イソギンチャクの中
何もかもがどうでも良かった。
暗闇に建物の灯りがキラキラと光る夜景が見える高台は裏で有名な自殺スポットでもあって。なんとなく、そう、明確に死のうと思ったわけでもなく、本当になんとなく、人が死ぬ前に最後に見る風景がどんな光景か気になったのか、俺はそこにいた。
この夜景、いや百万ドルの夜景だって俺の心は動かない。動けやしない。
思えば、俺の人生は最悪なことばかりだ。
生まれた家の両親はアル中のネグレクト女と暴力男。
『お前なんて生まれてこなきゃ良かったのに』
『お前のせいで私は不幸だ』
『早く死んでよ』
怒涛の暴力の中、耳に残るのは母親のヒステリックな声だ。肉体的な痛みより、その黒板を引っ掻くような甲高い、耳に残るその声が何よりも自分を惨めに痛みつけ抉りあげた。だが、それも今や昔の話。
小学校に上がる歳になれば、そんなの慣れっこで、ひたすら耐えることと諦めることを覚えた。なるべく息をしないで押し入れに籠り、全てを右から左に受け流す。どうでも良かった。自分が死んでても生きていてもどうでも良かった。明日、事故で死んでも、父親の暴力で死んでも、もうどうでも良い。
父親の怒鳴り声が煩かったのだろう。八歳の時にやっと児童相談所が入り、あいつら以外身寄りのない俺は孤児院に引き取られた。
そこは、いらない子供の吐き捨て場だ。子供は大体二つのタイプに分かれる。何もかも諦めた者と諦めきれず大人からの愛を求める者。俺は当然のように前者で、偽りで優しくする大人に、仲良しごっこの子供を見ると何もかもが偽物だと怒りたくなる。ただ、その衝動も数秒すればスッと冷えて、自分と世界の間に一枚の薄い膜が出来る。成長するにつれ色素の薄くなる髪に瞳。掘り深く、整っていく顔立ちは異様で、その時に外国の血が入っていること知った。どうやら自分はあの男の息子ではなく、母親が外国人と浮気して出来た子供のようだった。ざまあみろ。あんなに愛していた女が違う男とセックスをしていた証明が俺だとあの男の前で嘲笑ってやりたい気分で、その時ばかりは笑ってしまう。ビッチで品性のない女だったが顔立ちにだけは整っていた女と誰だか知らない外国人の男から出来た俺は顔だけは一級品で、気付いた頃から女によくモテた。
どうやら顔が良ければ、性格はどうでも良い女たちは俺に都合が良かった。何もしなくても勝手にお節介を焼いてくれる。男には嫌われたが、それもどうでもいい。俺は俺が不自由なく生きていければそれで良かった。
精通を迎えたと同時に俺は施設の職員と寝た。女から誘ってきたのだ。
「私と寝てくれれば、あなたのこと優遇してあげるわ」
じゃあ、断ればどうなっていたのか。あの女のことだから恥をかかされたと施設に居場所がなくっていたのだろう。ただ、俺に断る気はなかった。この女とセックスをするだけで、俺の都合の良いように物事が動く。それだけの理由があれば、断るなんてあり得なかった。
それから俺は女と寝まくった。勿論、快楽のためもあるが、殆どが餌のためだ。少し優しくして、セックスをして、甘い言葉を吐けば女は俺に貢ぐ。
『君しか頼れる相手がいない』
『こんなに好きになったのは君が初めてだよ』
甘い言葉を吐きながら、あと何日でこの女を切るか考える。
人間は強欲な生き物だ。最初は、居てくれるだけでいいというのに、こんなにしてあげてるのにとどんどん見返りを求め、俺を縛り付けてくる。好きだなんてまやかしを本気にして、本当に馬鹿らしい。
何かを得るには代償がいる。
何かを求めるには何かを差し出さなければならない。
それが俺が学んだ真実だった。
高校卒業と同時に施設を出て、本格的にヒモをやった。三ヶ月スパンで女を変えて好き放題する。母親のように女がヒステリックになれば、三ヶ月も待たずにさっさと家を出るし、そうでなければゆっくりしたがそんな女いるはずもなかった。
そんな生活を三年続けて、当たった女がヤクザの女だった。殴られて意識の朦朧とした中、あいつらの言う落とし前をつけるために五百万用意しろと強迫される。勿論、そんな金なんてあるわけもなく、あいつらの隙をついて逃げついた場所がこの高台で。
自分の女と主張するのに、浮気されるなんて馬鹿な奴と鼻で嗤いながらもこれからどうするか考える。有り金は全部取られたし、買ってもらったブランドの服はあちこちが破け血が滲んでいる。俺にとっての生命線でもある顔も、あいつらが相当殴ったお陰で腫れ上がり醜く歪んでしまった。
