第20話
話を終えたソフィアは愉しそうな笑顔を浮かべていた。
「さて、これでアンタの興味は満たされたかい? シリル」
ソフィアの問いに、シリルは無言で頭を下げた。ソフィアは小さく笑った。
「父さんを超えられる気がしないよ。あの頃は凄さが判ってなかったけどさあ。父さんみたいにすり傷くらいなら一瞬で治せる、なんて境地は想像もつかないね」
先は長いね、と大袈裟に嘆いてみせたソフィアにルーカスは吹き出した。
「ま、死んだ人は超えられないって言うよね」
「そういうこった」
そう言ってクスクス笑う2人に、シリルは遠慮がちに声をかけた。
「あの……。そのお師匠様という方とお父上、もしかすると治癒魔法の使い手だったのかもしれません」
へ、とソフィアが硬直する。ルーカスは驚いたような顔をしたものの、なるほど、と呟いた。
「一瞬っていうの、てっきり比喩だと思ってたけど」
「比喩じゃなく、一瞬だったよ。あれが魔法なのかい? ちょっとあったかくなって終わりだったけど」
魔法って意外としょぼいんだな、という目線を向けられたシリルは苦笑した。貴族ならともかく、平民は魔法の実態も使い方も習わない。というか、そもそも学校がない。そのため、魔力が暴走するほどの使い手でなければ、平民として普通に生活を送っている場合もある。
「勿論、高位の使い手なら骨折なんかも治せますし、治癒以外にも色々ありますよ」
「アタシにも、使えるのかい……? 」
ソフィアの先程の失望とは一転、キラキラした目線をシリルに向ける。
「すみません、僕は治癒魔法も、魔法の適性検査も専門外なもので……。ただ、魔法は遺伝的要素が強いですから、可能性はありますよ」
シリルの説明にソフィアは、そういうもんかい、と不服を残しつつも、追及をやめた。
「まぁアタシの話はこれで良いだろ? 次はお前の番だよ、シリル」
シリルはその言葉にきょとんとした。ソフィアは苦笑した。
「交換条件、もう忘れたなんて言わないだろうね? 」
二、三度目を瞬かせたシリルは、あ、と声を漏らした。あはは、とルーカスが声を出して笑う。その笑みは今までの張り付けたような完璧な笑顔でも、嘲るような冷笑でもなかった。
年相応の弾けるような笑顔は、見る者を微笑ませる力を持っているようにも思われる。ルーカスにつられたのかシリルも声を出して笑った。
その笑顔があまりに無邪気で、ソフィアは息を呑んだ。シリル自身、信じられないとでも言いたげな顔をしている。
「僕は、まだ、笑えたんですね……」
しばらく躊躇した後、ソフィアはシリルの目を正面から見た。シリルもまっすぐに見返した。
「今度は、話してくれるかい? 」
「はい。全て話すとお約束します。僕がどんなに役立たずで、罪深い人間なのかも、全て」
シリルは、望まれない子どもとして生まれてきた。
シリルは自分が生まれた日のことを知らない。覚えていないのではなく、“知らない”のだ。理由は単純だ。誰からも教えられなかったからである。
誕生日がいつかは知っている。その日には兄ハーディが祝いの言葉をかけてくれるから。それ以外は何も知らない。誰からも望まれない子の扱いなんてそんなものだろう。
シリルは3歳まで領地で育った。母エレアノーラは乳母としての役割を全うするために、兄を連れて皇都に行っていたし、父ブライアンはシリルに一切の関心を持たなかった。そんなシリルが教わっていたのは最低限の礼儀作法だけだった。まあ何も覚えてはいないのだが。
シリルの最も古い記憶は、アーテル帝国皇太子アーチボルトとの初対面である。もちろん細かい記憶はない。恐らく跪いていたのだろう自分が、アーチボルトに促され、顔を上げた瞬間の記憶だと思う。
くすんだミルクティー色の髪に、エメラルドの瞳。その美貌は陽光のようで、輝かんばかりに光に満ちていた。あまりに麗しい主の姿に、神様はこんなに美しいのだと感心したのを覚えている。
