第26話
1週間後。何とか段取りをつけた一行は馬車に揺られていた。
最初こそ、ソフィアは生まれて初めて乗る立派な馬車にはしゃいでいたが、今ではぐったりとしている。
ここ1週間は予定の診療を前倒ししたり、万一の際の対処を指示したりと、目の回るような忙しさだった。疲労が溜まっているのだろう。ただでさえ、長時間の移動は疲れるものである。やむをえまい。
「お、あれだっけ? 領主様のお屋敷」
雑然とした中にも活気のある領都の街並みを抜けた頃、ルーカスが言った。指先は、煉瓦造りの重厚な建物に向けられている。シリルは頷いた。
「はい。まあ、記憶にある限り、ここに来るのは2回目ですが」
「は、2回目? 」
「この間の、皇太子殿下の件があった後に呼び戻されたのが前回です」
相変わらず自身の感覚から大きく隔たったシリルの家庭事情に、ルーカスは面食らうのを通り越して呆れる。ルーカスは空を仰いだが、目に入るのは馬車の天井だけだった。
「それにしても、気乗りしないところを無理に……申し訳ないです」
何気ない調子で言われた言葉に、ルーカスは驚いたようにシリルを見た。
「なんでそう思うの? 」
「なんで、と言われましても……。そもそもルーカスさんは貴族自体お嫌いなのかな、と」
ルーカスの栗色の瞳がこぼれ落ちそうに見開かれた。キョトンとしているシリルに、ルーカスはにんまりとした笑みを向ける。
「いつ、気づいたの? 」
ルーカスの問いにシリルは怪訝な顔をした。しばらく考えて、ようやくルーカスの意図に気付いたようだ。少々目を見張った後、はにかむ。
「今までの僕なら、きっと気づきもしなかったでしょうね」
「これはかなりの成長、じゃない? 」
悪戯っぽくルーカスが笑う。シリルは照れたように顔を赤くした。
馬車の速度がゆるやかに落ち、やがて静かに停まった。御者の男────先日使者として送られたベンジャミンとは別人だ────が馬車の扉を開け、3人は到着を知る。男は無表情に、到着致しました、とだけ告げた。
屋敷に足を踏み入れると、そこには、使用人らしき男性がずらりと並んでいた。シリルの姿を認めた彼らは、お帰りなさいませ、と一斉に頭を下げる。
頭上は吹き抜けになっており、天井には絢爛なシャンデリアが輝く。床は顔が映る程に美しく磨かれ、棚には品が良く、高価そうな調度品が鎮座している。
ソフィアは居心地が悪そうに身を縮こまらせていた。対照的に、ルーカスは平然とした様子で時折興味深げに装飾品に目をとめている。シリルは当然飄々としていて、最も年配の男性───4,50歳程であろうか───と言葉を交わしていた。
彼らが案内されたのは、書斎らしき部屋の前であった。案内役の男────先程シリルと話していた男────が、木で作られた扉を4回ノックし、シリル様をお連れ致しました、と言うと、一言、入れ、とだけ返事があった。
男がゆっくりと精緻な細工が施された重厚な扉を開くと、険しい顔をした壮年の男が机に向かって座っていた。
「ただいま戻りました、父上」
ひどく緊張しているらしく、シリルの声は堅い。どうやらこの男性がシリルの父親、アルスター伯爵であるらしい。シリルとはあまり似ていない。青色の瞳だけが、シリルとの血縁を控えめに物語っている。
壁に飾られている肖像画がルーカスの目に入った。歴代の当主夫妻を描いたのであろう絵が並ぶ中、彼の目は右端の一枚に引き寄せられる。
目の前の男を20歳程若くしたような青年の横でぎこちなく微笑む女性は、驚くほどシリルによく似ている。違いと言えば、シリルの瞳は青色だが、彼女は若葉のような緑であることくらいだろうか。
この絵はシリルの亡き母親、エレアノーラ・オブ・アルスターを描いたものだとルーカスは密かに確信した。
ルーカスが絵を眺めている間にもシリルと伯爵の会話は進んでいた。親子らしからぬ、それこそ主従のような会話だったが。体調はどうだ、といった温かみのある会話はなく、端的な業務連絡のみが交わされる。
どうやら皇都にいるシリルの兄が急遽領地に戻ってきたらしい。詳細は彼に聞け、との話だった。
「そこの2人、よくやった。当主として礼を言う」
硝子越しのやりとりとして聞いていたのだろう。ソフィアは、不意に自分に向けて発せられた言葉に狼狽したように身じろぎした。
