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第23話

「お前は確か、皇后と会ったことはなかったな」


 アーチボルドの言葉は問いの形式をとりながらも、答えを求めていないように見えた。皇后の名はアンジェリカ、プルプレア王国の王女であった。そして、アーチボルトの母にあたる。シリルが皇城に上がる数ヶ月前に鬼籍に入った。


 何故アーチボルドは今このタイミングで亡き皇后の話をし始めたのか。シリルは疑問に思ったが、取りあえず黙って聞くことにした。……仕事に関係のない話をアーチボルドがするのは本当に久しぶりだったから。


「隣国から嫁いで来て、頼れるのは陛下だけ。あの男のことだ。さぞ優越感に浸ったことだろうよ」


 シリルは大広間に飾られた絵姿でしか知らない、故皇后を頭に思い描いた。プルプレア王国一の美姫と謳われた彼女は確かに愛らしく、しかし、どこか儚げな雰囲気を纏った女性だった。


「だが、それでも皇后は幸せだったはずだ。この国に来た最初の2年はな」


 その頃の皇宮で何が起こっていたのか、シリルは何も知らない。


「側室や寵姫は大勢いたとは言え、1人の女性だけを愛したことのなかった陛下が一途に自分の元だけに通って来たのだ。さぞかし女冥利につきたことであろうな」


 皇帝の周りには常に女性が絶えなかったという。ある妃を寵愛したかと思えば、すぐに飽きて別の妃の元へ向かう。後宮外の女性を見初めて、略奪同然に妃として迎えることも日常茶飯事であった。


 皇后が嫁いで来るまで最も寵愛を受けたのは第二妃であった。その彼女ですら皇女たちが腹に宿った折には別の妃嬪の元に皇帝を送り出したらしい。


 しかし、皇后アンジェリカが嫁いできてからというもの、彼女への寵愛は大層深く、妊娠中も皇帝は別の女性の元に通わなかったのだそうだ。


 そこまで寵愛の深かった、それも隣国プルプレア王国の王女でもあった皇后。彼女の第一子が待望の皇子であったこともあり、当時は国中がお祝いムードに包まれたらしい。


「…だが、それも長くは続かなかった。陛下は突然どの妃嬪の元も訪れなくなった」


 アンジェリカへの訪れは、アーチボルドが誕生する直前、何の前触れもなく途絶えたのである。そして、他のどの妃嬪の元にも顔を出さなくなった。後宮外の女性に手を出しているのかとも思われたが、その相手を新たに召し上げる気配もない。


「誰も原因はわからなかった。陛下に尋ねてもはぐらかされるばかりだったという」


 周囲は当然困惑したに違いない。女好きと揶揄される程様々な女性と浮き名を流していた皇帝が、1人の女性に落ち着いたと思われた矢先に、女性に興味を示さなくなったのだから。


「あるいは(わたくし)が“覇者の彩”を持っていれば、また結果は違ったのかもしれないが」


 “覇者の彩”とは神話に謳われる初代皇帝が持った色彩、黒い髪に紫の瞳のことを指す。当代皇帝は髪の色だけ条件を満たしており、瞳は緑色である。そして、生まれてきたアーチボルトの色は金髪翠眼であった。


「現実を受け入れられなかった皇后は、心を病んで、そして死んだ」


 アーチボルトの語り口はどこまでも他人事だった。


「だが不可解だ。何故陛下は皇后の元に通わなくなった? お前はどう考える? 」


 シリルは当惑した。当時の人たちにわからなかったことが自分に判るとは思えなかったからだ。シリルが黙って俯くと、アーチボルドは話を続けることにしたようだった。


「エレアノーラだ」


 シリルにはアーチボルドの言葉の意味がわからなかった。何故ここで母の名前が出てくるのだろう。


「何が、でしょう?」

「彼女が陛下の愛人だった、と言えば愚図なお前にも理解できるか? 」


 シリルは耳を疑った。母は死ぬ時まで父を愛していたはずだ。だが、皇帝に迫られて、それを一方的に断ることなどできようか。それに、アーチボルトがシリルに嘘を吐く理由が見当たらない。


 シリルが混乱しているのを見てとったアーチボルトは唇の片側をつりあげた。


「信じられなくても無理はない。私もエレアノーラから聞くまで想像もしなかったからな」

「そんな、そんなはず」

「エレアノーラの最期を看取ったのは私だ。知っているだろう」


 シリルは返す言葉を見つけられなかった。もしそれが事実であるなら、エレアノーラはアーチボルトにとって母親の仇とも言える。エレアノーラさえいなければ、皇帝の寵愛は途絶えなかったかもしれないのだから。


