第18話
翌日の夜。シリル、ルーカス、そしてソフィアの3人は再び集まっていた。
「今日はソフィア、その後にシリル、だよね? 」
ルーカスは確認すると、残りの2人は各々頷いた。
「それじゃあまずはアタシだね」
そう言ってソフィアは話を始めた。ルーカスは身を乗り出した。
ソフィアはここ、アーテル帝国アルスター伯爵領ダキヘラ村で生を受け、ダキヘラ村で育った。彼女は自分の母親の顔を知らない。知っているのはアリアという名前だけ。彼女は産後の肥立ちが悪く、命を落としたと聞かされた。そして、ソフィアの父、レオナルドはソフィアと同じ医術士だった。彼もまた村で唯一の医術士だった。
レオナルドは日曜日以外は毎日診療所を開いていた。彼はどこか信仰心に欠けた男で、日曜日でさえも急患が出たら礼拝を放り出して患者の元に駆けつけるような人だった。そのため、妻を喪った彼はソフィアを育てることに匙を投げた。
妻の葬儀の翌日、レオナルドはソフィアを腕に抱いて村で商店を営む両親の元で授業中だった兄夫婦を訪ねた。養女として引き取って欲しい、と彼は切り出したのだという。
「俺には無理だ。子どもなんてロクに関わったこともないのに」
突然そう言った弟にギルバートは驚いた様子を見せた。
「何言ってんだ、アリアの忘れ形見だろ? 」
レオナルドは何かを堪えるように握った拳に力を込めた。
「医術馬鹿の親父1人で育てるより、養子に出してでも両親揃った家庭で育った方がこの子のためだ。兄さんたちになら安心して預けられる」
そう言って頭を下げたレオナルドは沈痛な面持ちをしていた。彼の表情が何よりも雄弁にこの決断が苦渋のものであることを示していた。無理もない。妻を喪った直後に娘さえ手放そうと言うのだから。レオナルドの揺るがぬ決意を感じ取ったギルバートは言葉を失って黙ってしまった。
硬直した場を動かしたのはギルバートの妻、ヴィクトリアの一言だった。彼女はキッパリと言い放った。
「養女なんてお断りやわ」
慌てたのはギルバートである。傷心中の弟が不器用なりに生まれたばかりの娘のことを思いやって決めたことだ。兄として尊重してやりたいと思う。一方で妻はその申し出を拒絶した。惚れた女の願いは叶えてやりたいものだ。兄としての立場と夫としての立場、どちらをとったものかとギルバートは逡巡した。
ギルバートの心中を他所に、ヴィクトリアは言葉を続けた。
「この子はレオちゃんとアリアちゃんの娘や。アリアちゃんがおらへんのやからレオちゃんが育てんでどうするん? 」
レオナルドがハッと顔を上げる。
「面倒見れへん時があるならウチで預かったる。やから、この子はアンタが育てぇ」
レオナルドは腕に抱いた娘を抱き締め、深く何度も頷いた。その目には涙が光っていた。
「ありがとう、義姉さん」
ヴィクトリアはその様子を見て満足げに微笑んだ。
「手伝いは惜しまへんから、何かあったら遠慮せんと言い? 」
こうしてソフィアは伯父夫妻の援助を受けながら実父と暮らすこととなった。アリアの死は既に知れ渡っていたため、村人も父娘への支援は惜しまなかった。夕飯を届けてくれる者、掃除を手伝ってくれる者などその形は様々であった。特に伯母のヴィクトリアは、乳児期のソフィアを実子のように世話し、大きくなってからも、母親がわりにソフィアに家事や読み書きを教えた。そのお蔭でソフィアは大きな不自由なく、スクスクと育っていった。
さて、医術士に限らず大半の職業は世襲である。親から子、子から孫へと知恵を繋いでいくのが、手に職をつける上では最も効率的だからだ。しかし、実はレオナルドは医術士の息子だった訳ではない。商家の次男だったが、成長とともに医術を志すようになった。当時のダキヘラ村に医術士はいなかった。誰か病人が出ても手を焼くばかりであった。それも彼に医術士という道を歩ませた1つの要因だったのだろう。
だが、レオナルドの道は平易ではなかった。医術士の子でない彼は自力で師を見つけなければならない。幸い、彼は師を1から探す必要はなかった。たまたま村にやって来ていた、とある流れの医術士にすっかり惚れ込んでいたからである。口が上手くない彼は、弟子入りの申し出すらうまく出来ず、溢れんばかりの熱意を伝えることも難しかったらしい。やっとのことで、師事することに成功し、彼は医術を学んだ。
そして、兄ギルバートの後押しもあり、兵役を終えた後にこの診療所兼自宅を建てたのだ。ソフィアの伯父と父が村の大工衆に扱かれながら築いたこの診療所は今もなお現役である。
レオナルドは無骨な男だった。それこそ医術士よりも職人の方が向いているのではないかと思えるほどであった。患者としてやってくる村人との問診もぎこちなく、娘の目からも不安になったものであった。しかし、彼は村中から信頼されていた。口下手な彼の心に、1人でも多くの患者を救いたいという志があることを皆知っていたのである。
最初こそ、先祖代々続いてきた店で兄を手伝うという彼に敷かれたレールを外れたことに冷たい言葉を浴びせられたこともあったらしいが、ソフィアが記憶する限り、仕事熱心なレオナルドは村中の人々から慕われていた。そんな父親をソフィアは誇りに思っていた。