全く心の籠っていない礼の言葉だが、礼を言われて応えない訳にもいくまい。ルーカスは、ソフィアを庇うように一歩前に出て、人好きのする完璧な笑顔を浮かべた。
「お心遣いに感謝致します、閣下」
貴族に会ったことすらシリルが初めてなのだ。ソフィアに正しい振る舞いなど当然わかるはずもない。むしろそれができるルーカスがイレギュラーなのである。
「それから、礼として数日の滞在を許す。ゆるりと過ごされよ。金は足りなければそこにいるノアに申し付けよ」
「勿体ないお言葉でございます、って言って」
伯爵の言葉に忙しなく視線を移すソフィアに、ルーカスがそっと耳打ちをした。彼女が何とかラウラの言葉を復唱すると、シリルが退出の挨拶をし、退室の運びとなった。
「では、これから皆様を客間にご案内致します」
ノア、というらしい使用人の男は、恭しく腰を折って言った。
「僕は兄上にお会いしてきます。部屋の場所だけ教えてください」
「畏まりました。後ほどご案内させていただきます」
ノアの返答を受けたシリルは、頼みます、とだけ言って、その場を立ち去った。ソフィアとルーカスは顔を見合わせた。
「それでは、お二方はこちらへ」
頷き合った2人は、ノアの指し示した方向へ足を一歩進めた。
シリルは緊張した面持ちで、兄ハーディの部屋の前に立っていた。軽く握った右手を胸の高さまで上げ、一瞬動作を止めた。
深呼吸して右手をそのまま扉に近づけ、3回ノックした。どうぞ、と応じる声に、彼は意を決して扉を開き、足を踏み入れた。
ハーディは手紙のようなものを読んでいたが、シリルの姿を認めると、それをポケットに押し込んだ。
「お邪魔してしまいましたか? 」
遠慮がちにシリルが問いかけると、ハーディは、まさか、と温かく笑って否定し、席を勧めた。シリルが腰を下ろす。ハーディはベルを鳴らして使用人を呼び、紅茶の準備を言いつけた。運ばせた茶を手ずから淹れ、シリルの前に置いた後、シリルの前に座った。
「久し振りだね、シリル」
微笑んだ兄を前に居心地の悪さを覚えたシリルは身動ぎをして、口を開いた。
「その…兄上。到着が遅れて申し訳ありませんでした」
随分遅くなってしまった自分にも不快な顔1つせずにもてなしてくれるのは兄らしくはあったが、罪悪感は余計に増した。耐えきれなくなったシリルは恐る恐る謝罪の言葉を口にしたが、それを聞いた兄は目を丸くした。
「私はむしろ早かったと驚いているのだけれど。急いで出立してくれたのだろう?」
驚いたのはシリルである。
「ですが、お急ぎだったのでは?」
ハーディは、それはそうだけど、と言った後に、不意に得心がいったような顔をした。
「じゃあ彼が先走ったんだね」
「彼?」
思わずシリルが聞き返すと、お使いを頼んだ子だよ、と返される。あの高慢な態度は、どうやら兄に気に入られようと空回った結果だったらしい。思わず漏れた苦笑に、ハーディは、すまないね、と言った。
「兄上がお謝りになることでは」
慌てて言ったシリルの額を、ハーディは人差し指でコツンと叩いた。
「全くお前は相変わらずだね。もう少し肩の力を抜けば良いのに」
兄の笑顔は、以前と変わらない親愛と労りが満ちていた。シリルの心の中では黒い靄がチリチリと痛んだ。兄だって自分と同じ様に主君を喪っているのに。それもシリルのせいで。母が亡くなった時もそうだった。
どうかしたのかい、と突然黙ったシリルを案じてくれる兄にシリルは笑顔を貼り付けて首を振った。
「それで、何故僕をお呼び寄せに?」
シリルが尋ねると、ハーディは苦々しげに答えた。
「もし可能なら、と言うか出来るだけそうして欲しいのだけど…」
言い辛そうに続けられた言葉は、シリルを動揺させるには十分だった。
「私と一緒に皇都に戻ってきて欲しい」
「皇都に、ですか?」
聞き返す声は情けないことに震えていた。あの方の思い出が詰まった場所。戻ることはないかもしれないと、戻るとしてもまだ先のことだと思っていた場所。
「まだ無理かい?…それならそれで、何とかするよ」
弱々しい兄の声。ハーディを困らせることはしたくない。震える身体を叱咤して、兄には聞こえないように深呼吸した。
「何故、今なのですか?」
全身全霊をかけて、平静を装った声は思いの外しっかりしていた。ハーディーは驚いた様にこちらを見た。
「恐れ多いことに皇帝陛下が、どうしても、と」