これでは女もひっかけられない。
これからどうしようか途方に暮れて、気付けば夜。まるで、別世界のように光り輝く街にはきっと呑気に生きている奴らが沢山いるんだろう。そんなことを考えながら、自分が得てきたものを振り返ってみて一人笑った。驚くほど何もない。
どうして俺が生きているのか。
朝、母親が三歳の娘を間違って轢き殺したニュースを見かけた。あの愛された、必要とされる幼い子供が死んで、俺が生きている理由が分からなかった。女たちは言った。俺が必要だと。だけど、それは偽りの俺であって、あの押し入れの中の俺じゃない。
馬鹿だ。過去を振り返ったてどうにもならない。こんな感傷、俺みたいなクズには似合わない。だけど、耳の奥で鳴き声が聞こえる。その声が、幼かった俺の声なのか、ヒステリックに泣き叫ぶ母親の声なのかさえ分からない。
ただ、俺は高台の夜景が一番綺麗に見える場所で目を閉じた。
ぎゅっと崖と俺の間にある柵を触る。何かの事故でこの柵が壊れたら死ぬ。その柵を力一杯揺らしてもびくともしない。後ろから足音がした。後ろに来た誰かが俺を思いっきり押したら死ぬ。その足音はいつまで経っても、俺の近くまではやってこない。
今まで死にたいと思ったことはない。でも、生きたいと思ったこともない。一年間好きなことをしてていい代わりに殺させて、と言われたら別にその条件を飲んでもいい。この世になんの執着もない。
惨めだ。
それは、気付きたくない事実。
「ねぇ」
浮気されたあいつらよりも、俺の方が惨めで可哀想なんて知りたくない。赦せない。でも、それは事実で、どうしようもなくて。いっそのこと、本当にここから飛び降りてしまおうかと思った時、後ろから声をかけられたことに気づいた。
「ねえ、あなた死ぬの?」
俺にそう問うた女の顔はよく見えない。ここにあるのは月明かりのみ。長い黒髪に地味な服装。眼鏡を掛けた女はじっと俺を見つめた。
こういう女はカモに向いていない。すぐ本気になって、俺に代償を求めてくるからだ。どのみち、この顔じゃこの程度の女でも引っかかることは出来ないだろう。だから、適当に答えた。さっさとあっちに行けとばかりに。
「それがなんだよ」
「死ぬの?」
「お前に関係ない」
女はずいっと俺に近づき、俺の腫れ上がった頬を撫でた。やはり地味な女だ。なんの印象も残らないような地味な女。今まで俺に取り入って来た女は皆、自分に自信があったから、こんな見た目に気を使わない女久しぶりに見た。
だけど、その漆黒の瞳には夜景が反射してキラキラ光っている。真っ黒な世界に俺が写り光り輝くような幻覚をもたらして女は言った。
「死ぬんだったら、あなたを私に頂戴」
苛ついた。自分だけ要求して、それを当たり前にしている。何かを得るには何かを手放さなければならない。この女にその真実を突きつけて困らせてやりたかった。
「俺は高いぞ。今すぐ五百万払えばお前に俺をやるよ」
見るからに幸薄そうな、ブランド品さえ持っていなさそうな女には無理だろう。さっさと怖気付いて失せろ。そんな意図を込めたのに、女はまさかの返事を返した。
「分かった。じゃあ、家に取りに行くから着いてきて」
女は真剣な顔でそう言い、俺の返事を待たず歩き出した。まるで着いてくるのが当たり前かのように、俺が着いてくるか振り返りもしない。
「はぁ?」
馬鹿らしい、と無視しても良かった。幸い、女もついて来いと強要しているわけじゃない。だけど、こんな人生。こんなクソみたいな人生、何か変わる気がして。死んでもいい命なら、たまには酔狂に賭けてみてもいい気がした。
それからタクシーに乗った女は世田谷の馬鹿みたいに広い家の金庫から五百万を取り出し俺に渡した。
「はい。これであなたは私のもの?」
こんなみすぼらしい女が金持ちだったなんてラッキーだ。その場で逃げても良かったが、その家の調度品を見るからにとてつもない金持ちだと判断した俺はそのままこいつに寄生することを決める。そして、表情が死んだ女が面白くなくて、その女と一緒にヤクザの元に向かうことにした。たかが言いがかりで五百万は惜しいが、この女を試す意味でヤクザに金を渡す。
「はっ、お前みたいのから金が出てくるとはな。おい、お前。お前の金だろうから親切心で言うが、こいつはクズだぞ?お前のことを金づるとしか思っちゃいねぇ。……どうせなら、俺の」
恐らく、俺の女にならないか、そう言おうとしたのだろう。こんな大金をホイホイ出せる女はそうそういない。それはこのヤクザにとっても同じだったらしい。
