01 その日、彼は思い出した。
「ジャファード。安心するがいい。どんなに時間がかかっても、この門をくぐれば時間が巻き戻される。だから焦ることはない。無事に聖女様を連れて戻ってきてくれ」
大神官は黒髪の神官を安堵させるように微笑む。
「大神官様。このジャファードにお任せください。聖女様を無事に連れてまいります」
黒髪の神官――ジャファードは自信に満ち溢れた表情浮かべ、内心は聖女を連れ戻した時の自身を想像し、浮かれ切っていた。
彼は一介の神官だった。
髪色と瞳が黒色ということで、今回聖女をお迎えに上がる役に大抜擢された。この任務を無事終えれば、彼の出世の道は開けるはずだった。
聖女付き神官になり、そしてゆくゆくは大神官に……。
そんな野望を秘めたジャファードは大神官に、この世界に戻ってくる方法を再度確かめられ、異世界――日本へ旅立った。
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彼は目覚めた時、何が起きたのかわからなかった。
体を起こして頭痛を覚えて、頭を撫でる。頭部に大きなコブができていた。ゆっくりと周りを見渡し、先ずは眼鏡を拾う。転んだ拍子に壊れた様子もなく、眼鏡をかけてから、ゆっくりと再度周りを確認する。そして自身が自宅にいる事を理解した。
「足を引っかけて転んだのか。間抜けすぎ……」
頭を打つ前までの「要」の記憶を手繰り、彼は状況を把握する。
それから、じわりじわりと蘇り交ざり合っていく過去と今の記憶。
辿り着いた結論に、彼はもう一度頭を打ち付けて死にたくなった。
(反省は後だ。とりあえず整理しなければ)
彼は蘇ったばかりのジャファードの記憶を再度整理して、井ノ上要の記憶と整合しようと試みた。
なんせ、彼は9年ほど記憶喪失だったのだ。その9年間、彼は別の人物として暮らし、結婚までしていた。しかもその結婚が大問題である。
彼は異世界……この日本からすると異世界なのだが、ルナマイールという国からやってきた神官だった。名前をジャファードという。
9年前、16歳の時、聖女を探すため異世界(日本)へ繋がる門を潜った。
ジャファードに渡された道具は、聖女を映し出すという手鏡、ルナマイールに戻る門を開く腕輪だけだった。
こちらに渡ってきたとき、言語で不自由することはなかった。門を潜ると言語変換の能力を自動的に身に着けたからだ。
そして恰好も、長髪に中東の方で着られるようなゆったりとした重ね着であったが、コスプレヤーだと思われたのか、視線を浴びることはあっても通報されることはなかった。
目的の聖女探しも簡単に達して、彼の任務もすぐに終わるかと思われた……。
手鏡に映し出された姿と少女の姿を確認して、彼はすぐに彼女の後を追った。
聖女にしては、普通過ぎる容貌。
日本で一般的な黒髪、黒目。華奢といえば言い方だが、貧弱ともいえる体つき。好みではないとどうでもいい事を思っていたのが運の尽きだったか。
彼は「赤信号」を無視して道を渡ってしまった。
彼の姿を見た運転手は慌ててブレーキをかけたらしい。けれども時は遅く、車は彼を跳ねた。
ジャファードの記憶は、車に轢かれたところで途切れている。
そう、交通事故で彼は記憶を失ってしまったのだ。
加害者である井ノ上さんは罪の意識もあって、身元不明、記憶喪失の彼を「井ノ上要」として引き取った。
そこから、井ノ上要の人生は始まり、9年後の今、彼はジャファードの記憶を思い出してしまった。
なんでもない普通の日曜日、妻が買い物を行っている間に、自宅で電気コードに足を引っかけ、転んだ瞬間に頭を打ってしまったのである。
「間抜けもいいところ。だけど、思い出してしまった……。俺はなんてことを!」
彼は床でバカみたいに転げまわる。
ただ記憶を失っているだけならまだよかった。
大神官から門を潜れば時間が巻き戻されると聞いているので、今聖女を連れ帰っても問題はない。
しかし、彼は別の問題を抱えていた。
ジャファードの記憶がきれいさっぱりなくなっていたせいか、それとも聖女への想いだけが残っていたのか。
彼は妻の顔を思い出して、気が遠くなった。
(頼む。他人の空似でいてくれ)
彼はその願い、立ち上がると自室へ急ぎ、引き出しから古い手鏡を取り出す。すこしひび割れたそれは、井ノ上さん――彼の義理の父より事故の前に持っていたものと渡されたものだ。
「我願う。聖女の姿を映したまれ」
彼がそう唱えると鏡が輝き、一人の女性の顔を映した。
「……なんてことだ」
ひび割れた鏡には、彼の妻の顔がしっかりと映し出されていた。