「アレも馬鹿な女だ。(わたくし)は皇后のことなど毛ほども気にかけていないというのに。勝手に(わたくし)を庇って、勝手に死んだ」


 エレアノーラの死因は毒だった。皇子の不在を理由に寵愛を得ようとした側室の1人が差し向けた刺客から、アーチボルトを守ろうとした結果だった。


 皇太子が相手の殺人未遂ということもあり、犯人はすぐに見つけられ、黒幕もろとも処刑された。


「どれほど(わたくし)の命が狙われようが無関心だった陛下が、迅速に犯人を処刑した。それが何よりの証拠ではないか」


 シリルは不意に気がついた。アーチボルトは、今まで皇帝のことを“父”と呼んだことも、皇后のことを“母”と呼んだことも一度もないということに。


「父親も母親も必要ない。そんなものがいなくても生きていける。だが、(わたくし)が享受するはずだった安寧を壊したのが、エレアノーラであることも事実だろう? 」


 アーチボルトは、くく、と喉を鳴らした。その声は笑いにも似ていたが、その目は全く笑ってはいなかった。輝きを失ったエメラルドは霧がかかったように曇っている。


「お前は本当にエレアノーラとよく似ているな? シリル」


 シリルの頭を兄の言葉が過った。

『シリルは母上によく似ているから』


 頭が一気に冷えた心地がした。一周回って、脳が冴え渡った感覚。


「それが、それが僕を疎む理由だと、おっしゃっているのですか? 」

「それがどうした」


 アーチボルトは嘲るように笑った。その声はどこか遠くから響いているように思えた。


 何が問題だというのか。シリルは自問自答した。理由が何であろうが結果は変わらない。シリル自身に問題があった訳ではないと判ったのだ。それだけでも十分な収穫ではないか。


 確かに母親が不倫をしていたことは驚きだった。だが、それはシリルには関係のないことだ。アーチボルトがどう思っていようと。


 シリルが無作法をしたからアーチボルトは怒っている訳ではない。自分には非がなかったのだ。これは喜ぶべきことだ。そのはずなのに。


「お前のことなど、どうだって良い。だが、その顔を見ていると不思議と腹が立つ」


 頭が真っ白になるとはこのことだろう。全身の筋肉に異様に力が入った。手が小刻みに震える。


「……なんで、なんで貴方は」


 ゆるせない。その言葉だけは。


「何か言ったか? まあお前の言葉に興味はないが」


 シリルの言葉はあまりに小さすぎて、アーチボルトには届かなかったらしい。嫌味を交えて聞き返される。しかし、シリルはそれに頓着する余裕を持ち合わせていなかった。


 アーチボルトの言葉を聞いた途端、一気に目の前が真っ赤に染まった。それは、怒りからか、それとも。




 シリルは、この直後の数秒で起きた出来事の記憶を持たない。シリルは何度も前後の記憶を必死に反芻することになる。それでも、その空白が埋まることは決してなかった。




 シリルを現実に引き戻したのは、濡れた高い音だった。屋根から雨樋を伝った水が、石畳を叩く音。ぴちゃ、ぴちゃ。その音は静寂の中で、やけにうるさく響いた。


 湿った冷ややかな風が、頬を舐める。シリルはぶるりと身体を震わせた。


 次にシリルの記憶にあるのは、シリルの目の前で、アーチボルトがゆっくりと崩れ落ち、膝をつく光景である。どさり、と鈍い音がした。


 手には銀のダガーが握られている。緻密な細工が施されたそれは、5歳の誕生日に賜ったあのダガーだった。幾度も主の命を守ってきたシリルの武器は、柄の部分まで生温い血で濡れている。刀身を鮮やかな赤色をした血が流れ、床に落ちた。一滴の血は、小さな紅の華を一輪咲かせた。


 ツンと鼻を刺したのは、鉄錆(てつさび)の匂い。


 アーチボルトが堪えきれない苦悶の声をあげる。彼は腹部を庇うように右手で押さえていた。溢れ出る鮮血はその白い手の上で幾筋にも分かれて、流れていく。


 自分は、今、何をした。


 シリルは指一本、動かすことが叶わなかった。声すら出せなかった。それは見えない枷で戒められてでもいるかのようで。シリルはただ、茫然として、どこか美しくすらある、凄惨な光景を眺めていた。


「……シリル」


 アーチボルトが荒い呼吸の中、シリルの名を呼んだ。彼は薄く微笑み、瞼を閉じた。その瞬間、全ての呪縛が解き放たれた。からん、と乾いた音をたてて、シリルはダガーを取り落とした。喉が、ひゅっ、と鳴った。


「うわああああああ! 」


 叫び声が遠くで聞こえた。喉が痛むと思ったら、その叫びはシリル自身のものであったらしい。彼はその場に崩れ落ちた。


 自分は、今、何をした。


 床についた手に、ぬるりとした温かいものが触れる。その手は瞬く間に赤く汚れていった。重い手を持ち上げ、シリルは血自らの手を見た。


 震える手を伸ばして、シリルはダガーを手に取った。感情のままに、手首を思いっきり切り裂こうとして、直前でピタリと止めた。アーチボルトの胸が、僅かに上下している。


 まだ、助かるかもしれない。


 シリルは立ち上がった。助けを呼ばなくては。早く、城に戻って医官を、仲間の騎士を連れて来なければ。絡れそうになる足を叱咤して、彼は皇城へ走り出した。


 雨は、いつの間にか止んでいた。

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