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絶望を飼い慣らす男

INTRO

「きみのお父さんとお母さんがファックして、きみが生まれたんだよ」

ある日、ボロボロのひさしの麦わら帽子の男がそう言った。それはこの世の真理だった。「夏が暑くて冬が寒い」というのと同じくらい、当たり前の話だった。ひとつだけ普通ではなかったのは、僕がそのときまだたった5歳の幼児にすぎなかったという点だ。

当然ながら、僕には男が言っていることの意味がまったく理解できなかった。ただ、素直な子どもだった僕は赤の他人の彼の言っていることをあっさり事実だと信じた。その瞬間、僕の頭のメモリーの中にしっかり『ファック』という言葉が刻み込まれた。

その男は、まだ子どもだった僕の目から見ても、異様な出で立ちをしていた。ボロボロのひさしの麦わら帽子がまず人目を引いたが、服装も負けず劣らずボロボロだった。1度ゴミに出されて返ってきたような汚ならしいパーカーを着ていて、ズボンは家畜用の飼料袋みたいな冴えない黄土色だった。

靴底の消失した革靴(ただし、見るからに高級品)を履いていて、靴下は履いておらず、ズボンの裾と靴の隙間から申し訳なさそうに貧相なすね毛の生えた貧弱な足が覗いていた。

男は手袋をしていたが、右手には穴のあいた黒ずんだ軍手しかしていなかったのに、左手にはかなりがっちりした革グローブをはめていた。そして、男は年甲斐もなく背中にランドセルを背負っていた。ゴミ置き場から拾ってきたものなのか、ロック部分が完全に破損しており、男が歩くたびにかぶせがカタカタ揺れていた。

その格好はまるで、奇妙なホームレスのコスプレのようだった。あるいは本物のホームレスだったのかもしれないが、男は「自分はホームレスではない」と主張していたし、じっさいのところ、本物のホームレスにしては男の瞳には生気が溢れすぎていた。

「金なら売るほどある」と男は話していたが、彼の自信に満ちた顔を見ていると、あながちはったりでもなさそうに思えた。とにかく、そこんじょこらのホームレスとはかもし出すオーラが違った。どちらにしても、僕の中にはまだホームレスという概念はなく、男がホームレスであるかどうかは些末な問題にすぎなかった。

これほど変わった格好をしているのに、男の顔は拍子抜けするほど平均的な顔だった。ビジネス・スーツに着替えるだけで、どこにでもいるサラリーマンのように見えるだろう。

服はボロボロなのに意外と身綺麗にしていて、髪はワックスで常に整えられ、髭もきちんと剃られていた。特にイケメンというわけでも、不細工というわけでもない。あまりに普通すぎるので、まともな服装をして1度人混みに紛れてしまったら探し出すのはかなり困難に違いない。

現に、僕は男が言った言葉のほとんどすべてを未だに記憶しているが、男の顔だけはどうしても思い出せない。それは男と出会ってからかなりの年月が経っていることが原因ではなく、単純に男の顔に印象に残るような特徴がなかったからだ。

髪の毛に少し茶色が入っていたことだけは思い出せるが、顔自体の印象はまったくない。まるでのっぺらぼうだ。

男の年齢もよくわからなかった。若者にしては老けすぎていたし、年寄りにしては若々しく見えた。だから、おそらく中年なのだろうが、その日によって顔の見え方に差がありすぎて、30代なのか40代なのか50代なのか、どうも判別できなかった。正確な年齢を割り出すことは本人以外には不可能に思えた。

僕はことあるごとに本人に「…それで、今一体いくつなの?」と聞いてみたが、そのたびに彼はナットウキナーゼの血栓溶解作用の話を持ち出して僕を煙に巻くのだった(そして、男は納豆が大の苦手だった)。

男は決して、僕に本名を明かそうとはしなかった。「俺に名前などない」と本人は言っていたが、野良猫じゃあるまいし、名前がないはずはないだろう。

一緒にいるあいだ、男が僕以外の知り合いとしゃべっている姿は1度も見たことがなかったので、けっきょく他人から何と呼ばれているのかは謎のままだった。本人曰く、あだ名のようなものさえ存在しないという。

