表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

近代的彼氏彼女

 この世の中はいつだって大概、狂っている。


 最近の何某が昔と違って駄目だ、昔が良かった、今は駄目だ、などと言い訳じみた前置きがよくよく好まれるが、それに限ったことはない。


 歴史のいつを遡ったところで、誰しも似たようなことを口走っているはずだ。最近のあれこれは乱れている、おかしいと。


 考えてみれば至極当然なことで、世の中を作っている人間たる生きものは、当然のように進歩を続けている。


 それこそ石斧を振り回していた時代からずっと、だ。


 弓矢であれ銅剣であれ、果てや大砲、ピストルと新しいものができる度に、それらは異質なものとして扱われているが、古くなった途端に常識と化し、また新しいものが異質になり替わる。


 とどのつまり、今は、現在は、この瞬間は、異質であり、狂った世界なのだ。そしてそれらと比較され続けている近代こそが、現代への礎であり、諸悪の根源といえる。


 過去の非常識は現代の常識であり、現代の常識は過去の非常識なわけだ。


 そういうものを積み上げて、組み上げてきたのは当然のことながら、そこに至るまでには文化の一つにしても幾つもの人間関係があった。


 言うに事欠いて、近代の人間関係に至っては、それこそ狂気の沙汰にしかなりえない。


 関係を敷くということ、互いが関わるということは、どのような場合であっても何かしらが干渉し合うことと同義だ。


 獰猛な獣が敵として対峙したとき、無傷ではいられない争いが起こるように、関係が生まれると互いに干渉し合い、物事が、事象が、変化、変動していく。


 牙や爪を持つ獣が数匹ばかし一つの土地で争えば、木々が折られ、川が血に染まり、そこに大きな痕を残してしまうだろう。


 では知恵、知識、文化を持つ人間ならば。


 牙や爪など重火器や爆発物などに置き換わり、一つの土地と言わず一国も、世界そのものさえも破壊されかねないだろう。近代の人間関係はそういったものに匹敵する。


 狂った世界、狂った世の中、それらが紡ぎだす狂った現代、そして未来。全ては近代の連中による影響であり、爪痕であり、元凶なのだ。



 ※ ※ ※



 黒谷くろたに闇夜は、高校二年生になって初めての夏を迎えた。


 とはいっても親しい友人関係を持とうとしない闇夜は小中学生時代から例年に漏れず、気兼ねのない日常を過ごす予定しかなかった。


 そのような要因など明白なもの。年相応にない振る舞いが闇夜との付き合い難さを認識させるのだろう。


 ホームルーム前の賑わいだ空間の一部を切り取ったかのように、まるでそこだけがガラパゴス諸島かのように、闇夜の座る席の周辺だけ知人友人クラスメイトがいない。


 厳密には、いることにはいるが、背を向けている、あるいは無関心、意識の外という状態だ。


 そんな状態で何をするというわけでもなく、闇夜は鞄から教科書やノートを探り、次の授業、今日の授業の支度、確認を繰り返すばかり。


 談笑が響くこの教室の中においては可笑しい光景だ。


 周囲からしてみてもその異質さは際立っていた。


 大体、闇夜などという名前も実に可笑しい。


 隣の席の女子だって夢見と書いて「ドリーマー」。前の席の男子だって英雄と書いて「ジャスティス」と読ませる気の利いた名前の多いこの環境の中に、闇夜と書いて「やみよ」としか読ませないのだからなんてつまらない名前なのだろうと思われても仕方がない。


 たまに女の子の名前と勘違いされることもしばしばある。


 しかし、名は体を表すとはよくいったもので、闇夜は文字通り闇夜の如く物静かな気質で、付き合いが少ないものの、周囲から一目置かれる存在ではあった。


 幼少期こそ、手足の生えた漬物石のような扱いだったが、今では動かないガーゴイルのように思う者もいるほどだ。


 学生としての彼は、実に勤勉なもので、素行にも不良と呼ばれる要素など一切見られていないし、学業面で見てもまるでその学校全体の学力を掌握しているかのように平均よりやや上の好成績を残している。


 それでも尚、担任をしたことがある教師からはそれが実力の全てとは思われてはいない。本気を出したら学年と言わず、学校内でも、もっと上の進学校であってもトップ争いしていてもおかしくはないと口頭で言われたくらいだ。


 つまらない名前の上に、生き様までつまらない男だなんて口々に愚痴を漏らすクラスメイトはそう少なくはない。


 何にせよ、黒谷闇夜という生徒は誰とも関わることもなければ、関わろうともしないし、関わりたいと思うような人間もそうはいない、そんな奇特な存在だった。


 だったが、残念なことに、目をつけられてしまった。


 いや、元より一目置かれてはいたのだが、丁度夏前の抜き打ちテストが一つの引き金となっていた。


 別段、その抜き打ちで闇夜は高得点をとったわけでもなく、例の如く平均点よりやや高めだったわけだが、数の神秘というべきか、上と下での差が歴然としていて、実際のところ、平均といいつつも平均点の上限を上げていたのはクラスの優等生の何人か程度で、実際に平均点を取れた生徒は少数派だった。


 その中で平均よりやや上を取ってしまったからこそ、どういう思惑や意図があったのかなかったのか、闇夜は目立ってしまったというわけだ。


 実に抜き打ちの精度がよかったのか、普段高得点の生徒さえも赤点近くまで落とされたものだから飄々と抜き打ちの網を掻い潜った闇夜はさぞかし恨めしかったことだろう。


 おおよその生徒達が一喜一憂している中、彼は相変わらずの素振りなのだから尚更だ。


 白夜びゃくや月光もその一人だった。尚、名前は漢字で月光と書き、「ルナ」と読む。


 闇夜とは打って変わって、数人のクラスメイトに囲まれ、談合をしていた。


 飛び交う言葉、単語の一つ一つが上品な響きばかりで、ある種その一帯も周囲とはまた異なる空間のようにも思えた。まるでそう、花園という言葉が相応しいだろう。


 そして、花園の中心に鎮座する月光こそが、この花園の主を言わんばかり。


 何せ、彼女の容姿は化粧禁止、アクセサリー禁止という校則があって尚も美しさ、可愛らしさなどの魅力を損なわない。彼女は男子であろうと女子であろうと気を惹くほどのものがあった。