別に良かった。俺がクズだと知って、このヤクザに乗り換えても、やっぱりいらないと突き返されても、俺は吐き捨てられることに慣れている。
「私はこの人がいい」
だけど、女は言った。
つい嗤ってしまう。何も持っていない、いや、唯一使えた顔面さえも潰れた俺に劣るヤクザの男。自分の女にも振られて、金づるにも振られる。だから、きっとこんなにも愉快で仕方ないんだ。こんな俺なんかに負ける男が憐れで、だから少し泣きたい気持ちになるんだ。
「ここ使って。後で行く」
渡されたのは、マンションの鍵と住所の書かれた紙。取り敢えずこの女に飼われた身だ。大人しくそこに行き、2日ほど過ごせば女は大きなトランクを持って、マンションにやってきた。
チャイムの音が鳴り、鍵を開けに玄関へ向かう。やっと来たか、身体の相性悪かったらどうしようか、なんて考えながらドアを開けば女は戸惑った顔で俺を見た。あの無表情から一転、初めて見た顔に内心動揺しながら出た言葉は、寄生先の女に毎日言ってきた言葉。
「おかえり」
あ、と思う。この女の家はここじゃない。あの大きな家だ。言葉を間違えたと気まずい気持ちで女を見れば泣きそうな顔をして笑った。
「ただいま」
「あ、ああ」
「ちゃんと待っててくれてありがとう。君は良い人だね」
俺は良い人なんかじゃない。ただ、そう言う女があまりにも幸せそうに笑うから言い返すのもおかしい気がして。でも、何もしていないのに褒められるなんて慣れてないからどうしたらいいか分からず固まっていたら、女は背伸びをして俺の頭を撫でた。
「いいこ。いいこ。……顔、まだ腫れてるね。今から病院行こう?」
頭を撫でられるなんて初めてで、また返事の出来ない俺を通り抜け女は荷物を広げる。家にある簡単に調理できる食料やペットボトル、着終わった服など雑多に置いてあり散らかした部屋に文句も言わず、女はいそいそと財布を取り出す。
「何してるの? 早くコート着て。傷跡になったら大変だもの」
……ああ、そうか。結局この女も俺の顔が目当てなのだ。
「ああ、でも、早く病院行かなかったから治らないかも。そしたら、整形でもしようか。そうすればあんたも都合が良いだろ?好きな顔とセックスできるぜ?」
むしゃくしゃして、投げやりな気分だった。女を食い物にするのに使えるこの顔も道具としてしか見ていないから愛着もない。別に好きなように弄られても構わない。そうして、嬉しそうにする女の顔を想像したら吐き気がする。
「え……」
まだ見ぬ未来の想像で気分の悪くなる俺に返ってきたのは戸惑いで。
「え、そんな。せっ、せっくすなんてしない、しないよ! それに、私に都合がいいって、駄目だよ。君はもっと自分を大切にしなきゃ駄目。君が整形したいなら止めないし、お金も出すよ。でもね、それが君の意思じゃないなら駄目。絶対に駄目。……私は今の君が大切だよ」
「……俺のことなんも知らねーのに馬鹿かよ。気持ち悪いんだよお前」
女の言っていることが分からない。理解出来なかった。そんな都合の良い世界あり得るはずがない。こんな夢物語、気持ち悪い。
吐き気が胃に戻り、そいつが悪かったのか。俺の胸はどくどくと脈打った。口が乾く。なんだ、こいつは。気持ち悪い。気持ち悪い。
「……馬鹿でいいよ。ほら、行こう?」
女は優しく、慈しむように俺をみて微笑んだ。それを見ると何か思い出しそうな気がした。良い思い出ではない。昔の、あの暴力と諦めの時期に置いてきた何かが迫ってきた気がして気持ち悪い。
これ以上、考えたくなくて、俺は大人しく女について行くことにした。
それから、優佳と名乗る女はこの3LDKのマンションに移り住み、ことあるごとに俺を褒めた。
『君がいてくれて良かった』
『君のおかげで幸せだよ』
『ありがとう』
降り注がれる言葉たちに、きみの悪さを感じる。そんなわけがない。優佳は何が目的なのか。ありのままの俺を好きになるやつなんているわけがない。
俺の苛つきが溜まった頃、優佳は改まった顔で俺を呼んだ。やっと嫌になったのかとホッとする。俺は、優佳から金を強請れば豪遊して、遊んで暮らしたからだ。金をもらう見返りも渡していない。俺は愛を囁くこともなく、家事をするわけでもなく、ただひたすら自由に過ごした。
そんな中改まった顔で呼び出されれば、言われることはひとつだ。
そんな中、優佳が言ったのはこれだけだった。あのいつも控えめな顔で笑う優佳が、真っ直ぐ真剣に俺を見て告げる。言われたのは、優佳に飼われるための条件だった。