男は他人の名前に対してもこだわりがないようで、会うたびに僕のことを「ナオキ」とか「マサル」とか「テッペイ」とか、そのときに思いついた適当な名前で呼んでいた。

僕の本当の名前は「ユウ」だが、何度訂正したところでいとも簡単に忘れられるので、訂正するだけ時間のムダだった。そして、正しい名前で呼ばれたことはただの1度もなかった。その点にかぎらず、男は短期記憶を自分の都合のいいように脳内で編集する傾向があった。

「あだ名でも何でも、俺のことは好きなように呼んでくれてかまわない」と男がいうので、「変態」「殺人鬼」「下着泥棒歴3年」「温厚なストーカー」など色々な呼び名を試してみたが、どれもしっくりこなかったので、けっきょくシンプルに「おじさん」と呼ぶことにした。

これは、僕とおじさんの物語である。


1・迷子になってしまったよ

さっきも言ったように、おじさんとの出会いは僕がまだ5歳のときのことだった。それ以来、おじさんは僕の人生に折に触れて出現することになる。うるう年のように、忘れかけていたころに定期的にやってくる存在となる。

最初の出会いのとき、僕は激しく泣いていた。僕たち家族は『ひと夏の思い出作り』のために隣県のキャンプ場に来ていたが、僕はひとり遊びに夢中になっているうちに、いつの間にか森の奥深くに迷い込んでしまったのだ。

両親はいちゃつきながらカレーを作るのに夢中で、僕がいなくなったことにまるで気がついていなかった。

ロッジに戻る道がわからなくなったことに気づいた僕は、あっという間にパニックに陥った。

「パパ! ママ! チューバッカ!(飼い犬の名前) どこにいるの?」

泣きながら全力疾走したが、でたらめに前進したため僕はいとも簡単に獣道にはまり、かえって森の奥深く-人間の領域ではない世界-に入り込んでいく結果となった。

真っ昼間にもかかわらず森の中は暗く、夏とは思えないほど肌寒かった。半袖のTシャツしか着ていなかったので、両腕にびっしりと鳥肌が立った。それまで楽しげに聞こえていた野鳥のさえずりさえ、とたんに僕を地獄へといざなう悪魔のくすくす笑いのように聞こえ始めた。

僕はとてつもなく不安だった。もう一生、パパやママに会えないかもしれない。まだ死という概念を実感できるような年齢ではなかったが、両親がいなくなる恐怖は僕の精神を奈落の底に突き落とすには充分すぎるものだった。僕の小さな脳みそはあっという間に絶望感に支配されていた。

足を止めてしまったら永遠に両親に会えなくなる気がしたので、僕は疲れ果ててなおメロスのように走り続けた。走れば走るほどキャンプ場から離れていってることなど、そのときの僕には知るよしもなかった。

しばらく走っていると、ようやく開けた場所に出たが、残念ながらその道はふもとには通じていなかった。目の前に現れたのは切り立った崖であり、人間の足でその崖を下るのが不可能なことは、5歳の子どもでも容易にわかった。

僕は崖の手前にある大きな空き地に目を奪われた。空き地の一角に何かが小山のように積み上げられている。よく見てみると、それはごみの山だった。

足が1本なくなったテーブル、座面に巨大な穴が空いたソファ、両輪がパンクしたマウンテンバイク、扉が壊れたまま開きっぱなしになっている冷蔵庫…など、驚くほど大量のぼろぼろの品々が打ち捨てられていた。

今ならそれらの物たちが不法投棄されたものだと理解できるが、そのときの僕にはどうしてこんなに色々な日用品が山奥にあるのか理解できなかった。僕にとってそこは異様な空間であり、さながら不思議の国に迷い込んだアリスのような感覚を覚えずにいられなかった。

廃棄物を観察しているうちに荒れていた呼吸が整ってきたので、僕はキャンプ場を探すべく、再び果てしない森の中に引き返そうとした。そのとき、何者かが僕の背中に話しかけてきた。

「おーい、坊っちゃん! こんなところで壮大な探検ごっこか?」

人がいるとは思いもよらなかったので、僕は飛び上がらんばかりに驚いた。あわてて振り返り、ごみの山を見返したが、相変わらずその場はしんとしていて、その声がどこから響いてきたのかよくわからなかった。

そのまま逃げ去りたい気分だったが、相手が大人なら両親のところまで連れていってくれるかもしれない。

僕は恐怖を押し殺し、さらにごみの山に近づいた。生ごみも一緒に捨てられているらしく、短い人生経験では嗅いだことのない強烈な悪臭が鼻をついた。活発に飛び交うハエの大群を避けながらごみの山に埋もれている品々を見て回ったが、誰かが隠れている気配はどこにも見あたらなかった。