 本人非公認の同学年の男子連中による欲望にまみれた格付けアンケート、結婚したい女子、彼女にしたい女子ランキングでも一位には至らないまでも上位に組み込む程度でもある。


 月光は、元々中学校まではいわゆるお嬢様学校出身で、優等生と自負して高校まで過ごしてきたが、その実、過ぎた自惚れによってしばしば学業を怠り始めたのを皮切りに成績を落としてしまい、今に至る。


 家族からの失望も計り知れないもので、高校進学の時点での彼女の心境など言葉では表現するに足らない。


 決してこの高校では落ちぶれてはいなかったし、闇夜に比べてしまえば圧倒的に友人関係も良好な方だったが、昨年末辺りから平均のラインと隣り合わせのストレスに苛まれていた。


 そして今回の平均落ちだ。どれだけ闇夜が疎ましいと思ったことか。


 自分よりも優れた答案用紙を受け取る無表情のあの横顔が脳裏をよぎる度に奥歯がきしむ。


 闇夜を月光ほど睨みつけたものはいない。


 学業こそ、成績こそ闇夜と月光は同じラインに立っているのかもしれないが、周囲からの印象などはまるで正反対で、互いにあいまみえることもない遠い存在のはずだった。


 しかし、そのような経緯など闇夜は知る由もないし、仮に知っていたところで、どのように対応していただろうか。


 何にせよ、これまで闇夜が自覚してかしないでか整合してきたものに生じたこの僅かな歪は闇夜に何かしらの影響を与えることは明白だった。


 そうして、一つ、物事が秘密裏に動き始めていた。


 黒谷闇夜は、おそらく退屈な授業の中、あくび一つせず、黒板のごちゃごちゃとしたチョークの文字を手前のノートに清書していた。


 あまりにも歪な文字の羅列は、ノートの上でコンバートされたかのようにキレイに並ぶ。


 その姿たるや、人間翻訳機のようにも見える。


 見える、とはいっても、それはあくまで闇夜のその姿を一部始終注視していたときに限りそう見えるというだけであって、闇夜は大して目立つ気質でもないので、気に留まるものがまずいなかった。


 ところが、それはつい先日までの話で、白夜月光は気に留めていた。極めて不快な思いをしながらも、凝視していた。


 教師がチョークで黒板をコツコツと叩く音を無視して耳をすませば、密かに月光の方から歯ぎしりの音が聞こえたに違いない。


 月光の机の上で、授業が始まってから何本目かのシャーペンの芯が折れた。芯の替えはいくらでもあるとはいえ、一方のノートは黒ずみを隠せないような状態にまで至っている。


 きっとこんなノートを持ち帰り、自宅で復習しようものなら授業内容の前に復讐を覚えることだろう。


 もはや月光の集中力など、全て闇夜に奪われていたに等しい。


 黒く、淀んだ、おぞましい何かが、月光の体の奥の何処かにある鍋のようなものの中で延々と零れんばかりに引っ掻き回されていた。熟すのももう時間の問題。


 そうこうしているうちに、ようやくしてか月光の中の理性を司る糸が何本か切れた。


 無論、そんなものの音などしないし、周囲にいた誰かが気付くこともなかったが、それがトリガーだった。


 とうとう月光は闇夜に狂った。


 そうしてまもなく、学校中にチャイムの音が響き渡り、誰しもが張っていただろう緊張の糸のようなものがぷっつりと途切れて唐突なまでに疲労感や安堵を覚えた。


 今日の授業を全て終了し、教室中がざわざわがやがやと帰りの雰囲気を漂わせていた。


 それに感化されるまでもなく、闇夜も一通り鞄の整理をすると、片肩に鞄を背負い、扉を潜った。さも、当然かのように、月光も後を追う。傍から見れば珍しい光景だ。


 まだ、この日には誰も気づくことはなかったが、これからしばらくこれが当然のようになっていくのだった。



 ※ ※ ※



 もう間もなく訪れるだろう期末テストの憂鬱さを払拭するかのように夏休みの話題が蔓延し、遊びに惚けたような言葉が自然と飛び交う雰囲気にまみれた教室の中、相変わらずの闇夜は孤高にすましていた。


 海に行こうなどと誘いもせず誘われもせず、山に行こうなどとも以下同文。


 授業を終えるなり、クラスメイトと夏の雑談を交わすこともなく、闇夜は月光とともに教室を出る。なお、一緒に並んで、というわけではなく、月光は無言で後を追っているだけである。


 そろそろ誰かは密かに月光の動向に気付き始めた頃合いではあったが、月光の思惑までは未だ誰も知る由などなかった。


 その何かの決意に満ちる泥みたく濁る瞳に誰が気付けようか。


 しかし、気付かれようが気付かれまいが、月光の決意に何かしらが影響することもなく、それ自体が揺らぐことさえもない。


 これより勝手な苦汁を飲んできた月光が行動を始めるまでだ。


 ストーカー行為も板についてきたようで、おおよそ追跡を追跡と悟られる要素が激減してきていた。ただ自然と廊下を歩き、ふと窓の外の景色に目配せなどしながら、さも一人で下校するよう振る舞う。


 間違いなく闇夜を見据えて離さないが、月光は淡々と平然を装う。


 闇夜が月光の気配を察して、唐突に姿をくらますことも考えられたが、これまで不思議に思うほど闇夜は相変わらずの物静かな有様で、今日も今日とて一目と言わず、二目とよそ見したって月光の視界には闇夜が写る。


