女神ニケ
もう一つの音は、ドナートの手首から発せられた。
「何を言ってるの?エレオノーラ。私のは単なるアクセサリーだって言ったじゃない」
「そうなの?ならば袖を捲って見せてもらえるかしら?」
咄嗟に隠そうとする彼の腕を掴んだのは、いつの間にか移動していたお兄様だった。
「残念ですが、隠すことは許されませんよ」
強引に袖を捲る。彼の左手首には以前に見た黒い魔石が付いたバングルがあった。魔石はぱっくりと割れている。
「どうしてなの?ドナート殿下」
「……」
何も答えてくれないドナート。
「そこまでしてエレオノーラが欲しかったのか?」
悲し気な表情でドナートに問うフィル。私が欲しかった?
「……そうだよ。私はエレオノーラが、ニケの生まれ変わりの彼女がどうしても欲しかったんだ!」
その言葉に、頭を殴られたような衝撃を受けた。
「何を言っているの?私はニケの生まれ変わりなんかじゃないって何度も言ったじゃない。どうしていつまでも……」
「エレオノーラこそ何を言ってるの?君はニケの生まれ変わりなんだよ。私の絵本のニケに瓜二つなんだよ。女神であるエレオノーラを私はずっと愛していたんだよ」
どうしてこんなに話が通じないんだろう。聡明であるはずの彼がわからない訳はないのに。
ドナートは演説をするかのように語り出した。
「私はね、初めてエレオノーラに会った時に、ニケの生まれ変わりだってすぐにわかったんだよ。兄上は絶対に違うと笑っていたけれどね。だからね、母上に言ったんだ。エレオノーラを婚約者にしたいって。なのに、兄上が先に見つけたからってだけで兄上の婚約者になってしまった。
それからの兄上は凄かった。城の馬術大会で優勝して、その次は剣術大会。おまけに魔術訓練の時には上位魔法をいくつも習得していた。これは絶対にニケの力だと思ったよ。だから私は何度も兄上に頼んだんだ。エレオノーラを譲ってって」
どうしてフィルが頑張った結果だとわからないんだろう。たくさん努力をした彼をずっと一緒に応援していたじゃない。
「なのに全然了承してくれないんだ。エレオノーラを愛しているからダメに決まっているだろうって。彼女を彼女として愛してもいないおまえにやるわけないだろうって。酷いと思わない?私は誰よりも愛していたのに。エレオノーラもどんなに私と仲良くなっても兄上の事しか見ていないし」
ニコリと笑うドナート。
「だからね、この二人を別れさせようと思ったんだ。それには兄上の気持ちを変えてしまうのがいいかなって。他に好きな人が出来れば、エレオノーラとの婚約は解消すると思ったからね。そうしたら私が心置きなく愛してあげられる。それからは色々調べたよ。
魅了魔法の存在は知っていたからね。王族専用の書庫に魔方陣もあったよ。問題はそれを使うことの出来る魔道具を見つける事だった。そしてやっと見つけた。ところが遠い異国の物らしくて、そう簡単に手に入る物ではなかったんだ。随分探したよ。
何年も待ってやっと手に入れたんだ、この腕輪をね。本当に何年もかかってしまったけれど、これでやっとエレオノーラを手に入れる事が出来ると思うと天にも昇る気持ちだったよ」
恍惚とした表情で石の割れた腕輪を撫でる。
「しかもその帰りに、そこの男爵令嬢と知り合ってね。ちょうどいい素材だと思ったんだ。顔がいいバカってやつ?碌に何かもわかっていない腕輪を、何の疑いも持たずにすぐに着けてくれたよ。
なのに、兄上に魅了が効かなかったなんて。効いているんだとばかり思っていたよ。だからこそ、エレオノーラには何度も、あんな浮気する兄上なんてやめちゃえって言っていたのに。それなのにエレオノーラは兄上を信じているの一点張りだったし。
やっと兄上を見限ったと思った。おまけにちょうどいい具合に記憶喪失になって兄上を忘れて。それなのに私には全く靡かないし。私の知らない所でしょっちゅう兄上は彼女に会いに行っているし。
せっかく忘れた兄上とまた親密になっているし。一体どうしたらエレオノーラは私の物になるんだろうってずっと悩んでいたよ」
彼の語っている内容が、全く理解できない。彼がおかしいのか、それとも理解できない私がおかしいのか。今語っている人は本当にドナートなのか。あのちょっと幼いけれども優しい彼は一体どこに行ってしまったのだろう。
彼の私への……ニケの生まれ変わりだという私への執着が恐ろしかった。不安を感じ取ってくれたのか、フィルが私の腰を優しく抱いてくれた。目が合えば微笑んでくれる。それだけで私の不安は軽くなる。
「本当にすごく悩んだんだ。せっかく見つけたその女は役に立ってないし、このままじゃエレオノーラの記憶が戻ろうが戻るまいが兄上の婚約者のままだ。
でね、兄上を消すしかないって結論に至ったんだ」