アーチボルトは優秀で慈しみに溢れた皇子だった。田舎者で無作法なシリルが何か失敗したときには寛容に許し、叱ろうとする大人から庇ってさえくれた。
「シリルはまだ小さいのだから仕方がないよ。それに部下の不始末は皇子たる私の不始末だ」
嵐の夜、雷が怖くて眠れなかった時、ベットの中で静かに泣いていたシリルを慰めてくれたのも彼だ。甘え方が判らなくて、ただただ困惑するばかりだったシリルをアーチボルトは優しく抱き締めた。
「私をもう1人の兄だと思え。怖がらずとも良い。お前を決して1人にはしまい」
ハーディも優しい男だったのだが、彼自身急に現れた弟にどのように接したものか、はかりかねていた。その点アーチボルトは、躊躇いなくシリルを慈しんだ。シリルが主に格別に懐くのは時間の問題だった。
シリルの5歳の誕生日。シリルはアーチボルトからダガーを賜った。意味も判っていないシリルに、エレアノーラは静かに命じた。
「お前は騎士になるのですよ。アーチボルト様をお守りする力を身につけなさい」
シリルはしばらく目を瞬かせていたが、何かに気づいたように目を輝かせた。
「きしになったら、アーチボルトさまを守れるのですか? 」
アーチボルトは目を細めて頷いた。シリルは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「それなら、ぼく、きしになります! アーチボルトさまをまもります! 」
「楽しみにしている。……ときにシリル、専属騎士を知っているか? 」
言葉の後半で不意にアーチボルトは笑みを消した。シリルは異様な雰囲気を感じ取りつつ、正直に首を振った。
「専属騎士になれば、皇帝陛下ではなく、私に直接仕えることになる」
シリルは話がよく判っていないままに頷いた。
「専属騎士になる道は険しい。出世も捨てることになる。だが……。私は、最も信頼のおける騎士を側においておきたい」
「それなら、ぼくはせんぞくきしになりたいです。だれよりもちかくで、あなたをまもりたい」
一も二もなくシリルは頷いた。そんなに素敵な職業があるなら、そうなりたいと思ったから。アーチボルトは、くすり、と笑った。その表情は、8歳という年齢に見合わないほど憂いを帯びていて、酷く大人びたものだった。
僅かな危うさを内包しながら、シリルの人生で最も穏やかな日々が過ぎていった。しかし、神はシリルが穏やかな人生を歩むのを許すほど優しくはなかった。そして、“穏やかな日常”なるものは、創り上げるのも維持するのも大変だが、壊すのだけは一瞬で出来てしまうのだ。
6歳になったシリルは、騎士となるための訓練を受け始めていた。当然、現役の騎士たちに混ざる訳ではない。退役した近衛騎士に稽古をつけてもらうのである。
その日、シリルは初めて遠駆けに出た。いざ出発というときに、珍しくエレアノーラが姿を見せた。彼女がシリルに構うことは滅多になかった。母である以前に皇太子の乳母として振る舞う人だったから。
「アーチボルト様をお守りするため、励むのですよ」
エレアノーラの言葉を意外に思いながらも、シリルは、はい、と神妙に頷いた。それを見届けたエレアノーラはその場を立ち去った。まさかそれが母親との最後の会話になろうとは、誰も知る由もなかった。
遠駆けを途中で切り上げて帰ってきたシリルは息を切らしながら目的の部屋に向かった。ノックもなしに勢いよく扉を開ける。ベッドに横たわったエレアノーラの顔には白い布がかけられていた。
「ははうえ、さま……」
呆然とシリルは呟いた。不意に扉が開き、アーチボルトが姿を現した。彼はシリルが見たことがないほどに強張った顔をしている。シリルは無意識のうちに縋るような目線を向けた。今までであれば、アーチボルトは優しくシリルの頭を撫でたことだろう。
しかし、アーチボルトはシリルの存在を完全に無視した。戸惑ったシリルは様子のおかしい主を呼んだ。
