03 やっぱり本当でした。
「聖女様。おはようございます」
江衣子が目を覚ますとそんな声が聞こえ、一人の女性の姿が視界に入る。
「聖女様。喉は渇いておりませんか?お着替えをいたしましょうか?」
女性は十代に見え、茶色の髪に茶色の瞳をしていた。
(ちょっと外国人っぽい)
彼女はぼんやりそんなことを思いながら、周りを見渡す。
(知らない天井……。このシーツの感覚。夢じゃない。ってことは、ここは異世界?!)
体を起こし、部屋全体を見回す。
(やっぱり心当たりはない。……要の言っていたことは本当だったんだ。っていうか、要はどこにいるの?)
「聖女様?」
「あ、えっと。ごめんなさい。何でしたっけ?」
「あの、喉とか渇いていないでしょうか?お腹もすいていらっしゃるのでは?御召し物も……」
(この人が侍女さんね。私、やっぱり聖女なんだ。どうみても信じられないけど。まあ、異世界転移ってやつをしているみたいだし。ふう。ファンタジー)
「あの、聖女様?」
「ごめんなさい。着替えはいいから。顔を洗いたいので、洗面所に案内していただけると嬉しいです」
「洗面所?」
彼女の問いに茶色の髪の女性は腑に落ちない表情を見せる。
(そんなものないのね)
「あの、顔を洗って歯を磨きたいのよ。何かある?」
「それではお水と歯ブラシをお持ちしましょう」
「ありがとう」
(洗面所がなくて、わざわざ水を持ってくるの?不便なところ。もしかしてトイレとかも……。うう。想像したくない)
女性の退室を見送り待っている間に、江衣子は手持ち無沙汰だったので立ち上がった。スリッパがおいてあり、それを履く。
着ている服は同じだった。しかしサイズが大きくなったのか、胸、お腹、腕の部分にかなり余裕がある。
(そういえば時間が巻き戻るとか言っていたっけ?あ!そうだ。要、要を探さなきゃ!)
「聖女様」
そう思った矢先、聞き覚えのある声がして江衣子は振りむいた。
扉の付近で、長髪の青年が立っていた。青年というにはまだ少し幼い。けれども、少年というには成長しすぎている。そんな微妙な年ごろの彼が彼女を静かに見ていた。その顔には見覚えがある。かなり幼い気がするが、それは夫であった要の面影をかなり残していた。
「もしかして、要?」
「はい。聖女様。ここでは私のことをジャファードとお呼びください。そして、」
「わかってるわ。結婚はなかったことにでしょ?」
「はい」
要ことジャファードにしっかり頷かれ、江衣子は面白くなかった。ふてくされた顔を隠そうともせず、彼を睨む。
「あなたのいう事は本当だったみたいね。ここは異世界なんでしょ?」
「はい。日本、地球とは異なる世界でルナマイールと言います。どういう原理で移動できるかはわかりません。恐らく神力です」
「神力?そんなものがあるの?魔法みたいなもの?」
「魔法のように都合のいいものではありません。この世界に魔法という概念はありません。ただ、天にいらっしゃる神がルナマイールを守り、その子である我が王が国を統治しています。神力は国を守るために使われます」
「ふうん。ものすごく曖昧な世界ね。それで、私、聖女の役割は?この世界を救うとか言ってたけど」
「それは、後程大神官様からご説明があります。つきましては私とあなたの関係は……」
「わかってるわよ。言わないわ。安心して。でも、いろいろ助けてもらうからね。助けてくれないと皆にバラしてやる」
「……畏まりました」
ジャファードは深々と頭を下げ、それは二人の距離を表すようで江衣子は心細くなった。日本とは違う世界、そんな場所で聖女と呼ばれて不安しか覚えないからだ。
「安心してください。この世界にあなたに危害を及ぼすものはいません。いたとしても私たち神殿内で過ごしていただければ安全に暮らしていけます」
「……それならいいけど。だけど、お願い。何かあったらよろしくね」
「わかっております」
夫婦関係を所謂解消したような形なのだが、江衣子はやはり要――ジャファードに期待してしまう。そんな彼女を嫌いなはずなのに、彼はしっかりと頷いてくれていた。