声が聞こえたと思ったのは、おそらく気のせいだったのだろう。僕がそう結論づけかけたとき、ごみの密集地帯から少し離れた一角に人影が見えた。

そこにはフロントとサイドのガラスがすべて割れて朽ち果てた軽トラが捨てられていた。男はトラックの荷台からむくりと起き上がると、猫のようなやわらかい身のこなしで地上に舞い下りた。

ぼろぼろのひさしの麦わら帽子を被り、年甲斐もなく背中にランドセルを背負っている。僕はまだ「変質者」という言葉は知らなかったが、男の異様な風貌に本能的な恐怖心を覚えた。むしろ、森の中でずっとさ迷っていた方がマシだったかもしれない。

「おうおう、坊っちゃん。こんなところまでひとりでやってくるとは、かなり成長の段階をすっ飛ばしちゃってるみたいだなぁ。卵がひよこを経ずにニワトリになるようなもんだ」

こちらの警戒心を感じていないのか、男はほがらかに言った。言葉とは裏腹に、男の口ぶりからはほとんど驚きが感じとれなかった。幼い子どもがこんな場所にひとりでいるのに、心配する様子さえまるで見せなかった。男はなぜか今の状況を楽しく感じているようだった。

「おじさんは、ここで何をしているの?」

ようやく僕がたずねると、男は小さく肩をすくめた。

「私はここで『釣り』をしていた。この世の中に釣りほど有意義な時間の使い方はない」

男は完全に手ぶらだったので、僕の頭は混乱した。釣りとは、釣竿を使って川や海の中から魚を引き上げる競技ではなかったのか。周囲を見渡しても、どこにも川など見あたらない。

「私がやっているのは、空想上の世界の、空想の釣りだ。そこで私はたいてい空想上にしか存在しない7色に光る巨大なマンボウを釣っている。マンボウは巨大なくせにすばしっこいから、たいていは逃げられてしまう。空想の世界でも、上手くいかないことはいっぱいあるのだよ。

代りにすでに蒲焼きにされた鰻や、たい焼きや、3ヵ国語をしゃべる半魚人がよく釣れる。鰻やたい焼きはすべて美味しくいただくが、さすがに半魚人は食べられないので、海に帰っていただくか、地上での就職先(海辺の観光ガイドや水族館、漁業関連など)を紹介して、手数料をいただく。すでに私には半魚人の友達が67人もいる。人間の友達より多いくらいだ。」

5歳の子どもでも、相手がヤバい人間であることは充分に理解できたので、その話には立ち入らないことにした。

「僕、パパやママのいるキャンプに帰りたいんだ。おじさんどうやったら戻れるかわかる?」僕はたずねた。

「もちろんだとも。もちろんだとも。わたしの背中に彫っている閻魔大王の刺青に誓ってもいい」

男はランドセルをカタカタいわせながら唐突に歩き始め、森林に入っていった。男は地図も方位磁石も所持していなかったが、まるで自分の家の裏山を行くかのように躊躇なく複雑な獣道を駆け下りていった。

歩くスピードがかなり速かったので、僕は走らないとついていけなかった。全力で走っても、彼の背中をかろうじて見失わずにいるのが精一杯だった。子どもの足に配慮するような優しさを男は持ち合わせていないようだ。力尽きたら今度こそ遭難してしまうので、僕は死ぬ気で男について行った。

やがて、男は歩き始めたときと同じように唐突に止まった。僕と違って汗ひとつかいていないし、息も乱れていない。10キロ近く歩いたはずだが、男にとってこの程度は『軽い散歩』なのだろう。

僕たちはいつの間にか獣道からメジャーな森林浴コースに戻ってきていた。数十メートル先で道が2つに分かれている。それぞれ行き先が立て札で明示されていたが、あいにく漢字で書かれていたので僕には読めなかった。

男は右に曲がる道を指差して言った。

「この道をまっすぐ歩けば、舗装された道路に出る。そこを左側に5分ほど歩けばキャンプ場だ。どうだ、ひとりで行けるか?」

「おじさんも一緒にきてよ。おじさんのおかげで戻ってこられたんだ。きっとパパとママもお礼したがってると思う」

僕は男の袖を引っ張って誘ったが、彼は自分のランドセルにちらりと目をやり、「遠慮しとくよ」と言った。

「さぁ、行くんだ。早く戻らないと、今ごろきみの両親は半狂乱になって探してるぞ」

僕は言われるがままに10メートルほど歩いたあと、彼の方を振り向いた。

「おじさん、ありがとう。森の中でひとりでいるとき、本当に怖かったんだ。このまま、パパやママに忘れられてしまうんじゃないかって。ゲームのリセットボタンを押すみたいに、そもそも最初から、僕なんか生まれてなかったことになるんじゃないかって。僕、そう思ったんだ」