『ニ日以上家に帰らないのは禁止』
たったそれだけ。
「紘君の条件は何?」
「は? ……条件を出すのは俺じゃなくてあんただろ」
「紘君とは対等で……それは無理だね。じゃあ、私のわがまま。紘君のこれだけは絶対ってこと教えて?」
つくづく変な女だと思う。優佳は与えるだけ与えて、俺に見返りを求めない。だからといっていらないわけではない。俺が打算で何かをやると、優佳は自分のこと以上に喜び、子供のように俺を撫でる。
「お前さ、俺のこと子供扱いしてない?」
「ふふ、気のせいだよ」
優佳といると俺の信じてきた世界がガラガラと崩されていく気がした。それが嫌で、優佳が俺を馬鹿にしているような気がして俺は必死に抗う。
ブランド物を買い揃え、毎日色んな女を引っ掛けた。在宅の仕事で家にいる優佳に家事、仕事の一切を任せ、遊び呆けても優佳は何も言わない。
月に百万を使った時でさえ、怒らせようと優佳が仕事をしている隣の部屋で色んな女とセックスをしても優佳は怒らず、ただそこにいた。
それでも、一回だけ優佳が怒ったことがある。女の彼氏に殴られた時だ。その男一人ならなんとかなったが、六人ほど仲間を連れてリンチに会い対抗する術もない。傷だらけの身体でマンションのドアを開ける。
「おかえりなさい、紘君」
いつもそう言って俺を出迎える優佳が、俺の顔を見た瞬間見たことのないような顔をした。キュッと口を曲げ、不満そうな顔。
「紘君」
「なに?」
「私は怒っています。何故かわかりますか?」
「はあ?知らねぇよ」
「それは紘君が怪我をしているからです。紘君は何してもいいよ。でもね、紘君が傷つくのは駄目。それだけは駄目」
真剣で、少し怒りながらそう言う優佳は、この日新たな条件を突きつけた。
『なるべく怪我をしないこと。自分を大切にすること』
なんだ、馬鹿らしいと思う。自分を大切に?大切にしてどうなる。何が得られる。俺はその戸惑いか不満か苛立ちをそのまま顔に出す。すると、優佳は寂しそうな顔をして俺を抱きしめた。
「大切な人が傷つくのは、自分が傷つく以上に辛いことなんだよ。だから、紘君が幸せだと私が幸せ。紘君が色んな人と寝るのは、正直自分を低く見るような、そんな気がして嫌だけど、紘君がそれが好きなら何も言わない。私はどんな紘君でも大切だから」
俺より二十センチは小さくて、か細い身体。俺を抱きしめる柔らかい感触に、その頭上から石鹸の香りがする。
引っ付かれて暑い。だから、胸の辺りが暖かく鼓動が早くなるのだ。俺はそう信じて疑わなかった。
優佳は変な女だ。信用できない。何も知らない俺のことを大切と言い、俺が幸せだと優佳も幸せだと宣う。理解出来ない。気持ち悪い。この女も気持ち悪いし、それに絆されそうになる自分も気持ち悪い。俺みたいな人間を大切に思う人なんかいるはずがない。きっと裏がある筈で、でも、俺は何も持っていない。奪われるものもない。
理解出来ない。
だから、きみが悪い。
俺は、この満ち足りているはずの生活に違和感を感じながらも核心に触れることなく過ごした。
優佳は、デザイナーの仕事をしているようで基本的に在宅勤務だが時々出社することがあった。その日は、優佳が熱を出して、出社予定を取り消した時のことだ。優佳が熱を出したからと言って、俺には関係ない。そう思い出掛けようとした時、マンションのチャイムが鳴る。
「権藤優佳さん宅でしょうか」
何かに期待したような男の声。こんな女でもモテるんだな。あの色気のない女のためにわざわざ見舞いに来るなんてどんな男か、拝んでやりたくなった。オートロックのための1回目の解錠を終え、2回目のチャイムが鳴るとき俺は笑いたくなる気持ちを抑えて玄関に出た。
男の驚くような顔。まさか、あんな地味な女の家に俺みたいな男がいるとは思わなかったのだろう。あんな女に擦り寄る男なんてどうせ地味だろうと思ったが意外と普通の男で、身なりにも気を使っていた。俺ほど選び放題でなくても、わざわざ優佳を選ぶ必要もない。
一瞬、意気消沈した男はそれでも気を取り戻し、俺を見た。
「こんにちは。デザイカンパニーの佐藤大地です。優佳さんのお宅ですか」
「まあ、そうだけど」
「優佳さんの弟さんですか?」
あの優佳にこんな彼氏がいるはずがないと、本気で思っているのか。宣戦布告のつもりなのか。どちらにも育ちが良いのだと思う。そうでなければ、こんな笑顔で尋ねられない。