 下駄箱に至り、靴を履きかえ、昇降口に出るまでも自然を装うには秒単位と相当目を離さなければならないが、闇夜は忽然と姿を消すこともなく、そこで日常のままの姿でいる。


 月光はもう違和感を覚えない。これが闇夜なのだと認識している。周囲がどうあろうと、いつだってマイペースですました奴なのだと。


 校門を抜ければそこはもう市街地。商店街の近辺を沿って歩けば生徒の大半が行きかいするだろう住宅地の道へと続く。


 月光はその大半の中では例外だったが、闇夜は例外ではなかった。


 闇夜の家は同じような屋根の続く住宅街の中で一際存在感のあるマンションの一室にあることを月光はつい最近知った。


 その周辺は十数年ほど前から都市化計画なるものの影響で、空き地や駐車場の広い空間が点々としており、傍から見れば歯抜けのブロック塀が延々と続く迷路のような場所。


 その中心に都市化計画の第一号として建てられたそのマンションの住人や関係者以外にとっては、用事もなければ訪れようとも思わない場所。つまりは、人気は薄い場所ともいえる。


 月光にとって、これほど好都合なことはなかった。


 闇夜は孤独であり、この場所も繁華街に比べれば閑散としている。隠密に事を運ぼうとするならばこれ以上のものはそうそうないだろう。


 月光が動く決心を固めるのも存外早かった。


 誰も見ていない。周囲に誰もいない。闇夜以外にその場に誰もいない、そう確信した瞬間、月光のどす黒く溜まり続けていたソレが行動力の燃料のように燃え上がった。


 月光は学生鞄から授業では到底使われないであろう得物を取り出す。伸縮式な棒状のもの。何処からか入手した警棒だ。見た目によらず結構丈夫なゴム質の棍棒だ。


 息を殺したまま、足音を消し、闇夜との距離を詰める。もう気付かれたってどうにもならない。十数メートルともない距離で踏み込みが一層強くなる。


 気付かれたか、いや、まだ闇夜は振り向かない。射程内に入り、月光の手が振り上がる。


 鈍い衝突の音。


 掠った音ではない、直撃の音。


 興奮に急かされた月光は、周囲の時間を置き去りにしていく。成功したのか失敗したのか、判断するこの瞬間が恐ろしく長く感じていた。


 闇夜の後ろ姿が振り返ることもなく、ぐらりと傾き、溶けた粘土のようにゆっくりと地面に落ちていく。それが何かの冗談みたいに見えて、月光はうすら笑みを浮かべてしまった。


 思いのほか、血は出ていない。


 人気のないこんな殺風景な道の真ん中で、不恰好に倒れる闇夜の姿のこの滑稽さはどうだ。月光はとうとう息をこぼしたようなおかしな笑い声が出た。


 だが、月光の計画はまだ終わっていない。


 路上に突っ伏した闇夜の傍らに寄り、息を確かめる。


 そうして予定通りに闇夜がまだ生きていることを確信すると、月光は全身をまさぐるようなおぞましい昂揚感にかられた。そう、月光の計画はここから始まる。


 月光は想定していたよりも重かった闇夜の上半身のさらに半身を、か弱いと自称する力を振り絞って不器用に抱きかかえ、いつ転ぶかも分からないようなよれよれでもたもたとした足取りで、その場から何とか離れていった。



 ※ ※ ※



 闇夜が後頭部の鈍痛に、ようやく息を吹き返す。


 夕方近くだったように思えたが、辺りは妙に暗く、周囲を見回して分かることは、そこが何処かの倉庫のような場所だというくらい。


 やけに埃とガソリンの匂いが鼻につき、長いこと放置されていた場所だということが容易に想像できた。


 椅子に座っていることにまでは気付けたが、ロープで身体ごと締め付けられていたことに少し遅れて気付いたせいで、闇夜は立ち上がろうとするも大して身動きをとれず、ガタンと椅子を鳴らしただけで終えた。


 そんな闇に慣れない視界で他に目に付くものといえば、同級生かつクラスメイトの白夜月光の仁王立ちくらいだろうか。


 驚きもせず、動揺もすることなく、闇夜が呆けていると月光が言葉を強く刺しこんできた。


「ごきげんよう、闇夜さん」


「ごきげんよう、月光さん」


 呂律の十分に回った流暢な言葉を交わし合う。それはあまりにも自然で、不自然だった。


 闇夜と月光はお互い初対面から一年と数か月ばかし。これが初めてのコンタクトだった。


 月光に至っては、闇夜の声を聞いたのも初めてだったかもしれない。


「ずいぶんと、余裕にすましていますのね」


「余裕に見えるというのなら、あなたがそれだけの余裕を与えてくれた、と解釈していいのかな」


「気味の悪い男」


「鈍器による後頭部殴打、そして拉致監禁。あからさまな傷害罪その他諸々を気負った状態で冷静に話せるあなたも十分気味が悪い、に該当すると思うのだけれど、いかがだろうか」