言わないつもりだったのだろうか、シリルがこうして尋ねなければ。どうにか、とはどうするつもりだったのか。非公式とは言え、皇帝の勅命に、無理、の一言で応じることなど不可能だというのに。
シリルがこの男を心から兄だと慕えないのにはここに理由があった。確かに兄からすればまだ子どもなのかもしれない。だが、シリルはもう23歳だ。成人もとうに過ぎている。甘やかされている、と思う。
それはきっと兄の優しさで。判っていても、それでも、重要なことをいつも教えてもらえないことを、信用されていないと感じてしまうのだ。
皇都。どうせ勅命なのだ。ハーディーが何と言おうと、断る余地はない。ただ是と答えるだけのことだ。
それなのに、返事をしようとすると鳥肌が立つのだ。嫌だ。行きたくない。もうあの場所にも、ここにも戻りたくない。
今まではシリルに居場所がないのは当然のことだった。それはシリルが望まれない子どもであった以上仕方のないことだとずっと思ってきた。
だから、彼は傷付かぬよう、周囲との間に壁を作って、誰かのことを知ろうともしないで、自分の殻に閉じこもってきた。
シリル自身は気づいていないが、彼の敬語はまさにその表れだ。どんな相手とも一線を引いて、親しくなるまいとする彼の姿勢そのものである。
だが、シリルは人の温かさを再び知ってしまった。ソフィアの診療所で過ごした日々が、シリルの諦念にヒビを入れた。
この屋敷でも、皇都でも、シリルの居場所はきっとない。それは今のシリルには酷く恐ろしいことに感じられた。
そして、皇太子との思い出が染み付いた皇都で過ごすこともまた、シリルを怯えさせる。アーチボルトの面影を感じるたびに、彼は自身の犯した罪を思い知ることになる。
シリルの葛藤を────もちろんその本質は理解していないはずだが────察したハーディは優しく声をかけた。
「大丈夫。私が何とかしてみせるよ」
少し青ざめた顔で、シリルを安心させようと強張った顔で微笑もうとする兄。シリルの中で沸々と沸き上がってきた感情は紛れもない怒りだった。
それは、自分を子ども扱いする兄に対して。そして何よりそんな不甲斐ない自分に対して
また逃げるのか。己を責める声がシリルの中で木霊する。まだ息のある主を置いて行った時のように、罪悪感に耐えられずに領地への療養を受諾した時のように。
自分がこうだから兄もいつまでも自分を頼ってくれないのではないか。お荷物でいるのはもう沢山だ。いい加減自分の足で立たなければ。いや、しなければならないのではない、シリルがそうしたいのだ。
だって、もう今までと同じ日々に、シリルはきっと耐えられない。
「行きます」
感情のままに放った言葉は、不思議としっくりきた。頭に浮かんでいたのはルーカスの言葉だった。
『罪は背負ったまま、奪った命の死を意味あるものに』
思い出すシリルの背筋が自然と伸びる。
本当に自分にそんなことが出来るのだろうか。あの方に認められたことなとただの一度もないのに。
それでも、この気持ちが一時の感情に過ぎなかったとしても、これ以上同じ過ちを繰り返したくない。誰にも認められはしなかったとしても、自分で自分を誇れるようになりたい。無理だとしても、せめてこれ以上後悔したくない。もう逃げたくない。
立ち向かう勇気は持てないまま、だが、シリルははっきりと同じ言葉を繰り返した。
「行きます。僕は、変わりたい」
シリルのこの反応は予想していなかったのだろう。ハーディーは目を見開いて固まっていた。ややあって、シリルから視線を外すと気遣わしげに、無理することはないよ、とだけ告げた。
「……無理をしていないと言えば嘘になります。でも、僕はもう逃げたくないんです」
ハーディーは温い熱の残った紅茶のカップをのろのろと持ち上げて傾けると、ため息を吐いた。つられてシリルも一口紅茶を口に含む。随分と久し振りの紅茶だとふと思った。
「さっきの言葉を訂正しよう、お前は変わったよ。……きっと、良い意味で」
そう言ったハーディーの瞳から一切の感情が抜け落ちていることにシリルは気づかなかった。
「出立は5日後だ。それで良いかい? 」
その言葉に頷いたシリルが見たときにはハーディーは元通りの美しい微笑を浮かべていた。
ギリギリの掲示になってしまい、申し訳ありません。6/8分の更新は諸事情によりお休みします。