(半ば脅したようなもんだもんね。それは頷くわ)
彼の態度をいいように解釈しようとした自分にツッコミをいれ、彼女は気持ちを切り替える。
「それでは私はこれで退室させていただきます。何かあればジャファードとしてお呼び出し下さい」
ジャファードは言いたいことは伝えたとばかり、綺麗に礼をすると江衣子に背を向ける。
思わず呼び止めたくなったが、それをこらえて彼女はその背を見送った。
*
「おーい。ジャファード」
にやにやと薄笑いをしながら声をかけてきたのは、若手の神官で一番出世コースに近いと言われている貴族出身のチェスターだった。
この世界では彼が異世界に旅立ったのはわずか数分だ。
けれどもジャファードは9年も日本で暮らしていた記憶があるので、かなり久々にあったような気分になる。
目の前のチェスターはそんなジャファードの様子に構わず、にやけた笑みを浮かべたままだ。
彼は陽気といえばそうなのだが、どうも神に仕える神官職にありながら、軽い男だった。金髪に青い瞳の王子様のルックスを見事に利用して、女性たちに誘いをかける。日本と同様、神に仕える神官にも結婚は許されている。男女の交際もだ。なので、彼は女性を渡り歩いていた。けれども性格自体は明るくて、平民であるジャファードにも公平に接してくれるので、彼としては話していて気分が悪くなるような男ではなかった。
「なんでしょうか?」
そんなチェスターの様子に懐かしさを覚えながら、彼は聞き返す。
「聖女様ってどんな顔なんだ?美人か?」
いきなりの質問に一瞬言葉を詰まらせるが、彼は正直に答えた。
「普通です」
「普通か。つまんないなあ。でも聖女っていうくらいなのだから清らかなんだろう?」
「……それは知りません」
痛いところを突かれたがジャファードは内心の動揺を必死に隠して無表情に返す。
「聖女様は儀式が終わったら帰るのかなあ。それとも残るのかなあ。100年前は残ったんだろう?」
「そうみたいですね」
「聖女を妻にしたら箔がつきそうだな」
「チェスター様には必要ないのでは?」
「いや、聖女を妻に持つ大神官とかかっこよくないか?」
「まあ、そうですね」
ここで同意しないと面倒なことになりそうだと、彼は頷いて見せる。しかし、それを賛成とみなしたようで、チェスターはジャファードの両肩に手を置いた。
「じゃあさ、協力してくれよ。俺が聖女様に近づけるように」
表情はにやけ顔。ハンサムなのにもったいないダラシナイ表情だ。
ジャファードは胸中に抱える想いを無視して答える。
「えっと、まあ、聖女様のところへ行く用事があればそういたします。多分ないと思いますが」
「やる気がない返事だなあ。まあいいや。ハンサムな神官がいるって聖女様にそれとなく宣伝してくれよな。それじゃあ!」
彼は力一杯両肩を叩くと、痛みで肩を押さえるジャファードを無視して、元気よく奥の部屋へ消えてしまった。
「本当。あの人も自己中だな。だけど……江衣子、様は好みじゃないだろう」
江衣子は自分からぐいぐい行くようなタイプが苦手であった。なので、間違っても彼女がチェスターを好きになることはない。
ジャファードはそんなことを思って、自嘲してしまう。
「彼女は新しい人生を歩むんだ。もしかしたら違う選択をするかもしれない。俺は今の彼女を知らないんだから」
彼は彼女になかったことにしてくれと頼むまでに色々考えた。
15歳の年に彼女は両親を亡くして、親戚の家に預けられた。あまりいい待遇をうけておらず、大学はバイトと奨学金で乗り切り、卒業してすぐに就職した。
彼も結婚式の際に彼女の親戚に会っているが、まったくいい印象を持たなかった。
「……彼女はこの世界に残ったほうが幸せなのかもしれないな。そしたらチェスター様か。まあ、あの人は貴族だし、お金あるしな……。まっ、俺には関係ない」
(彼女の人生だ。だけど、幸せになってほしい。彼女との結婚生活に不満はなかった。彼女もそうだと思う。けれども彼女が幸せだったのかはわからない)
なので、ジャファードは時が巻き戻ることを理由に、結婚をなかったことにと、彼女に頼んだのだ。