俺が去れば、きっと優佳はこんな男と結婚するのだろう。ぬくぬくと温かな家庭で、当たり前のように愛されて育って。そこそこの会社に就職して、彼女が出来て別れてを繰り返し、こんな男が。
俺は優佳を女扱いしたことはなかった。甘い言葉を吐いたことも、抱いたこともない。ただ、そこにあるだけの人間。そう思ってきたはずで、これからもそうなるだろう。
だけど、ふと、魔が刺した。
「優佳の彼氏だけど」
そう言ってみると、男は明らかに嫌そうな顔をした。そして、挑発するように言う。
どうやら、さっきのは宣戦布告のようだ。
「随分と優佳さんとタイプが違うんですね。やっぱりお付き合いしている中でギャップでもあるのでは?」
「いえ、別に。優佳は俺にぞっこんですから。ほら、これだってこれだって優佳に貰ったんです」
そう言って、ブランドで固められた服や時計を見せびらかす。すると、男は眉を顰めた。
「……失礼ですが、仕事は?」
「してないですけど、何か」
「……なるほど。分かりました。これ、優佳さんご自愛下さいともお伝え下さい。あと、これも」
これ以上話しても無駄だ、とばかりに話すのをやめた男は何が分かったのか。俺がクズだと言うことか。こんなクズに優佳が惚れているということか。
どうでも良かった。今すぐ、男の顔を見なくて済むんだったらどんな訳でもよくて。ハエをはらうかのように男を追い払う。
その後、度々男はマンションを訪ねているようだった。それを知ったのは、それから三ヶ月経ったころだ。チャイムの履歴にその男が映っている。どれも俺がいない時間を狙ったかのように現れて、優佳は家にいれているようだった。
なんだ諦めてなかったのかと嘲笑うことも出来たのに、溢れてきたのはどす黒い何かで。苛つきのまま、優佳のいる部屋に行き、仕事を中断させる。
「あいつは……」
「え、なに? 紘君、急にどうしたの?」
勢いつけて来たものの、何を言えば良いかわからない。
あいつはなんなんだ、なんて言いたくない。それだと俺が縋り付く惨めな男みたいで。
それでも、ムカついた。
「あんたさ、あんな男が好きなわけ?」
「……なんのこと?」
「俺がいない間に男連れ込んでんだろ。あんた地味な顔してよくやるな」
「ああ、大地さんのこと……」
「大地ねぇ……なんだ? 俺みたいなクズとは付き合わない方がいいとでも言われた?そんで、俺と付き合おうってか? ……はっ、そうなんだな」
優佳は俺の言葉を聞くと、ぽかんとした表情を赤く染めて視線を彷徨わせた。これで分かる。優佳は嘘をつかない。一度も嘘をついたことがない。
なんだ。あいつがいるから俺は用済みかってか。そんなこと赦してなるものか。こんな楽な生活手放してなるものか。好きな物を買えて、派手に遊んで、女も選び放題。……こんな、こんな、こんな生活奪わせて溜まるものか。
「……来い」
俺の心を動かすものがなんなのか。俺にだって分かりゃしない。金づるを渡したくない。それは本当。でも、優佳程でなくても俺を養うレベルの女は5、6人はいて、こんな面倒くさくて、苛々するなら多少勿体なくても乗り換えれば良いのに、それは出来ない。
優佳の腕を引っ張り、自分の部屋に連れて行く。廊下を歩きながら、何がなんでもあの男と引き離してやると決意し、無意識に手に力を込める。
優佳から手を離した時、優佳の腕には俺の手の跡が残っていて俺はそれを見て少し愕然とした。そうだ。俺みたいなクズを選んで、あの男を選ばない理由がない。だってそうだ。今だって、俺は自分のことしか考えずに。
「……紘君は優しいね。大丈夫。こんなのすぐ消えるよ」
俺を見た優佳は、優しく困った子供を見るかのように笑う。何が優しいだ。俺は優しくなんてない。優佳が見てるのは幻想だ。俺じゃない。
「座って」
俺のベッドに腰掛けた優佳はその隣をぽんぽんと叩き俺を隣に促した。俺は混乱していて、反抗する気も起こさず素直に座り、そして抱きしめられた。
「紘君。心配しないで。ちゃんと断ったよ。紘君が一番。紘君が大切なんだから」
俺は明確に理解した。優佳が怖いと。
俺みたいなクズを大切だと言う。優しく微笑んで、本気で訴えて来る。そんなわけない。そんなはずがない。何か裏があるはずで、何か理由があるはずで、俺は奪われるものがないのに何かを奪われるような予感がして怖かった。
優佳の甘く優しいだ言葉は、俺にとって心地良い。だからこそ、おかしいのだ。何もしてあげてないのに、何かして貰えるのはおかしい。間違っている。これでは俺が信じて来た世界が壊れる。壊れてしまう。