男はただ黙ってうなずいた。どういう意味のうなずきなのかはよくわからない。

「おじさん、教えて。僕はどうして生まれたの?」

男はしばらく僕の目を見たまま黙っていたが、やがてこう言った。

「きみのお父さんとお母さんがファックして、きみが生まれたんだよ。きみの存在はそれ以上でもそれ以下でもない。だから、何も不安に思う必要はない」

子どもの純粋な質問に答える言葉として『ファック』はもちろん不健全だったが、そのときの僕は幼かったこともあり、特に疑問には感じなかった。「ファック」の意味はもちろんわからなかったが、なんとなく語感は気に入った。

「それでも、ちょっぴり不安だよ」僕は言った。

男は無造作に僕の頭をなでた。きっと、子どもに触れたことなど1度もないのだろう。ひどくぎこちなく、荒々しい手の動かし方だった。ちょっと痛いくらいだった。

「きみの人生はまだまだこの先クソ長いし、そのあいだに絶望を感じることも多々あるだろう。そういうときは心の中で私にヘルプミーを送ったらいい。私はきっとどこへでも駆けつける。シーサーのような忠実な守護神となる」

男はそう言うなり吸い込まれるように森の中に消え去った。これが僕とおじさんとの出会いのエピソードだが、このときはまさか再びおじさんに出会う日が来るとは夢にも思わなかった。


2・佐藤の女

8歳のとき、ひょんなことから年上の友達ができた。

そのとき、僕はデパートの中で母とはぐれ、ひとりきりでいた(一応断っておくが、しょっちゅう迷子になっていたわけではない)。

母は2階の婦人服売り場にいたが、僕は7階のレストラン街にいた。ちょうどお昼時だったので、おなかが減ってきていたのだ。

僕はフロアじゅうの飲食店のウィンドウを覗き込んでは、驚くほど精巧な食品サンプルを見て唾を呑み込んだ。これだけの数の美味しそうな食べ物が同じフロアに結集しているなんて、信じられない気分だった。

母がまめに食事を作る人だったのでめったに外食をする機会がなく、僕はレストランに強い憧れがあった。お金がないのでじっさいに食べることはできなかったが、サンプルを見ているだけで幸せな気分に浸れた。

ただ、このときは残念なことに途中で妨害にあった。集団でやってきた外国人の観光客に洋食レストランの前から弾き出されてしまったのだ。

『ビーフストロガノフ』という魔法のような言葉の響きに酔っていた最中だっただけになんだか興ざめしてしまった。僕は食品サンプルを見るのをやめて、今度は向かいのカフェ(店名は『愉快なドロボウ猫』)の中にいる客の様子を観察することにした。

すぐにひとりの若い女性客の姿が目についた。ねずみ色のジャケットとタイトスカート姿のOL風の女で、服装とメイクは地味だが、髪の毛は明るく染められている。隣の座席にかなり使い古した感じのエルメスのバッグが鎮座している。彼女は足を大胆に組んでスマホの画面に見入っていた。

最初はきれいな女性だから見とれていただけだったが、ウエイトレスが持ってきた食べ物の数を見て、僕は驚愕することになった。彼女がいる4人がけのテーブルが、あっという間にケーキやパフェ、パンケーキなどで埋め尽くされていく。ケーキだけで6種類もある。

彼女はそれだけの量のスイーツに、たったひとりで取り組み始めた。テレビでよく見るフードファイターのような汚い食べ方ではなく、小さなスプーンを使って優雅に食べているのだが、スプーンを口まで運ぶスピードがとにかく速い。

ものの数秒でガトーショコラを食べ終え、一口紅茶を含んだだけですぐさま次のケーキにトライしていった。僕の目は彼女の口とスプーンに釘付けになった。それは食事というよりも、新しいジャンルのマジックに見えた。

