第6話
「お前は行かなくていいの? 」
ポールを見送ってからルーカスはシリルに尋ねた。シリルは困ったように笑った。
「余所者が混ざっていたらポールさんのおばあさまも居心地が悪いでしょうから」
ふうん、とルーカスは頷いた。
「じゃあ俺も行かない方がいいね」
ルーカスがそう言うとシリルは驚いたようにルーカスを見た。
「言ってなかった? 俺がここ来たのって1年前くらいだよ」
シリルは黙って首を振った。そっか、とルーカスは言った。暫く沈黙が落ちた。
「そういえば」
その沈黙を破ったのはルーカスだった。シリルはルーカスの顔をちらりと見た。
「何話してたの? さっき」
ルーカスが問うたのは、先程のポールとの会話の内容だった。ポールがあれほど素直に家に戻ることにしたのは何故なのか、単純に気になったのだった。シリルは恐らくあっさりと答えてくれるだろうというルーカスの予想は覆された。シリルは胡乱げな目をルーカスに向けた。
「今度はそれを聞きだしてどうなさるおつもりですか? 」
「へ? 何が? 」
何のことだかわからない、という顔をしてルーカスは言った。
「素直に認めるとは最初から思っていませんが……。貴方の目的が判らない以上お話しすることはありません」
「何のことだかわかんないよ。シリルは俺の事疑ってるの! ? 」
ルーカスの瞳は疑いをかけられたことのショックからか微かに潤んでいる。
「俺、やっと、お前と仲良くなってきたって、思ってたのに……」
ルーカスの鳶色の目から涙がポロポロと零れ落ちた。それを見たシリルは目に見えてオロオロし始めた。自分の勘を信頼していない訳ではないのだろうが、いざ否定されると自信が揺らいだのだろう。
そもそも皇太子の専属騎士という仕事は襲って来た人間に対処することであり、あったとしても怪しい人物をピックアップする程度までである。疑惑の域を出ない人物への尋問は当然業務外だ。
ましてルーカスは3ヶ月ほど一緒に過ごした相手である。シリルにも────少なくとも表面上は────好意的で、ソフィアとの間に摩擦が生まれようとした時にはさり気なく庇ったりもしていた。問い詰める姿勢は見せたものの、実はシリル自身の中にも迷いがあったのかもしれない。
一方ルーカスもどうしたものかと逡巡していた。今回はこの間の件とは質が違う。いくらルーカスが何事もなかったように振る舞ったところで、シリルはルーカスへの懐疑と疑いをかけた罪悪感で微妙な態度をとり続けることだろう。それはルーカスにとって非常に都合の悪いことだった。これでは今まで貴族嫌いの彼が敢えてシリルに対して友好的に接してきた目的を達成することは難しいだろう。
現状の悪化をやむなしと受け入れるか、博打に出るか。ルーカスはここ最近で最もと言って良いほど悩んだ。問題はシリルがルーカスの“目的”を共有するに値する人間かどうかだ。現在出揃っている手札としては弱い。
しかし、ルーカスが皇都に場所を移すのなら彼は良い足がかりになる。ここで協力を得られれば大きなメリットになる。
ちなみに、思考を巡らせている間、当然シリルもルーカスも何も言葉を発していない。目を合わせることもなく、ただ同じ方向、それも何もない空間を見つめて無言で立ち尽くしている。そのため、2人の様子を視界に入れた村人たちからは異様な光景にしか見えない。運悪く彼らを目撃した村人たちは何も見なかったことにしようと一様に目を逸らしたのであった。
ルーカスの眉間の皺がふっと消えた。彼の涙はもう既に乾いていた。
「……なんてね。お前良い勘してるよ」
笑みさえ浮かべてルーカスは言った。シリルは初めルーカスの言葉の意味が理解できなかったらしい。目を数回瞬かせて、勢いよくルーカスの方を見た。ルーカスはその様子を見てくすくす笑った。
「どういう、意味ですか」
シリルの声と表情はルーカスとは対照的に固かった。
