02 神官は聖女に懇願する。なかった事にしてほしいと。
(今日は要の好きなコロッケにしよう)
江衣子は夫が喜ぶ姿を想像しながら買い物を終え、帰宅した。
扉を開け、玄関に鎮座するモノに慄き、彼女は家を間違ったかと思ってくるりと回れ右する。しかしふと気がつく。
「要?何してるの?」
玄関先で土下座しているのは間違いなく、夫の要だったからだ。
「お許しください。聖女様!」
「は?」
「私はとんでもない事を!でも大丈夫です。門をくぐれば時間が巻き戻り全てなかった事になりますから。なので聖女様。ルナマイールに参りましょう!」
要は立ち上がり、ぐいっと江衣子に近寄る。少しどころか様子がおかしい彼から、彼女は逃げ出しドアへ後退した。
いつもは余裕たっぷりなのに何故か蒼白な表情。放たれる丁寧語と意味がよくわからない聖女とかの単語。
ふと彼女は彼の頭のてっぺんに異変を見つける。
「コブ出来てる!頭打ったの?病院行こう!今すぐ」
「聖女様。頭は確かに打ちましたが私は正気です。病院などとんでもない。それよりもルナマイールまいりましょう!」
彼は少しばかり血走った目をしており、とても正気とは思えなかった。なので彼女は腕を掴もうとする彼から逃げようと必死に抵抗する。その勢いで買い物袋が宙を舞い、パン粉やジャガイモ、玉ねぎが袋から溢れ、爆撃の様に二人に降り注いだ。
「いたっつ!ジャガイモ、玉ねぎ!?」
要のコブを見事に直撃。彼は頭を抑えて座り込む。同様に痛手は薄いが江衣子もジャガイモと玉ねぎの爆撃受け腰を落とした。
玄関付近に降り注いだ野菜としゃがみ込む大人二人。
隣合わせ、江衣子は要を覗き込む。彼はよほど痛いようで顔をしかめていた。
「まず氷で冷やそ。それから夕飯作って。話は後でいい?」
冷静な彼女に要はただ首を縦に振った。
*
「信じられない」
夕飯のコロッケを平らげた後、要から話を聞き江衣子は開口一番にそう漏らした。
「信じられないのも仕方がありません。しかし事実です」
眼鏡のフレームを指でずらして、彼は真剣な瞳を向けている。
「っていうか要、その話し方もやめてよ。気持ち悪い」
「いえいえ、江衣子様が聖女だとわかった今、以前のような言葉使いなんてとんでもないです」
「でも私達夫婦なんだよ?」
「聖女様。その事なのですが……なかった事にはできないでしょうか?」
「は?」
「ルナマイールへの門をくぐれば時が巻き戻ります。ですので貴方様はピュアな16歳に」
「それって処女に戻るから結婚してた事をなかった事にしろってこと?」
「いえ、あの……」
要の言葉を遮り江衣子は問い詰め、彼はしどろもどろになる。額は汗びっしょりだ。
(要には愛されるって思っていたけど違ったの!聖女だかなんだかわからない理由をつけて別れたいんじゃないの?)