気がついたときには、テーブル上の皿の半分以上が空になっていた。あれほどあったスイーツはすべて彼女の胃袋に収められていた。こんまりの収納術でもこう手際よくはいかないだろう。彼女はそのあいだまったく休憩も取らず、水分を口にする回数も必要最低限だった。

これだけのショーが目の前で実行されているのに、残念ながらカフェの他の客はそれぞれ自分の世界にこもっていて、まったく彼女に注意を払っていなかった。ウエイトレスだけが少し呆れ顔だった。僕ひとりが彼女のショーの観客だ。僕はすでに彼女に一定の尊敬の念を抱きつつあった。

あと3皿ですべて食べ終えるというところで、不意にスプーンが止まった。彼女は顔を上げ、カフェの囲いのすぐ外にいる僕を睨んだ。

「ちょっと、きみ。あんまりじろじろ見るのやめてくれない? 見せ物じゃないのよ。さっきから、食べにくいったらありゃしない」

「ごめんなさい」僕は素直に謝った。こうやってしっかり謝れるのは、両親の教育の賜物である。じっさいには、彼女も本気で怒っていたわけではなかったようで、すぐに許してくれた。

「まぁ、いいわ。きみもこっちに来たら? ケーキ1個ぐらいだったらおごってあげてもいいし」

「いいの?」

僕は喜びいさんでカフェの中に入り、彼女の向かいの席に座った。何でも頼んでいいと言うので、しばらくメニューを食い入るように眺めてから、けっきょくシンプルな苺のショートケーキを注文した。

彼女は再び食事を始めた。慣れた手つきでパンケーキにメープルシロップをかけながら、僕にたずねる。

「きみ、名前は何ていうの?」

「ユウと申します」緊張のあまり、言葉遣いが馬鹿丁寧になった。漢字をたずねられたので、カタカナのイに左右の右の『佑』だと説明した。

「お姉さんは、何て名前なの?」僕はたずねた。

これ以上簡単な質問はないはずなのに、なぜか彼女は少し考え込んだ。そして、「私? 私は『佐藤の女』よ」と言った。

『~の女』という意味がよくわからなかったので、僕は混乱しながら聞き返した。

「…つまり、お姉さんの名前は佐藤さんだってこと?」

「私の名前は佐藤じゃない。佐藤ってのは私の今のカレシの名前。本名はあまり見ず知らずの人に言いたくないから、私のことは『佐藤の女』って呼んで」

どうして本名を言いたくないのかよくわからなかったが、とにかく僕はうなずいた。『サトウのごはん』なら知っているが、佐藤の女なんてまったく聞いたこともない。それでも本人がそう呼べと言うなら、僕に拒否する理由はない。

佐藤の女はパンケーキを手際よく8等分に切り分けると、1枚ずつフォークで折り畳んで口に運んでいった。

「お姉さんはそんなにたくさん食べるのに、どうして太ってないの?」

僕はたずねた。食事中に何度も話しかけるのがマナー違反だとわかっていても、好奇心が抑えられない。佐藤の女はどちらかといえば痩せている方だったので、大量の食物がどこに消えているのかおおいに疑問だった。

「私は胃拡張なのよ。したがって、いくら食べても太りません」

僕は『胃拡張』という言葉の意味をまったくわかっていなかったが、知ったかぶりでうなずいた。

「でも、これだけ頼んだら懐は痛くならない?」僕はたずねた。

「べつに。夜に風俗でバイトしてるから、お金はたくさん持ってる」

佐藤の女は澄まし顔で言った。僕は風俗とローソクの違いもよくわからなかったが、またうなずいた。さらに何かを質問しようとしたとき、フロア全体に『迷子のお知らせ』が流れ始めた。ナレーションされた迷子の男の子の特徴は、完全に僕と合致していた。

「お母さんが待ってるみたいよ。もう行ったら?」

佐藤の女が言った。まだショートケーキがきていなかったので名残惜しいが、母をこれ以上心配させるわけにはいかない。最後に「バイバイ」と言って手を振ると、佐藤の女も「バイバイ」と言って持っていたフォークを小さく振った。


なぜか佐藤の女は僕のことを気に入ったようで、それ以来ときどき僕は彼女と食事に出かけるようになった。

毎週日曜の昼すぎになると彼女は僕を家の近くで『誘拐』し、デパートに連れていってくれた。

カフェ『愉快なドロボウ猫』の向かいにある洋食レストランで食事をして、そのあとゲームセンターかバッティングセンター、もしくはカラオケに行って飽きるまで遊ぶ、というのが僕らのお決まりのコースだった。