「どういう意味って……。お前が言ったんじゃん、俺のこと疑ってるんでしょ? 」
シリルは口を半開きにしたまま硬直していた。興奮からか、驚きからか、それとも別の感情からか、その唇は震えていた。
「俺は何者だろうね? お前はどう思う? 」
ルーカスの声はいつもと何ら変わりがない。まるで今日の夕飯のメニューでも尋ねるように軽やかにルーカスは言った。
「……判りません」
そりゃそうだろうけどさあ、とルーカスはころころと笑った。
「間諜だよ」
恋人に睦言でも囁くように甘やかにルーカスは言った。ギョッとしたようにシリルはルーカスを見た。なあに、とルーカスは愉しそうに言った。
「予想はしてたでしょ? お前は思ってたよりは馬鹿じゃないみたいだから」
シリルは一瞬気色ばんだ。が、すぐに諦めたようなため息1つで流してしまった。
「……どこの手の者ですか」
低い声でシリルは言った。
「さあ? どこだろうね? 」
ルーカスは実に愉しそうな様子である。シリルは途方に暮れたような顔をした。
「では何故、僕にそれを明かしたのですか? 」
何でだと思う、とルーカスが問うとシリルはうんざりした顔をした。
「冗談だって。お前がその気なら協力して欲しいなって思ってね」
「逆に協力するとお思いですか? 」
呆れた様子でシリルは言った。僕は誇り高き帝国の貴族ですよ、と言う彼の顔には、しかしどこか陰があった。
「思うね」
ルーカスは即答した。シリルは怯んだ様子を見せた。
「お前が忠義を誓った皇太子は殺された。今の帝国にお前が忠誠を誓う価値はあるの? 」
シリルは言葉に詰まった。ルーカスは更に畳みかける。
「帝国は完全に腐ってる。こんな国がお前の主が望んでた国なの? 」
「そんな筈……! 」
思わずと言ったように噛み付いてからシリルは、しまった、とでも言いたげな顔をした。しかし、もう完全にシリルはルーカスのペースに乗ってしまっていた。
「そうだよね? けど、このまま放っておいたらこの国が勝手に良くなると思う? 」
シリルは無言で下を向いた。それは、下手な言葉よりも雄弁に否定を語っていた。
「……ですが、異国の甘言に乗ったからと言って解決できるという話でもないでしょう」
シリルはポツリと呟いた。ルーカスは蛇のような笑みを浮かべた。このような質問をするという自体、ルーカスの話に乗ることを検討しているということに他ならないからだ。本気でルーカスの誘いを拒絶するつもりなのであれば、これ以上の会話を拒絶するのが最適解だ。
シリルは既に蜘蛛の糸に絡まっている。あとはじっくりと毒を仕込んで身動きが取れないように堕とすだけだ。
「100%の忠誠を誓って駒になれ、なんて言ってる訳じゃないよ。寧ろ利用してくれて構わないし」
シリルの青い瞳が揺れる。
「このままじゃ皇太子様の生きた痕跡は近い内に消されるよ。お前はそれで良いの? 」
「ねぇシリル。良い事教えてあげる」
ルーカスは言葉を切った。シリルとルーカスの目が正面からかち合う。そしてルーカスは悪魔の囁きをシリルに吹き込む。
「皇太子に暗殺者を差し向けたのは当代の皇帝だよ」
当代皇帝と、そのただ1人の皇子である皇太子アーチボルトは犬猿の仲であったのは周知の事実である。皇太子が生まれるまでは皇帝と皇后の夫婦仲は円満であったのだが、アーチボルトが生まれてすぐ、皇帝は皇后の元を訪れなくなった。
当時は皇后の不倫も疑われたが、お披露目されたアーチボルトが年を追って皇帝に似ていったため、その噂も忘れられていった。しかし、皇帝とアーチボルトの確執が埋まることはなかった。
特にアーチボルトが成長してからは激化し、時には浪費癖のある皇帝をアーチボルトが公然と糾弾したこともあった。皇帝一強の帝国の制度ではアーチボルトはいつ廃嫡になってもおかしくない状況だった訳である。ただ、即位時のクーデターの際に大半の直系の皇族が当代の皇帝によって殺されたため代わりの後継者がおらず、ギリギリのところで免れていた。