「ねえ父さん」
ソフィアが呼びかけると、レオナルドはソフィアに目線を寄越した。ここで笑顔の1つでも見せれば良いのに、それが出来ないのがレオナルドという男である。しかし仏頂面の父親にもソフィアはすっかり慣れていたので、特段それに対する反応はしなかった。
「どうして父さんは医術士になったの? 」
レオナルドは苦い笑みを浮かべた。
「商人以外になりたかったからだな。昔は、だが」
ソフィアはキョトンとした。
「昔はってことは、今は? 」
今度はレオナルドが目を丸くする番だった。
「お前ってやつは……。気にするのはそこか? まあいい、誰かを助けたいから、というのが一番近いだろうな。……誰かを守れるから、俺自身に価値を見出せる」
ソフィアは、ふうん、と頷いた。
「病気から人を守るの? 」
ちょっと違うな、とレオナルドは笑った。その瞳には慈愛の色が満ちていた。
「医術士ってのは、人の身体を治して心を守るもんだからな」
幼かったソフィアは、レオナルドの言わんとすることの全てを理解できた訳ではない。それでも、医術士という仕事を、父親が誇りにしているのは深い部分で理解した。そして漠然と憧れをもった。村人たちも、ソフィアが診療所を継ぐものと信じて疑わなかった。
しかし、成長するにつれてソフィアは医術士という職業を忌避するようになっていった。理由は1つではない。だが、小さな違和感が少しずつ積み重なり、やがてそれは無視できない大きなわだかまりとなった。
レオナルドは急患が出ればすぐに患者の元に駆けつけ、治療にあたった。例えその日がソフィアの誕生日であっても、アリアの命日であってもお構いなしで。そのせいでソフィアが約束を破られた回数は1度や2度ではない。いくら仕方がないことだと周囲の大人から諭されても、子どもとしては納得し難いものがあった。ソフィアはいつしか、レオナルドに親という役割を期待するのを辞めてしまった。
レオナルドの通常業務は診療所での診察である。必要があれば往診も行った。赤ん坊の頃はともかく、ある程度成長してからはソフィアもそれを手伝った。頼まれた薬を棚から取ってきたり、包帯を巻いたりとすっかり小さな看護師が板について来ていた。
それに加えて、突然誰かが病気になったり大怪我をしたり、それが悪化したりすると、レオナルドは仕事に向かった。そんな緊急時にソフィアを連れて行く訳にはいかない。レオナルドは彼女を1人で家に置いて行かざるを得なかった。それは合理的な判断だったと言える。治療のことだけを考えれば子どもは邪魔になる。
だが、いつ帰って来るとも知れない父親を誰もいない家で待ち続けるのは幼子には酷だった。昼間であればまだ良い。嵐の夜に1人で取り残されたこともあった。ヴィクトリアとて暇ではない。不定期で突発的な急患に合わせていつもソフィアを世話することは難しかった。それでも無理を押してソフィアを孤独にさせまいとする伯母の性格をよく知っているソフィアは、次第に伯父夫妻を頼らなくなった。いつも通りに家事をこなし、夜には部屋の隅で膝を抱えて座っていた。夜に眠るのが怖くて、昼間に睡眠をとった。
ソフィアが最も恐れていたのはレオナルドの帰宅だった。勿論、ソフィアは親としての期待はしていなくてもレオナルドのことを愛していたし、彼は暴力を振るうような父親ではなかった。疲れ切ってボロボロの父親の世話をしたくなかった訳でもない。それに疲れていてもレオナルドは明るく振る舞い、ソフィアを労ってくれた。…患者が回復した時には。
レオナルドは真摯に患者に向き合う男だった。自分のことを二の次にしてでも患者を救おうとした。だからこそ、救えない命に、どれ程必死に手を尽くしても指の隙間から溢れ落ちていく命に耐えられなかった。普通の医術士も患者の死には心を痛める。しかし、どこかで気持ちを切り替えなくては心が悲鳴を上げる。そして、レオナルドはこの切り替えが下手だった。もっとダキヘラ村が大きくて、もっと患者が多ければ、あるいは割り切れるようになっていたのかもしれないが。
レオナルドが帰宅した時の第一声でソフィアには患者の生死が判った。患者が死んでしまった時のレオナルドは見ていられない程苦しんだ。こらえきれない嗚咽を漏らし、自分を痛めつけようとさえした。それなのにソフィアに気づくと、ソフィアを安心させようと無理に笑おうとする。そして失敗したその顔がソフィアは何より嫌いだった。患者を喪う度にレオナルドは命を削っているように思われる程憔悴した。
ソフィアは父親の姿を誰よりも近くで見ていた。だからこそ、自身は医術士にはなるまいと決意した。レオナルドにその意志を伝えると、そうか、とだけレオナルドは言った。
「俺も両親とは違う道を辿ったんだ。お前も好きにしたらいい」
そう言って少し寂しそうに笑った。
そして、無理が祟ったのか。ある時、レオナルドは病を患った。ソフィア18歳の夏だった。