「思ったより饒舌で驚きましたわ」


「思ったより行動力があってこちらも驚きだよ」


「あなた、ご自分の置かれた状況というのを分かって?」


「そうだな。殴られて拉致られてロープでグルグル巻きという状況なのは分かるよ。最近やった抜き打ちテストで好成績とれなかった腹いせといったところだろうか」


「口を開くたびに憎たらしいのね」


「愛い言葉が聞けると思っているのなら、この状況を分かっていないのはあなただろう」


「そろそろお黙りなさいな」


 倉庫の薄闇の中、月光の手の中で何かが音を立てて光る。手の中に収まり、弾けるような音を立てて光るもの。それが護身用のスタンガンだと気付くのは割とすぐだった。


 暗がりで見えない表情はおそらく鬼の形相のようだと少なからずとも月光だけはそう思っていたことだろう。


「これからあなたを痛めつけて差し上げますわ」


 スタンガンの電圧を上げ、月光は闇夜ににじり寄る。


「痛めつけて、痛めつけて、痛めつけて。私に逆らえないよう調教しますの。さしずめ、あなたは私の下僕となりますのよ」


 狂気に震えた声。反して冷静な口調、狂った言葉。


 スタンガンから発せられる極めて弱い電光に照らされる表情は、途方もない悦楽に歪んでいた。


 ここに至るまでに思い描いてきたその全てが実現された悦びの顔だ。


 憎いから、忌々しいから、あえて殺さない。


 徹底的に嫐って、その体にも心にも癒えない傷跡を残し、死ぬまで恐怖と屈辱に苛まれる苦痛を味わい続けさせる、それが今回の月光の計画の全てだった。


 手のひらに収まるような小さな羽虫を、握りつぶすことを我慢し、代わりにカゴに閉じ込めて逃がさず、くたばるまでいじめ続ける無邪気かつ残酷な子供のよう。


 この日のために、この時のために、鞄の中にはいくつもの道具を用意してきた。


 うら若き乙女なら名称も分からないか、あるいは言いよどむような代物ばかり。持物検査に引っかかってしまったらどう言い訳したって弁明の余地のないものばかり。


 それらが闇夜を壊すと思っただけで、月光は悦に浸れた。


 明日から月光の顔を見る度に恐怖に怯え、助けを乞う闇夜の姿を、月光はまじまじとまぶたの裏からすかして見ていた。


 全ては思い通りと、月光だけはそう思っていた。


「さあ観念しなさい、闇夜」


 闇夜の顎下、首元に目掛けて、構えたソレが差し出される。


 次の瞬間には、闇夜の悲鳴が聞こえるものと思っていた。


「ヒ、キャッハアアアアアアァ」


 そう思っていたのもやはり月光だけだった。


 よく声の反響するこの倉庫内、予定では闇夜のあられもなく情けない悲鳴が響き渡るはずだったが、ほどよく響いたのは月光の、まるでさかった雌猫のような引きつった悲鳴だった。


 月光は何が起こったかも分からないまま、その場に倒れ込む。


 一方の闇夜は、振り上げた片足をそっと下すと、そのまま立ち上がり、身体にまとっていたロープからするりと抜けだした。


 月光は全く気がついていなかったようだが、ロープは闇夜の胴体と椅子の背をグルグルに巻きつけただけだったので、両足は全くの自由だったことはおろか、ゆっくりと立ち上がれば、いともたやすく抜けられるようになっていた。


「せめて足の方も縛っておけばよかったのに」


 と、誰に聞かせるわけでもない言葉をそっと漏らした。


 説明するほどもないことだが、月光がスタンガンをつきつけた瞬間に闇夜はその手を蹴りあげただけだった。


 ただ、どうも偶然が重なったようで、蹴られた衝撃で月光の手から離れたスタンガンはあろうことか月光の懐へ飛んでいってしまったらしく、電圧を上げたそのスタンガンの威力を自ら味わう形になったようだ。


 先ほどの気取った態度や、普段の八方美人を醸し出す彼女からは想像もできないほど不恰好に仰向けで倒れる月光の姿は、無様という言葉以外でどう表現しようか。


 何より無様なのは、完全なる無防備なソレをたった今の今まで、敵視していた闇夜の前に晒していることだ。


 無論、闇夜も何事がなかったかのように月光を残し、このがらんどうの倉庫を後にする、などという選択はせず、おもむろにそっと割れ物を扱うように月光の身体を抱き上げると、先ほどまで自分が座っていた椅子へ下し、ロープを拾い上げた。



 ※ ※ ※



 月光がふと気付いたとき、その視界は全くの暗闇だった。頭もボーッとしていて、体も無気力。動かそうとしても痺れたように手も足も重くて動かせない。


 まるで中途半端な深夜に意識だけ覚醒してしまったかのように夢見心地な気分だった。


 どうにもならないから早く二度寝して明日に支障のないようにしなくては、と月光のぼんやり頭がゆるく浸食する脱力感にかしずく。


(明日は……、何の日だったか……ん)


 月光はそこまで思い至り、強烈な違和感と危機感が眠気をほどいた。


 ここは何処だ?


 記憶が抜け落ちている。思い出さなければならない類いの重要な何かが。


 煽るように鼻につく埃と油の不快な臭い。自宅じゃあり得ない。


 ここは自宅じゃない。ではどうして眠っていたのか。そもそも自分は何をしていたのか。


(闇夜……、は……?)


 記憶の糸を辿る。確か、学校での授業を終えて、憎き闇夜の後を追っていた。


 気絶もさせて、闇夜のその重い身体を運んで、人目につかない倉庫まで来て。


 そうしてどうなった?


 劣化して画質も音質も落ちてしまった読み込みの遅い動画ファイルを再生するかのように月光の記憶がじわじわと、まどろみの中から形成されていく。


 決着はついていない。スタンガンを構えた先の自分がいない。闇夜はどうなったのか、自分はそこから何をしたのか。


 まだ、自分はあの倉庫の中にいる。月光の鈍い思考がようやくしてそこまでたどり着いたが、安堵など微塵も感じられなかった。


 月光の視界は闇に覆われて、倉庫に臭い以外の情報が全くない状態。


 全身も、ぐったりと疲れていて身動きがとれない。


 この状況が判断できない。辿れる記憶さえも途絶えて頼りにならない。


 恐怖。どうとも表現できない、恐怖が月光の心を蝕んでいた。


 ふとギシリ、と倉庫の何処かが軋む。誰にも使われなくなった古びた倉庫なので何処にガタが来てもそれはおかしくはない。


(何? 怪物!?)


