第34話
シリルは、幼い頃から周囲の顔色を窺って生きてきた。
不機嫌な人を見れば、その原因が自分にあるのではないかと萎縮し、上機嫌な人を見れば、自分のせいで不愉快な気分にしてしまうのではないかと恐れる。それが彼の癖だった。
だからシリルは、周囲から、「殺す」という決断を求められていることをよく理解していた。本心から伯爵のことを憎いと思っているわけでは────少なくとも現段階では────ないけれども、周囲は彼に、ブライアンを憎むことを求めている。
殺したいとは思えない。でも殺すと言わなくてはならないのかもしれない。
思わぬ真相をいきなり突きつけられたことで、シリルは完全に混乱している。正常な判断をするのはただでさえ難しい状態である。
いや、皇帝はそれが判っていて、あえて言っているのかもしれない。シリルを冷静にさせようとするどころか、むしろ混乱を煽っている節さえある。
「シリルよ。お前の望むように取り計らうぞ? 」
シリルの顔色は青を超えて真っ白である。周囲の品定めするような視線に貫かれ、シリルはもはや限界を迎える寸前だ。
不意に、シリルに天啓のように降ってきた言葉があった。それは、謁見の直前に、ルーカスから贈られた言葉。ルーカスは“魔法の言葉”と言っていただろうか。
決して複雑な言葉ではない。彼はただこう言っただけである。
「迷った時には、こうた……いや、アーチボルト殿下ならどう振る舞うか考えて。ずっと側で見てきたお前ならわかるはずだよ」
ルーカスの意図が分からず困惑したシリルであったが、今は自然とその意味が飲み込める。なぜルーカスがそのような助言ができたのか、などと言ったことは、今の彼の頭によぎらなかった。
シリルは一度深呼吸をする。不思議なことに、先ほどまでの混乱は波のように引いていた。外界からシリルを隔てていた意識の膜もいつの間にか消え去り、世界はいつも通り、静かにシリルを包んでいる。
「処刑の必要はありません。そして、僕自身もそれを望みません」
皇帝は片眉を上げた。思いもよらない言葉を聞いた、とでも言いたげな様子である。
「叛逆を企てたそこの罪人を、許す、と? 」
「彼の行ったことはあくまで隠蔽であって、叛逆ではありません」
皇帝は肘をついて、不機嫌そうにシリルを見下ろした。シリルの目が一瞬揺れる。
「……処罰の必要性は認めます。しかし、死罪は過剰です」
「太陽神の化身たる私の判断が間違っている、と? 」
誰も声を出さない。広間は水を打ったように静まり返っている。咳一つすら躊躇われるような重苦しい空気。
シリルは怯みそうになるが、真っ直ぐに皇帝の目を見据える。
「僕が正当な皇位継承者である、とのお言葉が真実であるのなら」
皇帝は、ふん、と鼻を鳴らす。シリルの身体が僅かに強張った。
「今まで父親らしいこともしておらぬからな。この程度の我儘は聞いてやっても良いだろう」
その場にいる誰もが予想しなかったであろう言葉に、誰かが、え、と声を漏らした。
当代の皇帝レックスは、逆らった者に容赦しない暴君として悪名を轟かせている。この大陸でそれを知らない者は一人もいないだろう。
最近では、先ほどのシリルのように皇帝に意見する者すら稀である。それを厭わない唯一の存在であった皇太子アーチボルトが死んだ今、むしろ一人もいないはずだった。
シリルの言葉を共感をもって聞いた、数少ない心ある貴族たちすら、シリルの死を確信した。だからこそ、誰も賛同の声をあげなかったのである。
「ブライアン・オブ・アルスター」
皇帝が威厳をもって伯爵の名を呼んだ。ブライアンは、固い声で返事する。
「命拾いしたな。今回は無罪放免にしてやる」
「……寛大なお言葉、感謝致します」
「お前のためではない。血の繋がった余の可愛い息子のためだ」
皇帝とアーチボルトの関係は、お世辞にも良好なものとは言い難かった。あまりに耳慣れない「可愛い息子」という言葉に、困惑が漂った。
当然、それを気にする皇帝ではない。
「話は以上だ。次の皇太子は余の第二皇子たるシリル、アルスター伯爵への咎めはなしだ。良いな」
一方的に通達を下す。全ての貴族が平伏し、従属の意を示した。
「巫女姫よ、そなたはどう考える」
「……月神は、陛下の決断を祝福なさいました」
「そうか」
本来であれば、神殿で神託を受けなければ判らないはずの神の意を、サマンサがこの場で語ったことに違和感を覚える者は誰もいなかった。そもそもこの問答自体が、今や形式的なものに過ぎないのかもしれないが。
「ではこれにて散会とする。皆のもの、大儀であった」
皇帝とサマンサが退席し、貴族たちが場を後にしても、シリルは茫然と立ち尽くしていた。張りつめていた気持ちが切れたのだろう。今頃になって、衝撃がシリルを襲う。
ずっと父だと思い続けていた人は父親ではなくて。漠然と主の仇だと思っていた人物が本当の父親で。アーチボルトの次の皇太子は、シリル自身。
「シリル"殿下"、これまでのご無礼、平にご容赦を」
「やめてください。……むしろ、これまでご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
無言で立ち尽くすシリルに声をかけたのは、ブライアンだった。
慣れた謝罪を口にしながら、シリルは、最後に面と向かって名前を呼ばれたのはいつだっただろうか、などと考えていた。記憶にある限り、これが初めてかもしれない。
「貴方の子ではないのに、ここまで育てていただいたのですから。十分です」
きっと、ここで涙の1つも流せないから駄目なのだろう。貴方の息子でありたかったと言える可愛げがないから。
ブライアンは、無言で頭を下げると立ち去った。広すぎる部屋に、シリル1人だけが残される。
慰めのつもりなのか、太陽は煌々と輝く。シリルには、唯一無二としての誇りを見せびらかすようにも見えた。
「……あのぉ」
気まずそうな顔をした使用人たちが、手に掃除道具を持ったまま固まっている。会場の後片付けに来たのだろう。使用人から貴族に声をかけるのは禁忌であるが、よほど困ったのだろう。
「すみません、すぐ出ますね」
シリルはそれだけ言うと、慌てて部屋を後にする。世界中から、自分だけが取り残されたような心地がした。
自室に戻る気にもなれず、シリルは城内を彷徨っていた。目的地もなくふらふらと歩くシリルを、通りすがる使用人たちは怪訝そうな顔で見ている。
シリルは足を止めなかった。動くのを止めた瞬間、心が死んでしまうような気がしたから。
「シリル? やっと見つけた」
だから、ルーカスに声をかけられたシリルは、そのことを全く嬉しいとは思わなかった。
「……今は放っておいてください」
「無理。……ごめんね、俺は、知ってたから」
掴まれた腕を振りほどこうとしたシリルは、ルーカスの懺悔に動きを止める。ルーカスはもう一度、ごめん、と呟いた。
「知っているのなら余計に。一人にしてください」
「うん、俺はそうすべきなんだろうね。だけど、嫌だ。今のお前を一人にはできない」
シリルの力が抜ける。ため息を吐いたシリルは、何かを振り切るように首を振った。
「……判りました、話をしましょう」