「……アーチボルトさま? 」
「黙れ、気安く呼ぶでない! 」
聞いたこともない主の怒号にシリルは身体を震わせた。酷く意識が遠く感じられる。自分の身体が自分のものではなくなったようだった。鼻の奥がツンとした。目元が熱くなる。みるみる目の前が歪んで、白い光の筋が眩しいほどに視界を満たした。
堪らずシリルはその場から走り去った。訳も判らずに長い廊下を走る。すれ違った使用人たちが驚いたように振り向くのにも、今は気にならなかった。
これは全部夢だ。悪い夢に違いない。早く眠ってしまいたい。目が覚めれば、またいつも通りの日々が始まるはずだから。きっとそうだ。そうに違いない。
期待も虚しく、悪夢はいつまで経っても覚めはしなかった。
シリルがエレアノーラと暮らしたのは3年にも満たない期間だった。彼女はアーチボルトを我が子よりも愛し、彼のために尽くしていた。……シリルが怪我をしようが熱を出そうがお構いなしで。それでも、シリルは母親の死に、ショックを受けた。そう矛盾した話でもない。愛して欲しいと願うことは、愛していると告げることとそう大きな差はないのだから。
しかし、母親を喪ったこと以上に彼を追い詰めたのは、アーチボルトの態度の激変だった。優しく、シリルを甘やかしてさえいたアーチボルト。彼は、エレアノーラの死を境に手のひらを返したように冷たくあたった。
不可解なことに、アーチボルトの兄ハーディに対する態度は変わらなかった。それこそ血を分けた兄弟のような、互いへの信頼が透けて見えるような、そんな関係である。だからこそ、余計にシリルは傷ついた。
「シリルは母上によく似ているから。アーチボルト様もお辛いのだと思うよ」
ハーディはそう言ってシリルを慰めた。シリルは決まって首を振った。そうでないことはシリル自身が一番よく知っていた。
エレアノーラの死から何年経っても、アーチボルトの態度は一向に変わらない。それどころか寧ろ悪化している節さえある。何より、アーチボルトの視線に込められているのは乳母への思慕ではない。明らかに、アーチボルトはシリルを憎悪していた。
理由も判らぬ憎悪を向けられるのは精神を削られるものである。まして、その相手が自分が誰よりも敬愛してやまない人であるならば尚更。シリルの心は次第に凍りついていった。
誰に対しても敬語しか使わない。愛想笑い以上の笑顔も浮かべない。傷つけられても顔色1つ変えない。
すっかり意思を持たない人形に成り果てたシリルは、それでもアーチボルトの専属騎士になるのをやめようとはしなかった。母親の死以前よりも鍛錬に没頭するようになった。アーチボルトへの捨て去りきれない想いだけが、シリルを人間であらしめていた。
シリルが泣かなくなったのは悲しくなくなったからでも、アーチボルドが元通り優しくなったからでもない。慣れてしまったからだ。そしてそれを受け入れざるを得なかったからである。シリルが、アーチボルトが何を思おうが、シリルがアーチボルドの専属騎士に、腹心になることは既に決められたことであった。
シリルは色んな物を捨てたのだ。アーチボルドの瞳に愛情の色を探してしまう目を。アーチボルドの口から零れる冷たい言葉を拾ってしまう耳を。余計なことを言ってアーチボルドの気分を害してしまう口を。傷ついて血を流す心を。
シリルは全てを諦めることにしたのだ。優しくしてくれた人でも自分から離れてしまうのだ。それは裏切りではない。最初からそうなると決まっているのだから。自分が無価値な人間だから、仕方がないのだ。
シリルは泣かなくなった。アーチボルドの言動の一つ一つに傷つかなくなった。無価値な人形なりに、自分の役割を全うしようと思う様になった。愛されたい、とも思わない様になった。
捨てることもできなかった昔の優しくしてくれたアーチボルドとの残酷な程に美しくて優しい思い出には何重にも鍵をかけて、胸の奥に閉まった。幾筋かの涙と共に。