 しかし、月光はそれが闇に潜むおぞましい獣の唸り声のように聞こえ、身がすくんだ。


 声も漏らせない。何処から何が潜んでいるかも分からず、またこちらの気配に気付いているのかさえも分からない。


 気配を悟られた瞬間、食い殺されてしまうかもしれない。冷静など欠片もない月光には、どんな不条理さえも現実になり得た。


 月光は目頭の熱さに、まとわりつく恐怖とそれに対して無力な自分を自覚した。


 助けて。


 そんな言葉が不揃いで下手くそな輪唱のように月光の頭の中を反響し続けた。


 もはや正気の欠けた月光は思考も何もかも放棄されていた。息ごと喉の奥に押し殺された悲鳴の塊が、呼吸に耐え難くなり、一気に飛び出そうとしていた。


 この漆黒に包まれて何もない世界に、一体何があるというのか。


「ごきげんよう、月光さん」


 そうして、差し込まれた。闇夜から月光。


 それを何とも認識できなかった。理解の外から飛び込んできた何か、だった。


 響くのは声とも悲鳴とも言い難く、鳴き声や泣き声ともまた違う。吐き気を催すような、濁ったそれ。嗚咽か何か。


 心臓の鼓動は恐らく、間違いなく、ほんの一瞬だけ停止した。無音が延長されていく。


 月光の意思が白い闇に突き飛ばされて、発狂の限りを尽くしていた。


 再びこの漆黒の闇に包まれた倉庫に戻ってきたとき、今度は確かな覚醒をしていた。


 全身から何とも言えない冷めた汗が吹き出し、閉じ方を忘れただらしない口からは垂れるほどの唾液、頬から顎まで一筋に伝う生温い涙。


 放心から脱したものの、あまりの情けなさに酷く力が抜けていく思いだった。


「ずいぶんと、余裕がないようだ」


 今度は明瞭に月光の耳に届いた。闇夜の飄々とした何のことのない言葉。


 膨張越えて破裂した風船が項垂れるように、今の月光の心はほんの十数秒前とうってかわって大人しく、冷静そのものだった。


 今、自分は倉庫にいる。そして拘束したはずの闇夜に逆に拘束されて身動きがとれない状態にある。


 さらに、体が思うように動かせないのは、拘束だけのせいではなく、自分で用意したスタンガンを浴びたときの痺れが残っているせいだ。


 また、全く視界が開けないのは深夜だからではない。目隠しのようなものがされているせいだ。染み込んだ涙の湿っぽさで分かった。


 そして、闇夜はまだ自分の目の前に立っている。ここまでが、はっきりと理解でき、月光は非常に安堵を覚え、えもいわれぬほどの解放感にも似た恍惚にまで至った。


 しかし、たった一言の闇夜の言葉でここまで安心させられたことを改めて認識してしまったとき、冷めてきていた月光の心にまた再び闇夜に対する黒い何かが熱を帯びてきた。


「闇夜……、闇夜さん……闇夜さん……うくく……」


 醜悪な毒を含んだ言葉の数々が喉元を渦巻いて、出てこない。途方もない疲労感が勝り、怒りや恐怖が入り交じって震える唇から先にそれらを出すことができなかった。


 代わりに出たのは、闇夜の名前だけ。変わりようも変えようもない深い執念の矛先。


「改めまして、ごきげんよう、月光さん」


 コツコツと靴音が近づき、反響する声も間近に届く。


「僕は少し感動し、また少し失望をしているよ。月光さん」


 視界に写らない闇夜の言葉が、闇夜という存在を強く認識させる。しかしその言葉の真意は月光にはまだ伝わらない。一体、目の前に佇んでいるだろう男は何を言おうとしているのか。


 とても穏やかで、やわらかい口調で、ふんわりと言葉を紡ぐ。


「僕はあまり目立つのが好きではない。波風立たない方が、平穏である方が、より安全で、安泰と思っていたからだ。ところが、最近、どうも退屈に耐えかねてきてしまってね、少し、ほんの少しだけ刺激が欲しくなってしまった」


 淡々と、それ以外に与えられない闇夜の言葉が月光に染み込んでいく。


「もし、僕が、少しでも目立ったのなら、どうなるだろうか。今まで身を潜めてきて気まぐれが動いてしまった。どうせ、どうせ一回だし、ずっと目立たなかったのだから、何のことはないだろう、と楽観視しつつも、期待は秘めていた。少しね」


 ふわりと月光の前髪が揺れる。何をしたのか何をされたのかも分からないが、とても近くに闇夜の存在を感じていた。それとともに月光の身体がまたすくむ。


「驚いたよ。月光さん。あなたは僕の思い通りに動いてくれた。天文学的な確率だと思っていたのに、まさかと思ったさ」


「ひぅ……」


 月光の頭に暖かい感触が下りてきた。それが頭をなでる手だと遅れて理解したが、払う意思もなければ払おうとする力も入らなかった。何より、払えるような体勢ですらなかったが。


「シナリオはさ、こうだった。普段から目立たない僕が、何故か優秀な少数派の中に入る。それを疎ましく思った誰かが何かしらの行動を起こす。恐喝なり暴力なり、何かしらの、ね。月光さん。あなたが僕の後を付け狙うようになったとき、楽しかったよ。本当にね」


「ぁう……」


 飼い主にちょっかいを出される飼い猫のように、月光は闇夜のそれをどうにもできなかった。ただただなすがままに、触れる手、なでる手を許すしかなかった。


 心のどこかに心地よさを覚えながら。


「殴って気絶させて、拉致する。ここまでの行動を起こしてくれるとは思わなかったな。本当に想定外。心が躍ってしまったよ。ありがとう、感謝している」


「ゃ……」


 闇夜の名前を呼ぼうとして、感極まる。言葉に詰まる。


 あごを引いて、抵抗と呼べない抵抗をしたつもりになる。


 どす黒かった何かが溶けだしていくような錯覚さえあった。底が見えないほど濁っていたはずのソレが、別な何かが混ざり、違う色に変色していくようだった。


「残念だったのは、ちょっと甘かったところ、かな」


 ゾクリとするほど、闇夜の声のトーンが変わった。変貌したと言ってもいいくらい、口調が少し、おぞましさを含んでいた。


 月光のぽかんと開いていた口が、への字に閉まる。弱弱しく食いしばるようにし、見えない闇夜を見上げた。薄まり消えかけていた先ほどまでの恐怖がもう戻りかけていた。


「調教する、と言ってくれたね?」


 息も飲ませる余裕すらない恐怖は、あたかも月光の心に鋭い針を刺すようだった。


 月光の鼓動は早鐘を打つよう。


 言葉が出ていたならば、何度も何度も謝罪を示すソレを数えきれないほど吐き出していたかもしれない。


 体が動いたならば、すぐにでも見上げた額をそのまま地面に叩きつけるほど下に押し付けていたかもしれない。


「調教するなら、相手を支配しなきゃ。恐怖で支配したかったならもっとやりようがあった」


 月光の両頬を、闇夜の指先がつまむ。


「目を開けた時、女がたった一人で粋がっていただけで恐怖を覚えると思ったか? 拘束すらろくにできないような輩が支配できると思ったか?」


 月光の首が横に震える。


 それはもっともな話だった。


 闇夜は不意を突かれて襲撃されたとはいえ、目が覚めた時に映った光景は同級生がたった一人で佇んでいる光景。


 攻撃的な態度をとっていてもとてもじゃないが凶暴といえるほどの迫力もなく、武器を構えていたってせいぜい猫が威嚇している程度のものにしか思えなかっただろう。


 そして、殺すという意思表示もしなかった。


 ダメ押しに、拘束の甘さゆえに反撃さえも可能な余裕さえあったのだから、何に対して恐怖を感じればよかったのだろうかと言わんばかりだ。


 恐怖というのは言葉にしてみれば単純なもので、人によっては容易く感じることもあれば、神経の図太い人間にはとことん感じないものだ。闇夜は無論、後者、神経の図太い方だ。