洋食レストランにはたくさんのメニューがあったが、僕は悩んだ挙げ句けっきょくいつもお子様ランチを食べていた。

佐藤の女は出会ったときのような大食いは見せず、きまって1人前のビーフシューを頼み、それを貴婦人さながらの優雅なスプーン運びで食べていた。

佐藤の女は僕がお子様ランチを食べている姿を見るのが好きだった。「こんなに美味しそうにお子様ランチを食べる子どもはいないわ」彼女はいつも太鼓判を押した。そうやって僕が食べるのを見ているときの彼女の顔には、間違いなく愛情がこもっていた。

彼女にとって僕は、小さな弟か甥っ子のような存在だったのだろう。僕は僕で、彼女のことを本当のお姉ちゃんのように慕っていた。両親以外の人間から庇護を受けるのは、年上の兄弟がいない僕にとっては貴重な経験だった。ただ、どれだけ親しくなっても佐藤の女は本名を教えてはくれなかった。

赤の他人の女とレストランに行っていることを母が知ったら激怒するにきまっているので、僕は佐藤の女の話は一切誰にもしなかった。仲のいい友達にも秘密にしていたくらいだ。ただ、親友のリョウタくんにだけは打ち明けて、ときどき母へのアリバイ作りに協力してもらった。「リョウタくんちに遊びに行く」とさえ言っておけば、母は絶対に疑わないからだ。僕も佐藤の女も、この関係がずっと続いていくことを望んでいた。

「私、佐藤と別れようかと思ってるんだ」

一緒に遊ぶようになって3ヶ月が経ったころ、ふいに佐藤の女が言った。

「佐藤の女じゃなくなるってこと?」

僕がたずねると、彼女は小さく笑った。

「じゃあ、次は田中って男とつき合って、『田中の女』になろうかな」

そう冗談を言ったあと、佐藤の女は急に真顔になった。

「彼、すごく気性が荒いの。最初に出会ったころは優しかったけど、仮面をかぶっていただけだったみたい。普段は冷静だけど、少しでも自分の思い通りに物事がいかなくなると、態度が豹変する。仕事で嫌なことがあったんだろうな。最近彼のDVがひどくなって、会うのが怖くてたまらないの」

僕はDV とDVD の違いもよくわからなかったが、彼女が困っていることはよく感じとれたので、黙ってうなずいた。

「本当に怖い。私、そのうち彼に殺されるかもしれない」

佐藤の女は震えていた。そして、カフェ『愉快なドロボウ猫』のお気に入りの席でさめざめと泣いた。僕は両手をテーブルの向こうに伸ばし、彼女の手を握った。

「大丈夫だよ。お姉さんのことは僕が守るから」

僕は力強く言った。ただ、僕も佐藤の女以上に泣いていたので、あまり頼もしくは見えなかったにちがいない。それでも彼女は「ユウくん、お願いね」と言ってくれた。消え入るような声だった。

1週間後、待ち合わせ場所に佐藤の女は現れなかった。元々彼女が遅刻することはよくあったので、しばらく待つことにしたが、1時間待ってもやはり彼女は現れなかった。

僕は携帯を持っていないので、公衆電話から彼女のスマホに電話してみたが、どれだけコールを鳴らしても彼女は出なかった。嫌な胸騒ぎがしたが、彼女の住所も職場も、それどころか本名すら知らない僕には手の打ちようがない。僕には心の中で彼女の無事を祈ることしかできなかった。

翌朝、僕はトーストをかじりながらなんとなくテレビを見ていた。その日は3連休の最後の1日だったので、だらだら朝をすごしていても母には注意されなかった。テレビには朝の情報番組が映っていた。星座占いによると僕の今日の運勢は大吉らしかったが、とてもそうは思えなかった。

画面が切り替わり、ニュース速報が流れ始めた。殺人事件が起こったらしい。しかも、現場は僕が住んでるのと同じ市内だ。僕は、自分の心臓がバクバクと鳴るのを感じた。リポーターらしき険しい表情の男性が、メモを読み上げる。

「たった今、28歳の男が殺人容疑で逮捕されました。男はおとといの夜、自宅で同棲中の恋人の女性と口論になり、女性を刺身包丁で刺殺した模様です。物音を聞いた近所の住人が通報し、警察が犯人の行方を追っていました。容疑者の名前は佐藤……」

