序章
穴だらけの屋根から、幾筋かの月光が冷たく辺りを照らしている。漏れ出たその光は倒れ伏している男の姿を映すには十分過ぎるほどだった。
飛び散った紅。赤く染まったシャツ。微動だにしない身体。彼の命の炎が既に消えているのは、誰の目にも明らかだった。
「そんな……」
思わずといった様に立ち尽くした5人の中の1人が呟き、共に吐き出された白い息はすぐに溶け消える。
赤髪の彼は純白の皇国騎士団の制服を纏っており、年の頃は30代半ば。その他の4人もまた薄明かりの中でも騎士と分かる特徴的な紋様が浮かび上がっていた。
その言葉が引き金になったのか、騎士たちは口々に嘆きの声をあげた。
しかし、際立って若い青年は薄く唇を開いたまま何も言わずに呆然としている。その様子に気づいた仲間の1人は痛ましげな表情で声を掛ける。
「シリル…」
ハッとした様にシリルと呼ばれた青年は顔を上げた。
「あ、あ……」
顔面は蒼白で、彼の瞳は何も映していない様に茫洋としていた。そしてその唇は綺麗な瞳の色と同じぐらい青ざめていた。
「……あまり、自分を責めるなよ」
湿った声で赤毛の騎士が言った。
「ああ、殿下もそんなことは望んでいらっしゃらない筈だ」
別の騎士もひきつった笑みを浮かべて言ったが、その声は涙で震えていた。
「アーチボルト、さま」
シリルはそこで初めて意味ある言葉を紡いだ。次の瞬間、彼は既に暗く変色しつつある血に塗れた、事切れた男の元に駆け寄り、その身体を激しく揺さぶっていた。赤が白い騎士服を汚していく。
「アーチボルト様! 殿下、殿下……!」
血を吐く様な叫びが静寂にこだました。
茶髪の騎士が勢いよく青年の手を掴んだ。
「止めろ! ……もう、静かに眠らせて差し上げろ」
声を荒げた騎士は、言葉の後半で静かに一筋の涙を流した。
「アーチボルト様!」
仲間によって引き離された後も、青年は悲痛な声で名を呼び続けていた。人形の様に細く白い手足を滅茶苦茶に動かす彼を道具も使わずに拘束するのは、本職の騎士である彼らにとっても大きな負担であるようだった。中性的な見た目ではあるが、存外力は強いようである。
「ちっ、誰か拘束魔法使えるやついないか!?」
騎士の1人が声を荒げた。
「いや、必要ない」
その問いの形をとった要請に答えたのはあの赤毛の騎士だった。どうやらこの場での地位は高いらしい。先程の騎士は、失礼しました、とすんなりと引き下がった。
「シリル」
避けることを放棄し、近づいたその騎士には拳や足が当たったが、彼は引かなかった。赤毛の騎士は暴れる青年の頬を両手で挟み、嗜めるように名を呼んだ。涙でぐしゃぐしゃになった青年は口をつぐみ、それ以上泣き叫びはしなかった。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
掠れた小さな声でただひたすら謝罪を繰り返していた。青年が錯乱状態から落ち着いたのを見てとった騎士たちは彼を戒めていた手を離した。そうして、沈痛な面持ちで、どこか満足にすら見える笑顔を浮かべながら永遠の眠りについたアーテル帝国皇太子に向き合い、神に祈りを捧げた。
青年はその間スイッチが切れた様に静止していた。が、不意に彼は動いた。異変に気づいた騎士の1人が青年の名を叫んだ時には。
「シリル……!」
彼は自ら掻ききった喉から血を噴き出しながらゆっくりと崩れ落ちた。紅に染まっていく青年を、それを瞠目して見つめる騎士たちを、細い細い月が嘲笑う様に、冷たく照らしていた。