優佳の腕の中は、俺を違う世界に連れていくための鳥籠のように思えてならなかった。
人に恐怖を抱くのは初めてで、俺はただただ拒絶した。怖い。だから跳ね除ける。理解出来ないから気持ち悪い。だから暴言を吐く。
「気持ちわりーんだよ!意味わかんねぇ。お前に俺の何が分かんだよ。俺が大切? だから、私のことも大切にして、とか言い出さないよな。気持ち悪りぃ。あり得ねーから。お前みたいな女、金づるとしか見てねぇし、これからもずっとそうだ。お前、ウザいんだよ」
優佳を跳ね除け、優佳が傷付きそうな言葉を選んで怒鳴る。怒鳴られる優佳のことなんか気にもせず、そっぽを向いて。
捲し立てた後、沈黙が場を支配した。いつもの優佳なら、困った顔して赦すのだ。しょうがないね、と。だけど、なかなかその言葉が返ってこない。だから、優佳を見れば優佳は静かに泣いていた。
化粧っ気のない顔に、次々と伝う涙。泣いていることにさえ気付かないように優佳は呆然としている。
まさか泣くとは思わなかった。
まさか傷つくとは思わなかった。
何を言っても笑っていられる変な人間だと思ってた。
俺は机の上にあった財布を手に取り、家を出た。この脈動は走ったためだけではない。優佳を傷つけた。手が震える。だからどうした。あんな女、傷付けてもいいじゃないか。今更だ。今回はたまたま泣かせただけ。あの優佳がたったこれくらいで俺を手放すわけがない。きっと大丈夫だ。いつも通り。豪遊だって、女遊びだってきっと。
いくら言い訳したって。
怖かった。先程の怖さではない。気づいてしまった。優佳に捨てられたくないって気づいてしまった。他の誰でもない、優佳が良かった。優佳のそばに居たい。
ありのままの俺を。意地悪く、俺を捨てるか試し続けて、それでも尚、俺を大切と言ってくれる優佳が好きだと。気付いてしまった。だから、俺以外の男に気を許す優佳が許せなかった。俺の、俺の優佳なのに。あんな男に渡したくなかった。優佳とずっといるのは俺がよくて、優佳もそうなはずだって信じていて。
だけど、俺は知っている。俺がどんなクズな人間かを。散々、そう、散々優佳を試して来た。優佳の金を頼りに遊んできた。そして、優佳を泣くほど傷付けた。
今更、一緒にいたいと言ったって。
今更、更生して幸せにして見せるからと開き直ったって。
優佳は赦してくれないかもしれない。
捨てられるかもしれない。それが怖くて怖くて堪らない。きっとこの感情は幼い頃、俺が落として来た感情だった。
帰ろう、帰ろう。今すぐ動かなくては。
そんなの分かっていた。
だけど、知らない。こんな恐怖知らない。捨てられるかもしれないという恐怖があの家に近づけば近づくほど大きくなって、脚が震えそうになる。
普通の人が日々こんな恐怖と闘っているのかと思うと目眩がして、でも、俺が突き進もうとしているのは普通となること。だから、尚更、怖くなる。
「あれ?ヒロじゃん」
慣れた繁華街でひたすら空を見て立ち止まっていた俺をセフレの一人が見つけ声をかける。甲高い媚びる声。本当の俺のを知ったら、すくざま踵を返す軽い女。与えられなければ、与え返さない。その真理を映したかのような女に俺は安堵した。
一時的に恐怖心が薄れる。
クズなのは俺だけじゃない。
誘われるまま女の家に泊まることにした。今日だけ、そう言い聞かせダラダラと過ごし、デリバリーのピザを食べる。優佳の飯は、温かくて優しい味がした。ピザを食べただけでそんなことを思い出して、バツが悪くて、女とセックスをしたり、そんなことをしていたらあっという間に1日経っていた。
今日こそは、そう思うのに身体が動かない。もし、捨てられたと思うと怖くて怖くて堪らなくて、いっそのことこちらから捨ててやろうなんて、出来ないことを想像したり。ひたすらに自堕落に過ごせばあっという間に夜になる。
帰らなければならない。
ニ日以上家を空けないのは優佳との約束だから。
ここから家までかかって一時間ほど。ギリギリまで帰らないようにしよう。そう思い、携帯にアラームをかけてふて寝をする。
うとうとする意識の中で、子供の泣き声と、女のヒステリックな叫び声。
『あんたのせいで』
『あんたなんか死ねばいいのに』
『産まなきゃよかった』
真っ暗な押し入れの中で、女の叫び声がひたすら聞こえる。謝っても、謝っても女の声は消えなくて。
「生まれてきてごめんなさい」
「迷惑をかけてごめんなさい」
耳を塞いでも聞こえてくる声に、俺は苦しくて、もういいや、と思った時後ろから誰かが俺を抱きしめた。
