすぎる喪失に、誰も実感すら持つことが出来ない。何事もなかったかのように目を開けてくれはしないだろうか。いや、そもそも病気にかかったのすら夢だったりはしないだろうか。
誰も、何も言えなかった。何かを口にすればその瞬間、この喪失が本物になってしまう気がして。
誰かが、すん、と鼻を鳴らした。
それが引き金になったかのようにキャサリンが嗚咽を漏らした。ポールも声を上げて泣き始めた。ソフィアも、泣いていた。シリルは老婆に向き直って居ずまいを正し、そっと手を合わせた。目を瞑って神に祈っているらしい。
ルーカスはと言うと、1人何の反応も出来ずにいた。命の喪失に戦いているからではない。老婆の死を悼んでいないからでもない。彼女とは数回ソフィアの往診について行った時に言葉を交わしたことはあった。知らぬ仲ではない。だが、逆に言うとそれだけの関係だった。
ソフィアやポール、キャサリンのように泣くほど思い出があった訳ではない。だが、シリルのように祈る神もルーカスにはいない。そもそもルーカスはこれまでまともな葬式というものに参列したこともなければ、丁寧に誰かの死を悼むことができる環境にもなかった。
困ったルーカスは取り敢えず目を瞑り、老婆に心の中で語りかけることにした。神がいようがいまいが、霊魂が存在しようがしまいが無駄にはならないように思われたから。
それからの1週間は葬式だ、領主様への届け出だ、と目まぐるしく過ぎて行った。ポールとキャサリンはよく働いた。今は動いている方が色々と考えずに済むのだ、と笑っていた。
そう言えばポールはあの後ソフィアに謝罪した。もう長くはないと言われていたものの、実際そうなってみると気が動転して酷いことを言ってしまった、と。
ソフィアは首を振って、助けられなくてすまなかったね、と静かに言った。その言葉には万感の思いが詰まっているようにルーカスには感じられた。それが判ったのだろう。ポールは黙って深々と頭を下げた。
そしてポールたちの祖母の命の炎が消えた、その夜。帝都某所にて。
絢爛なシャンデリアが吊り下がった豪奢な部屋。金色に光り輝く玉座にゆったりと腰かけた壮年の男は、手に持った杖を強く床に打ち付けた。
「其方、今何と言った? 」
底を這う低い声から機嫌の悪さが伝わってくる。男の顔は真っ赤になっており、大粒の脂汗が浮いている。身をすくませながらも男の前で膝を折った青年は口を開いた。
「領地で当分静養させる、というのが我がアルスター伯爵家の当主の判断でございます」
ゆらりと男が奢侈な椅子から立ち上がる。
「もう既に皇都にはおらぬ、と? 」
男の身体が揺らぎ、足が絡れそうになる。横に控える側近たちが慌てて男を支え、玉座に座らせる。
「事後報告と相成ったことをお詫び申し上げるとのことでございます」
「糞が! 彼奴は余から大事なものをいくつ奪えば気が済むのだ! 」
男は唸った。手当たり次第にその場にあるものを投げつけていく。値がつけられない様な陶器や硝子細工が甲高い音を立てて割れる。男の呼吸は荒く、ゼエゼエと喘いでいる。
「貴方様はお下がりくださいませ」
男の側近に告げられた青年は一礼してその場を後にした。あれはまた荒れるだろうな、と誰にも聞こえない声で呟いて。