僕は、パジャマ姿のまま家を飛び出した。母が呼び止める声も、まったく耳に入っていなかった。とにかく殺害現場に行かなければと思ったが、僕にはそれがどこなのかよくわからなかったので、でたらめに走る以外方法がなかった。

佐藤なんてよくある名前だから彼女のこととは限らない、と楽観視することはできなかった。僕の本能は、彼女が死んだのは間違いなく事実だと告げていた。

いつだったか、真っ暗な森の中で同じように不安を抱いたことを僕は思い出した。あのときと同じく、僕の心は救いようのない真っ黒な絶望感に包まれようとしていた。

あてもなく走っていたつもりなのに、気がついたときには僕は佐藤の女と毎週来ていたデパートの前にいた。

僕はエスカレーターで7階に上がり、カフェ『愉快なドロボウ猫』の前まで行った。まだ早い時間だったので客は数人しかいなかったが、カフェはいつもと同じように営業されていた。佐藤の女はもういないのにカフェはまだ存在しているなんて、僕にはとてつもなく理不尽なことに思えた。

しばらくカフェの中をぼんやり眺めていると、おかしな客がいることに気づいた。男は角の席で観葉植物を愛でながら新聞を読んでいた。

一見すると、日本経済新聞を読みながらモーニングコーヒーを楽しむ、どこにでいるスーツ姿のサラリーマンのように見えたが、男が座っている反対側の座席に、なぜか使い古した茶色いランドセルと、ぼろぼろのつばの麦わら帽子が置かれていた。どちらも、僕がかつて見た覚えのあるアイテムだった。

「何だこのコーヒー、泥を煮詰めたような味だな」

僕がじっと見つめていると、男はふいに独り言を言った。間違いなくあのときの『おじさん』だ。僕はそう確信した。顔にはまったく見覚えがなかったが、声にはたしかに聞き覚えがある。

「おじさん、ここで一体何してるの?」

そばに寄って話しかけると、おじさんは話しかけられることを予期していたかのように、ゆっくりと新聞を畳んでから僕を見た。

「お前さん、まるで夢遊病者みたいだな」

そう言われて初めて、僕は自分がパジャマ姿のまま家を飛び出してしまったことに気づいた。今さらながら恥ずかしくなってきたが、一旦家に帰るわけにもいかない。

おじさんがあごで「座れ」と指示したので、僕は椅子に置かれたランドセルと麦わら帽子をテーブルの下の荷物置きに移し、おじさんの向かいに座った。

さっそくウエイトレスが注文をとりにきた。僕はお金を持っていなかったが、おじさんが払ってくれそうな顔をしていたので、あったかいハーブティーを注文した。ウエイトレスは相当なプロフェッショナルらしく、僕がパジャマを着ていることに気づいても眉ひとつ動かさなかった。

しばらくお互いに沈黙していたが、ハーブティーを一口飲んだあと僕は再び質問した。

「おじさんは、どうしてここにいるの?」

「ここのコーヒーが世界遺産クラスに美味いって、人づての人づての人づてに聞いたんだよ」

おじさんは冗談を言ったあと、肩をすくめた。

「前に約束しただろ。忘れたのか?」

僕は大きく首を振った。

「覚えてるよ。忘れるわけない。あのとき、たしかにおじさんは、また僕が人生に絶望したらきてくれるって言ってくれた。でも、まさか本当に来てくれるなんて!」

驚きと興奮で僕は一瞬悲しみを忘れていたが、気分の高揚は長くは続かなかった。おじさんが現れたということは、やはり佐藤の女は死んだのだ。一縷の望みを抱いていたわけではないが、親しい人との死別をまだ経験したことがない僕にとって、その事実が確定されるのはかなりの苦しみを伴うものだった。

僕の頬を幾筋もの涙が猛スピードで流れ落ちていった。おじさんはお悔やみを言うでもなく、僕を慰めるでもなく、ただ僕の様子を観察していた。その顔からは特段の感情は読み取れなかったが、どれだけ励まされたところで今の僕にとっては無意味だったので、おじさんのことを薄情な人だとは思わなかった。

おじさんは何も言わずに、ひたすら辛抱強く僕が泣き終わるのを待ってくれた。そして、僕がようやくまともに話ができる状態になると、おもむろにテーブルの下から何かを取り出した。それは、すでに何度も使い込まれたようなぐしゃぐしゃの白いビニール袋だった。