つまり、皇帝が皇太子アーチボルトを殺したという話には十分信憑性があるのである。……ただし、次代の皇太子を見つけたなら、という話ではあるが。
「……ですが」
暫く沈黙した後にシリルは言った。
「いくらなんでもそのような無謀なことをなさるでしょうか」
ルーカスはその質問に乾いた笑みを返した。
「権力ってのは厄介だよね。何でも思い通りに出来なきゃ気が済まない駄々っ子を生むんだから」
シリルは思案するように俯いた。長い沈黙が続いた。いや、時間にすれば数秒に満たなかったのかもしれない。目を伏せたシリルは、不意に目を開けた。
「判りました。貴方に協力しましょう」
ルーカスは目を輝かせた。シリルの手を上から握り、ありがとう、と笑顔で告げた。
「ですが、条件があります」
ルーカスの笑顔が一瞬凍った。すぐに先程と同じ笑顔を浮かべ直したルーカスは、条件って何? 、とぎこちなく言った。
「教えて下さい。貴方が何者で、何を目的にしているのか、僕の尋ねる全てを」
暫く押し黙った後、そうだね、とルーカスは言った。
「けどいいの? お前って人が良さそうだから、俺の事情なんて聞いたら同情しちゃいそう」
からかうようにルーカスは言った。シリルは笑わなかった。
「構いません。ですからお約束を」
いいよ全部話す、と応じたルーカスに、シリルは、もう少し具体的にお願いします、と駄目出しをした。唇を尖らせたルーカスは、わかったわかった、と叫ぶように言った。
「俺、ルーカスはシリルに協力してもらう代償としてシリルの質問に全て真実を話しますぅ! 」
半ば拗ねた口調だったが、シリルはにっこりと頷いた。その笑顔に空恐ろしいものを感じたルーカスの背を冷たい汗が伝う。
「言質は頂きましたからね? 」
そうシリルが言った瞬間、シリルの手元が淡い紫色に光った。
「は? お、お前、魔法使えたの! ? 聞いてないし! 」
「はい。言ってないので」
動揺するルーカスにシリルは淡々と答える。脱力したようにルーカスがその場に崩れ落ちた。
「ですが、誓約を破らなければ何の問題もないでしょう? 」
「そうだよ、そうなんだけどね……っ」
シリルが使ったのは契約魔法の一種である。長ったらしい正式名称もあるが、通称“誓約”と呼ばれている。効果はその名の通り、誓約した者が誓約を違えると術者が設定した一定の罰を受けるというものである。
魔法が使える者はそう多くはない。そもそも魔法が使えるということを知られれば手の内が1つバレる訳であるから隠す人が多いという事情もある。あまりに魔力が大きければ周囲から看破されることもあるが、シリルはその例ではなかったらしい。
貴族には魔法が使える者が多い。というよりは帝国が成立した時代に魔法が使えた者が貴族に取り立てられたのかもしれないが。魔力もある程度遺伝性を持つらしく、魔力を持つ者の子どもは魔力を持つことが多い。
ちなみにルーカスは知らなかったが、アルスター伯爵家は知る人ぞ知る魔法の超名門である。カナリッチ侯爵家からの申し出を前伯爵が受諾した背景には次男の方が魔法の才能があったという事情もあったりする。しかし、兄であるハーディはともかく、シリルには魔法の才が乏しかった。それもまた知らぬ間にシリルのコンプレックスとなっているのかもしれない。
ルーカスの名誉のために弁解しておくと、彼は決して約束を反故にするつもりでいたのではない────必要とあれば裏切るつもりがなかった訳ではないが、嘘を吐けないとしても他にやりようはある────。ただ単に、軽い気持ちで言った言葉に縛られるとは思っていなかったため驚いているだけの話である。
シリルがくすりと笑みを溢した。
「とは言え僕は魔法は不得手な方なので。使える種類は限られていますよ? 」
「いやいや十分だって」
真顔になったルーカスは心の底から否定を返したのだった。