 例え、目の焦点も合わないような狂った男が全身を刃物や銃器で武装して襲いかかってきても、逃げるか反撃するかくらいの判断力も損なわない程度には冷静で、図太い。


 一方の月光はといえば、脆い。闇夜と比較してはならないほどに脆い。


 何せ、抜き打ちテストの結果ごときで嫉妬に狂うほどのメンタルの弱さだ。


 突けば割れるガラスの不良品のような脆さ。


 当然のように、闇夜はそのくらい分かっていた。


 だから月光から光を奪った。そうした結果がこの現状だ。


 本当の窮地も知らない温室育ちのお嬢様には、想像することもできなかった手荒い反撃。


 気を失い、興奮から覚めた意識に、何も見えない暗闇。


 この孤独に、恐怖には月光は耐え難かった。


 錯乱して、勝手にありもしない怪物を作りだして、勝手に恐怖を増長させて、勝手に弾け飛んで、この体たらく。


 どうすればいいのかも分からないし、どうしたらよかったのかも分からない。そして、これからどうなるかさえも分からない。


 声以外の情報が与えられない状態で、月光は判断力を完全に失ってしまっていた。


 月光は自分で思っていた以上に酷く脆く儚く弱い存在だった。


「……発想は面白かったよ。いや、むしろ、この発想は面白い」


 倉庫の反響に紛れて掻き消えそうな声。


 それくらいに細い声だが、はっきりと、月光の耳に、心に直接突き刺さる。聞き逃したら殺されるかもしれないという妄想も過っているからだ。


 不意に、月光の顎が浮く。


 闇夜の指先の温もりに気付き、月光は暗闇の先の闇夜を見た。


「さっきも言ったけれど、僕は、退屈していた」


 目と鼻の先、間近で聞こえる声。もう正体がはっきりしているのに、月光はまるで得体のしれない何かと対峙しているような、そんな錯覚を覚えていた。


「だから、いいことを教えてもらったよ」


 目の前にいるソレは一体、何を言おうとしているのか。


「僕は、あなたを、調教しようと思う」


 理解できない言葉を、理解しようと受け入れた時、月光の背筋に酷く寒気が走った。


 液体窒素を吹きかけられたかのように、思考ごと硬直して、月光は意識まで暗闇に落ちようとしていた。


 完全な敗北感を味遭わされた、その男に、自分が計画していたはずの計画を奪われるこの屈辱は抜き打ちテストだなんてくだらないものとは全く比べ物にならない。


 間違いなく調教されてしまうだろうという思いが過り、月光の脳内がまた一層狂い始めてきていた。


 相手は想像もつかないような恐ろしい存在だ。


 そんな存在が、自分に対してどんな調教を施すのかなんて分かるはずもなく、分かりたいと思いたくもなかった。だが、もうすぐ嫌でも分からされてしまうのだ。


 この絶望としか表現しようのない恐怖は月光にとって未曾有他ならない。


「さて、手始めに、どんな調教からやっていこうか」


 暗闇に孤独に響く闇夜の足音に、月光はとうとう堪えきれず、意識をプツリと絶った。



 ※ ※ ※



 月光は、目を覚ました。


 とてつもなく嫌な夢を見た気がしたからだ。


 酷い寝汗で、べったりとした不快感が身体中にへばりつくようだった。どんな夢を見ていたのかはもう思い出せない。


 思い出したくないというのが本音だった。まるで記憶が抜け落ちてしまったかのよう。


 本当にそれは夢だったのだろうか、と月光は不安に駆られる。それくらいに現実味の濃い、奇妙な夢だったように思えた。


 薄手のカーテン越しに月の淡い光が照らす部屋をボーっと眺める。


 時計は深夜を指す。もう一度眠りに就こうと思ったが、体が震えるほどに月光は自分の中に怯える感情がこびりついてしまっていることに気がついた。


 この違和感はなんだろう。この恐怖は何処からくるのだろう。


 きっと夢見心地が悪かっただけだ、などとは月光は思うことができなかった。


 顔を伝う、この涙の痕を指でなぞる。


 考えたくない、思いだしたくない、と頭の中で思っているのに、ぽっかりと抜けた記憶を、違和感をぬぐいたいという思いに負けて、探ってしまう。そして、月光は大きな違和感に辿りつく。