「今日私がやってきたのは、きみにこのギフトを渡すためだ。これがあれば、今のきみの絶望は多少は薄くなるかもしれない。もちろん私としては、そうであってほしいと願っているわけだが」

「何これ?」僕はビニール袋をおじさんから受けとった。けっこう大きな袋だが、それほど重さは感じない。袋の口はセロテープでしっかりと閉じられていたため、何が入っているのか、開けてみないとよくわからない。

「開けてみろよ」

おじさんが承認を与えるように言ったので、僕は無言でうなずき、袋に貼り付いているセロテープを丁寧にはがした。

袋の中に入っていたのは、佐藤の女がどこに行くにも持ち歩いていた、少しくたびれたクリーム色のエルメスの高級バッグだった。佐藤の女は普段たくさんの化粧品や小物をこのバッグに入れていたが、今は何も入っていない状態になっていた。

「どうやってこのバッグを手にいれたの?」

僕はたずねたが、おじさんはコーヒーを時折飲みながら薄笑いを浮かべているだけで、質問に答える気はないようだった。いわゆる、企業秘密というものなのだろう。

「ありがとう、おじさん」

僕はおじさんにお礼を言い、カフェをあとにした。その日から、僕は毎晩エルメスのバッグを抱きしめて眠りについた。バッグからは心地よい佐藤の女の残り香が漂ってきたので、僕は佐藤の女がいない寂しさを紛らわせることができた。

寝るとき以外は、バッグをぐしゃぐしゃのビニール袋に入れたままクローゼットの奥に隠しておいた。バッグを抱いて寝る習慣は、それから1年後、母がゴミと間違えてバッグをビニール袋に入ったまま捨ててしまう日まで続けられた。


OUTRO

おじさんはとても律儀な人で、それからも僕の人生に絶望が訪れるたびに、どこからともなく現れた。

かけっこでビリになったとき、上級生にいじめられたとき、テストで0点をとったとき、初恋の女の子にフられたとき、志望していた高校に入れなかったとき、おじさんは必ず僕の元を訪れ、的確な助言の言葉や、今後の励ましになるような『ギフト』をくれた。

成長するにつれて、僕はいつまでもランドセルを身につけているおじさんのことを奇異に感じるようになっていったが、それでも僕はおじさんのことが大好きだった。

変態でもいいじゃないか。下着泥棒(やってないけど)でもいいじゃないか。おじさんはこんなに僕のことを気にかけ、役に立ってくれている。おじさんの正体は依然不明だが、今はおじさんが何者であっても受け入れられるような気がする。

おじさんの献身的な支えもあり、大学卒業後、僕は長年の夢だった公認会計士(堅実な目標だ)の試験に見事合格することができた。

僕はおじさんに感謝の気持ちを伝えたかったが、どこを探してもおじさんは見つからなかった。それはそうだろう。おじさんは僕が絶望しているときしか目の前に現れないのだ。とても残念だったが、わざと不幸になるわけにもいかないので、おじさんに再会することはあきらめるしかなかった。

2年後、僕はかねてからつき合っていた大学時代の同級生と結婚した。僕は今や、あまりにも幸せになりすぎていた。それからというもの、おじさんは2度と僕の人生には現れなかった。きっと、どこか別の場所で不幸な人の役に立っているのだろう。それはとても重要な任務なのかもしれないが、僕はただただ寂しかった。

僕が人生に挫折せずにささやかな成功を手に入れられたのは、すべておじさんのおかげだ。一目でいいからおじさんに会って、お礼が言いたかった。

数年後のある休日、僕と妻は2歳半になる息子を連れて公園に遊びに出かけた。体力が尽きるまで息子と遊んだあと、僕は砂場の近くにあるベンチにぐったりと座った。

「本当に子どもって、元気の塊だよな」

僕は笑って妻に言いながら、持ってきた水筒をごくごく飲んだ。息子は僕がいなくなってもマシーンのようにボール遊びをやり続けていた。さすが、僕たちが『ファック』して作っただけのことはある。

「あそこに置いてあるの、誰かの忘れ物かしら」

ふと、妻がとなりのベンチを指さして言った。僕はそちらに何気なく目を向けたとたん、驚きのあまりベンチからすべり落ちそうになった。

そのベンチには、見覚えのあるランドセルと、ぼろぼろのつばの麦わら帽子が放置されていた。でも、その周囲にまるで人影は見あたらなかった。

























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