江衣子は夢見がちの少女ではない。
現実を見据えるタイプだった。要もそうだったはずなのだが別れたい理由にしてはおかしかった。
「江衣子様はこんな風に食事の準備をされたり、毎日クタクタになるまで働く必要はないのです。ルナマイールに行けば上げ膳据え膳の毎日、きらびやかな生活が送れます」
「要。そんな阿呆みたいな嘘つかなくていいんだよ。本当はただ別れたいだけなんでしょ?聖女とかルナマイールとか変な言い訳しなくていいから」
「江衣子、様!私は嘘をついているわけではありません。ルナマイールの危機なのです。ルナマイールを救う為是非お願いします。聖女様。私の言っていることが本当であることを証明しますから。その上、ルナマイールに私と一緒に戻ってくれませんか?」
畳み掛けるように聞かれたが、即答などできるはずがない。
話があまりにもファンタジーすぎる事、そしてなかったことにしたいという衝撃的な言葉。
江衣子はただ黙って彼を睨む。
「少々お待ちください。手鏡と移動用の腕輪をお持ちします」
要は一礼すると、席を立つ。
彼はすぐに戻ってきて、古ぼけた何やら緑色の石の手鏡と腕輪を持ってきた。
「これが手鏡です。我願う。聖女の姿を映したまれ」
彼がそう唱えると、鏡が光り江衣子の顔が映し出される。角度的に要自身も映るはずなのに、江衣子の顔しかなく、しかも背景は真っ白で家の様子など全く反映されていなかった。
「信じていただけますか?」
「……不思議だとは思うけど、これで聖女とかそういうのを信じてくださいというのはちょっと無理があると思う」
「そう言うと思いました」
幾分落ち着きを取り戻した要は頷く。
「江衣子様。ルナマイールに参りましょう。そうすれば信じられますし」
「確かにそうだけど、変なとこじゃないの?戻って来れるの?」
「勿論です。役目を果たせば日本へ戻れます。16歳のままで」
「え?時は戻らないの?」
「はい。なので、あなたは人生をやり直せるんですよ。言ってましたよね。あの資格も取りたかったとか。なんとか色々」
「そ、そうだけど」
要は取り繕った笑みでなく、買い物に行く前まで見せていた自然の笑みを江衣子に向ける。
それでなんだか胸がどきどきしたのだが、彼女は気が付かない振りをした。
(でも要は、この結婚をなかったことにしたいのよね。……やっぱり愛なんてなかったの?なんでプロポーズなんてしたんだろう。この3年、楽しかったのに)
江衣子と要が結婚してから3年がたつ。
入社1年目で、取引先同士だった。お互いに新人同士ということで気が合い、付き合うまでに至るのは早く、その勢いで結婚した。
(……要の馬鹿!何が聖女よ。この!)
「江衣子様?」
再び黙ってしまった彼女に、要は恐る恐る話しかける。
「いいわ!行ってあげる!そして、あなたとの結婚はなかったことにするわ。それでいいんでしょ!」
「江衣子様……。そんなに怒らなくても」
「怒らずにはいらないわよ!この馬鹿要!もうむしゃくしゃする。早く行きましょう。どうせ時間が戻るんだし、すべてがなかったことになるんでしょ?だったら片付けとか何にも必要ないでしょ?」
「ええ。はい。それでは行きましょうか」
江衣子は言わば自暴自棄状態になっていたのだが、要は同意するだけで余計なことを言うことはなかった。それがますます彼女を苛立たせているのだが、彼は気が付くことはなかった。
「その前に指輪をお渡しください」
「は?」
「身に着けているものだけはそのまま時間が戻っても変わりません。なので、」
「ああ、わかったわよ。同じ指輪をつけていたら怪しまれるんでしょう?いいわ」
江衣子は薬指から銀色のシンプルな結婚指輪を外して彼に渡す。要も指輪を外して二つの指輪は彼のズボンのポケットにしまわれた。
捨てるのではなくそれがちょっとだけ嬉しかったのだが、要の表情はずっと取り繕った笑顔のままだ。
江衣子は一人だけ感傷に浸っているようで完全に面白くなかった。
「早く行きましょう」
「ええ」
だから思わず急かしてしまう。
彼の口元が少しだけ結ばれた気がした。眼鏡の奥の瞳が揺れたような。
けれどもそれは一瞬で、彼は腕輪を嵌め、日本語ではない言葉を話し始める。長々と口にされる異国の言葉が終わり、目の前にブラックホールのような穴ができた。
「これが門です」
穴の奥は真っ暗で、尻込みする彼女の手を要が握る。
「……俺は好きだったよ」
「え?なんて?」
穴から吹いてくる風で聞き取れずに江衣子が聞き返す。けれども彼は答えることなく、彼女の手を掴んだまま穴に向かって進んだ。
「ちょっと待って!何って!」
彼女の叫びのような問いは答えを貰えることなく、そのまま彼女自身と共に穴に吸い込まれた。