「いつ……、帰ってきたの?」


 抜け落ちた記憶のピースが、月光に途轍もない恐怖を埋め込む。


 ここは紛れもなく月光の部屋であり、月光のベッドの上であり、あまりにも自然すぎるとしかいいようがない状況下だった。


 だからこそこの違和感は、恐怖になりかわる。むしろ今が夢を見ているのではないかとさえ思えてくるくらい。


 夢かうつつか、月光はベッドから跳ねるような勢いで飛び上がり、電気の紐を探して手のひらが中を舞う。カチリと引っ張った紐が軽い音を立てて、部屋中が一瞬で真白く光る。


 眩い部屋に目が慣れる頃には寝ぼけた頭もいやに冷静になる。


 夢だった、夢だったと自分の心に言い聞かせながら、部屋を見渡し、違和感を否定しようとした。しかし、それは目に入ってしまった。


 テーブルだ。ガラスのテーブル。丁度いい大きさ、足元ほどの程よい高さで、ちょっと軽く勉強するときなんかも正座なりあぐらなりかきながら使っている便利なテーブル。


 いや、このテーブルが異常なのではない。問題は、テーブルの上のソレ。


 白い封筒のようだったが、身に覚えがなく、異彩を放っている。


 恐ろしく達筆で「白夜月光様へ」と書かれており、場所が場所ならラブレターとも捉えられただろうが、月光にとっては死刑宣告書のようにさえ思えた。


 触れる指も震えるほどに恐る恐る封筒をつまみ上げる。月光はまるで爆弾を解体するかのようにただ開封するのも戸惑う。


 しかし、このまま封筒をゴミ箱に放り込むなどという選択肢などなかった。今が夢かうつつか、はっきりとさせるための唯一の手段。


 ペーパーナイフを探す間も惜しみ、心臓の早鐘に急かされるように封筒のふちに指先を掛けて、ビリリと封をちぎり落とす。


 中に入っているのは予想に違わず、一枚の便箋が折りたたまれて入っていた。月光はすぐさま抜き取り、開いた。


『拝啓、白夜月光様

 この度は、あなた様への、お手紙をしたためさせていただきます。

 学校の友として日頃切磋琢磨の仲である事に感謝を申し上げます。

 私こと黒谷闇夜は、以前からあなた様をお慕い申しておりました。

 あなた様のことを好きであるという気持ちに嘘偽りございません。

 私からのアプローチに対し好意的に接して頂けた事を忘れません。

 品行方正な面もあり、時には幼気な面もある魅力に惹かれました。

 私は、あなた様と是非、お付き合いさせていただきたく思います。

 そして、あなた様を調教し……』


 あまりにも寒気を感じた月光は、反射的に気づいたときには手紙をビリビリと破り捨てていた。「調教し」の後に続く言葉のおぞましさを直視することができなかったのだ。


 これはなんだったのだろう。恋文だったのか、脅迫状だったのか。理解しようとした月光の脳内を理解の及ばない何かが渦巻いて、本日何度目かの吐き気を催そうとしていた。


 そして、ハッと我に返ったとき、これを変質者からの脅迫状ということすれば通報できるのでは、と思い至ったときには既に手紙らしきものだったそれは、紙くずとも分からないくらいに分断され、いつの間にか手に持っていたライターで焼却済みだった。


 こんなコゲた何かでどう通報しよう。どうしようもなく、結局恋文か脅迫状か分からずじまいだったそれはティッシュに包まれてゴミ箱の中へ、ストンと収まった。


 そもそもの話、被害者は向こうということを忘れてはいけない。危害を加えて拉致したという事実がある以上、こちらは加害者。通報されるのは月光の方だ。


 結果として、何事もなかったのだから何事もなかったことにすればいい。


 コゲたクズの入ったゴミ箱を睨み付けるのを止めて、月光は一刻も早く、今日の出来事を忘れようとした。


 しかし、その目で見て焼きついたあの文字の羅列が月光の中で、よりにもよって、あの闇夜の声で何度も何度も再生される。


『あなた様のことを好きであるという気持ちに嘘偽りございません』

『私は、あなた様と是非、お付き合いさせていただきたく思います』


 ひょっとして、これは告白だったのでは?


 困惑し混乱した月光の頭がそんな断片的なことを理解した途端、焚き木をくべた暖炉のように頬が熱くなり、燃料を得た機関のように胸が激しく高鳴っているのを、月光自身、その身で感じていた。


 それは屈辱なのか、恐怖なのか、羞恥なのか、それともあるいは状況からは考え難いことだが、恋心の芽生えなどというものだったのか。


 どれとも分からない月光は吐き気と目眩に苛まれながらも、明日の学校で闇夜と出会ったときにどのような対応をすればいいのかを脳内で練習し、ベッドに崩れて落ちた。


「闇夜ぉぉぉ…………っ」


 今夜、月光がしてきたことは全て失敗に終わった。それどころか、完膚なきまでに返り討ちに遭った。完敗し、屈服したといってもいい。そして、結果がこれだ。何がなんだか分からない。


 しかし、明らかなことがある。


 これまで月光が学園生活の中で受けてきた数多の下劣な告白の中でも、これほど見事に月光の上手をいく告白を、月光自身は全く経験したことがなかったということ。


『好きです。付き合ってください』

『是非ともお付き合いさせてください』

『もしよろしければ付き合っていただければ幸いです』


 告白なんてものは、目下のものが媚びるような浅ましいものとしてしか認識していなかった月光にとって、何もかも全てを上回った闇夜からここまで高圧的な告白を受け取ったことが何よりも理解できず、混乱を極めるばかりだった。


「……闇夜」


 そのぽつりと呟いた言葉に何が込められているのか。月光自身も分からぬまま、あいにくと夜は更けていった。



 ※ ※ ※



 月光が制服の袖を通した時、ふと胸元に視線が泳いだ。別段、平坦でも山脈でもどちらでもないソレに違和感を覚えていたからだ。


 それは僅かな痛みと火傷のような痕。


 昨晩の出来事が紛れもない現実であったことの証に他ならない。これは闇夜から反撃を受けたときに浴びたスタンガンの電撃によるもので間違いないだろう。


 こんな小さな痕なんてそのうちキレイに消えてなくなるだろうが、月光の中にはいつまでも消えてはくれない現実を突きつけるものでしかない。


 いっそのこと、このまま具合が悪いということにしてしまって、休んでしまいたかったが、あいにくと期末テストも近い。


 優等生を気取りたい月光としては、自宅でこっそり自習するよりもきちんと出席とった上で結果を残したいと思っていた。


 とどのつまりは、学校に行くという選択肢しかないわけで、とどのつまりそれは確実にあの闇夜と出会うことになる。


 ひょっとすれば、闇夜が体調不良で欠席する可能性もあるし、昨日の出来事でむしろ闇夜がプレッシャーを感じて欠席なんてことも十分可能性としては考えられる。あまりにも僅かな希望ではあるが。


 いずれにせよ、気休めの話。今日休んだって明日もそのまた明日もある。闇夜に会いたくないという理由で休み続けていたら結局のところ学校に行けなくなってしまうのだから、遅かれ早かれ覚悟を決めるしかない。


 全身に拘束具をつけたかのようなずっしりとした心持で、月光は玄関をくぐった。


 外は当たり前だが明るく、また暖かかった。昨日の薄暗く、冷たい悪夢のような記憶とはまるで対称的。こんなにも太陽は心地よいものだっただろうか、と月光は今にも溶けそうなしかめ面で、空を見上げた。