『そのままの君が私は大切だよ』
その穏やかで優しい声に安心して、何か言い返さなきゃと振り返れば誰もいない。俺には何もない。真っ暗な空間に俺ひとり。
「ひーろ! 大丈夫?めっちゃ魘されてたよ?」
「……ああ、うん。今、何時?」
「いまぁ? えぇっと、夜中の2時」
その言葉に頭が真っ白になる。それは、あの家を出て48時間以上経過したことを意味していて。いや、でも、俺はアラームをセットしていたはずだから、この女の見間違いなのかもしれない。
そう自分に言い聞かせ携帯電話を開けば、時計は2時12分を指している。
「俺、アラームかけてたはず……」
「ああ、あれ? うるさかったから消しといたよ」
瞬間的に怒りが湧く。お前のせいで、と怒鳴りそうになるのを堪えてなりふり構わず女の家を出た。女に怒りをぶつけるより、一刻も早く家に帰りたかった。走りながら、馴染みのタクシーを呼びつけ飛び乗る。
運転手が何か話しかけて来たような気がしたが、何も耳に入ってこなかった。
優佳。俺が悪かったから。
俺を捨てないで。
お願いだから、いつものようにおかえりって出迎えてくれよ。
泣きそうになりながら、マンションの鍵を開ける。手が震えて中々、穴に刺さらずイライラして、やっとのことでドアを開ければ、部屋は真っ暗だった。
鼓動がどくどく高鳴る。
今日はたまたま、怒らせたから出迎えに来ないだけ。きっと寝ているんだ。そう、寝ているに決まってる。
リビングで気を紛らわせるようにテレビをつけて、カラカラだった喉を水で潤す。興味のないショップチャンネルを見ていると時間がいつもの倍以上長く感じて、怖くて怖くて仕方なくなった。
優佳に見捨てられるのは怖い。この恐怖を抱いたまま、朝を迎えるのも怖い。それでも、一度優佳の顔を見ておきたくて優佳の部屋に行けば優佳はいない。焦るまま、全ての部屋を確認して、最後に自分の部屋に行けばあったのは通帳と手紙だけ。
震える手で手紙を開けば、書いてあったのはたった数行。
紘君へ
今まで付き合わせてごめんね。
このお金と家は使ってください。
さようなら。
付き合わせる? ごめんね? 意味が分からなかった。だけど、それ以上に最後の文字に意識が集中する。
さようなら。
ああ、俺は捨てられたのだ。感慨もなく思う。そりゃあそうだ。約束も破り、優佳を傷つけた。優佳に愛想を尽かされのだろう。
頬の上を液体が伝う。何かと思えば、壊れたように涙が出ていた。だから嫌だった。だから、好きになんてなりたくなかった。だから、優しくされて怖かった。
あの父親と名乗る男に殴られるよりも痛い。痛くて痛くて堪らない。今更何をしたって優佳は帰ってこない。俺が悪いから。俺がクズでどうしようもなくて、試すような真似ばかりしてきたから、優佳はいなくなった。
優佳がいるなら何にもいらない。金だって、女遊びだってしない。一生、尽くすから帰ってきて欲しくて、でも、それも手遅れで。そう懇願する相手も資格も俺には何もない。
最初から何も持っていないから、これ以上何かを無くすなんて考えたこともなかった。無くしてから、こんなに大事だと気付くなんて知りもしなかった。
身体が動かない。
ああ、絶望は心だけでなく体まで支配するのかと、初めて知った。
あれから何日が過ぎた。
馬鹿みたいに、現れるわけないのに、優佳の部屋で優佳を待っている。何かを考える思考もなくて、ひたすら寝ている。朝日が登って、沈んで、登って、沈んで。それが他人事のように目の端に映る。
それでも、腹は減るし、トイレにだって行きたくなる。うとうとしながらこのまま寝て、二度と目が覚めなくていいと思っても、次の日はやって来た。
食欲に負けて、しぶしぶ冷蔵庫を開く。取り敢えず、飢えを凌げるなんでもよかったが、そこには優佳の作ったハンバーグが入っていた。
縋るように手を伸ばし、それを持つとひらひらと紙が舞う。優佳は紙にメッセージを書く癖があった。紙に片手を伸ばし空中で取ろうにも、俺の体はうまく動かない。右手のハンバーグを置けばいいのかと気づき、置いた時には紙は床に落ちていた。
震える指でそれを拾う。優佳は俺を捨てた。それでも、何かに期待しそうで。期待しそうな自分を前なら馬鹿だと嘲笑っただろう。無駄なことだと。
それでも。
紘君へ
さっきは急に泣いちゃってごめんね。
お詫びにハンバーグ作ったから。
後でプリンの材料買いに行くから、もし、時間あったら一緒に作ろ?
ゆうか
周りを見渡せば、プリンの材料が置いてある。暗闇に一つの明かりが灯りそうな気がした。
優佳は俺に愛想をつかしたわけではない?
この文面を見たら、また明日を迎えるつもりだった気がしてならない。優佳は俺の暴言を赦していた。俺と明日を過ごそうとしていた。
それが分かって、俺は暗くなった外を走り出した。向かうのは優佳と出会った場所。あの高台へ。
キラキラと輝く夜景を見てもやっぱり俺の心は動かない。ただ、優佳がこの夜景の中にいるのなら、そう思うだけで、何かが俺を囃し立てた。
小さくて傷だらけの子供が笑う。今度こそ、と。
変わらなければいけない。
変わらなくちゃいけない。
怖くても変わりたいと思う。
クズをやめて、正々堂々と優佳の隣で生きていきたい。
この高台で待っても、俺の後ろに優佳は来ない。
だから、それでも。
また優佳と一緒にいれるなら。
初めて無駄になるかもしれない努力をしよう、と思う。努力して掴み取れなかった結果は痛い。でも、俺は与えられるだけ与えられて、試すだけ試して、何もしていなかった。
それから家に帰って、優佳の手掛かりを探した。そして、笑ってしまった。優佳は自分の痕跡を全くというほど隠していなかったのだ。まるで、探されるなんて思いもしないように。
「確かに俺はそんな態度を取ってたか……」
情報を集めるだけ集めて、情報屋に行けば、案外すぐ優佳の居場所は見つかった。たかが隣の県にいたのだ。電車を乗り継いで一時間。そんな距離に優佳はいた。
すぐにでも会いにいきたかった。
だけど、駄目だ。
変わってからじゃなきゃ、駄目だ。
クズを辞めてからじゃないと、優佳の隣に釣り合わない。
今までの女の縁を切って、優佳に買ってもらった服は売って、新しいアパートでも借りようかと思ったが優佳が万が一帰って来てもいいようにそのままそこに住んだ。初めてアルバイトを始めて、失敗して、謝って、苛々して、それでも俺なりに懸命に働いて。
最初は不安だったけどよく頑張ってるね、と褒められた時は嬉しかった。この高揚を優佳に伝えて、一緒に喜んでもらいたくて、時々、優佳は俺のことなんて忘れてるんじゃないかと不安になって。
一年が経った。
まだまだ完璧とは言えないが、自立した生活を遅れていると思う。だから俺は、優佳に会いに行くことにした。
期待もあったが、不安の方が大きい。それでも、諦められなかった。惨めと言われても、愚かだと言われても足を踏み出さずにはいられなかった。
電車を乗り継ぎ、初めて降り立った町。大きい道路を抜け、小さい路地を進む。優佳の住んでいるアパートは俺が思っていたよりずっと古くてぼろかった。ごくり、と喉が鳴る。
行こう、行こうと言い聞かせて、もう一時間は経っている。そろそろ、通報されるんじゃないか。そんな不安を抱き始めた時、遠くで何かを落とす音が聞こえる。
反射的に見た先には、女が買い物袋を落としていて。俺は夕方の逆光の中でもすぐに分かった。
「優佳」
「……紘君」
ひらりと優佳の顔から光が落ちる。ぽたぽた滴る涙は、夕日の光でオレンジ色に染まっていて綺麗だ。俺は走って優佳の元へ行く。
「優佳」
泣き笑いで泣く優佳に、俺はどうしたものか迷いつつも安堵した。俺が来ても優佳は嫌がっていない。
「優佳、俺……」
「紘君」
まずは、謝らなければいけない。一年前、約束を破ったこと。泣かせたこと。そう思い、謝ろうとした俺を優佳は俺の名前を言って制す。
そして、幼児が描いた似顔絵みたいに笑って言った。
「おかえり、紘君」
気が向いたら、より真相に近く恋愛度が高い優佳視点を書くかもです。