 思えば、月光はここのところ、恨みを束ねて闇夜への復讐に燃えていたせいか、ろくな心境ではなかった。清々しいとは掛け離れてはいるが、少なからずとも計画の失敗は月光の心をどす黒く燃やしていた燃料を枯渇させたに違いない。


 ある種、開放感といっていいのかもしれない。敵わないという認識、屈服したという自覚。それらは月光の復讐心をへし折るには十分すぎた。


「おはよう、月光さん」


「ひっ」


 が、それは逆に、月光に底知れぬ畏怖を刻み付けたと言ってもいいだろう。


 予想外の声が予想外にも正面から聞こえた。それはただ単純に、校門の前で待ち構えていたであろう闇夜からの何のことのない一言の挨拶だった。


 しかし月光は思わず、あられもない悲鳴を出しかけて、飲み込んだ。


 どういうわけなのか、理解しようもないが、それまでだったら喋りかけてくることすらなかった男が、気軽に話しかけてきていたのだから。


「や、闇夜、さん……、おはよ、ぅ」


 正直なところ、月光には闇夜の考えていることが何も分からない。


 何せ、昨日襲撃した相手だ。謝罪とか弁明とかそんなことさえもないまま今日に至ったわけで、現実的な話をすれば、闇夜は憤慨しても仕方ないわけだが。


 何故、その男がこんなにも爽やかに月光の前に現れたのだろうか。


「昨日の返事、考えてくれたかな?」


「キノウノヘンジ……」


 月光にとってイレギュラーなことが起こりすぎた。もうすでに頭の処理が追いつくわけがなかった。闇夜の言葉をオウム返しするも、言葉の意味まで飲み込みきれていない。


「僕、待っていますから」


 違うだろ。お前はそんなキャラじゃなかっただろう。昨日のアレは全部夢だったのか。月光の中で沸き立つ感情と言葉が洗濯機のようにゴウゴウと回転していた。


「昨日のこと、本当なんですの?」


 目の中をぐるぐるとさせながらも、言葉がポロリとこぼれた。一番の本音だ。


「ええ、もちろん」


 闇夜がどう解釈したのかは知らないが、ハッキリとした答えが返ってくる。そしてそのまま納得したかのように闇夜は踵を返し、校門を潜り、ごく自然と登校していく。


 その姿は、あたかも普通の学生のように振舞っていた。


 勿論、闇夜は普通の学生なのだから、そこに不自然さはないが、月光にとってはその一連の流れすら、白昼お化けのようにも思えていた。


「おっはよ! ルーナさんっ♪」


「はっひ!?」


 月光が背中をポンと軽く叩かれ、小ジャンプしつつ振り返るとそこにはいつものクラスメイトの一人がニヤニヤとした表情で、月光の顔を覗かせていた。


「あ、ああ、白絹シルクさん。おはよう」


「今のってヤミヨくんだよね? まさにルナが意中の彼♪」


「は、はいぃ? 何のことでございましょう?」


 意中の彼。どのような経過を経て、そのような解釈に至ったのか。ただでさえ、今このときも月光の頭の中は混乱に苛まれているというのに、尚のこと拍車が掛かる。


「隠してるつもりかもしれないけどさぁ、バレバレだかんね? 毎日こっそり後つけちゃってさ、もう周知の事実ってヤツだよ~」


 月光はふと何のこと?と思い至って、その答えは割と直ぐに算出できた。そういえばここのところ、そんなことをしていたような気がした。


 というか、闇夜のことばかり考えていて、自分のことを意識してなさすぎて、気付いてもいなかった様子だ。


 しかし、それはあくまでも復讐の機会を伺うためであって、月光の行動にそのような意図はない。たどたどしくも、反論の言葉はすぐさま出た。


「そ、それはご、誤解、ですわ」


「じゃあさ、今の『昨日の返事』ってなぁに? 『待っていますから』ってどうゆうこと~?」


 今度は反論の言葉が出にくかった。またしても処理能力の限界を超えてきたようで、今にも月光の頭が沸騰して湯気が吹き出しそうなくらいだ。


 闇夜が意中の彼? まさかそんなことはない。憎い相手だったはずだ。


 しかし、昨日の一連の出来事で、月光の中に燃え滾っていたその憎しみは欠片も残らないくらい粉砕された。むしろ恐怖が芽生えているといっていい。


「ヤミヨくんってよく見るとイケメンだもんね。なんとゆうか、まだ誰も手をつけてない優良物件? 強いて言うなら根暗なところが玉に瑕ってとこカナー」


「あ、あの……白絹さん? その、あの、誤解……誤解でして、よ?」


「まあま、隠さなくていいって。なんにしても、この後、ヤミヨくんに返事するんでしょ? なぁ~んのことか分からないけどぉ~」


「へん、じ……?」


 月光のフル回転したカラ回り脳みそが処理を弾き出す。


 返事というのはつまり、おそらくは昨日の恋文らしきものの返事のことだ。歯に衣を着せぬ、歯の浮くような言葉の綴ったアレだ。


『私は、あなた様と是非、お付き合いさせていただきたく思います』


 月光の脳裏を貫く闇夜の声で再現されるあの言葉。


 月光に、闇夜と付き合うという光景は到底想像もつかなかったが、「NO」と答えようと心の中で思ったその刹那、突如月光の頭の中は深遠の暗闇が包み、また、闇夜の声で言葉が脳裏を過ぎる。


『僕は、あなたを、調教しようと思う』


 何も見えるはずもない闇夜のような暗闇の奥から、確かに聞こえていた言葉。


 もしかすると、返事には意味がないのかもしれない。どうやら、そういう結論を月光の脳みそは出してしまったようだ。


「で、ルナ、どうするの? 返事」


「ど、どうしましょう……」


 もし、あの人が彼氏になったとしたら。


 もし、あの人の彼女になったとしたら。


 そんな光景、情景を思うだけで月光は背筋がゾクゾクするようなソレを覚えた。


 そうしてまた、月光の思考はオーバーヒートしたかのように静かに停止した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