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最果て

 桟橋から足を投げ出すように座って、一人の男が釣りをしている。水面は歪むことなくまるで鏡のように雲の多い空を映し出していて、桟橋と男が空に浮いているように見えた。この世の物とは思えぬ景色に暫し見とれていたが、私は身じろぎ一つしない男に声を掛ける決意をする。


「こんにちは。何か釣れましたか?」

「君が釣れた」


 涼やかな声で切り返されたが、言っている言葉はまるで女好きな駄目男の言葉だった。声を掛けるのでは無かったと後悔するが、もう遅い。私と男の会話が始まってしまった。


 男はこちらを見る事もせず、石のように動かない。頭には古びた尖がり麦わら帽子をかぶり、首回りを襟巻のように布で覆っている。目元は帽子の陰になっていて見えない。声だけを発してはいるが、生きているかどうかも分からないほどに身じろぎひとつしない。


「ここは、どこの世界からも一番遠い場所だ。君は自分がどのようにしてここへ来たのか分かるか?」

「きっと死んだのでしょうね。現実だとは思えないもの、ここ」


 真夏に見かける様な輪郭のくっきりとした雲が浮かんでいて空も明るく青いのだが、太陽がどこにも見当たらない。後ろを振り返るが桟橋はどこまでも続いていて、他に山や陸地、船や建物などは一切存在しなかった。


 せっかくこんなに美しい景色の中にいられるのならばもう少しゆっくりして行こうと、男の隣に腰かけ釣糸の垂れる先を見つめる。しっかりと水面に()かっているのに波紋を作ることもなく静止している糸の先には、魚が食いつく様子もない。そもそも、ここに魚なんているのだろうか。


「ある意味当たりで、そしてはずれだ。君はまだ生きている」


 え、と答える間もなく背中を押されて私の体は水面へと落下した。打ち付けられる感覚はあったのに水音一つしない事に違和感を感じながら。





 二度目に訪れた時には、どういった条件でここに来るのかが何となく分かっていた。


「また来たのか。君の姿を見る限り前回からそれほど時間が経っていないようだが」

「こう見えて病弱なのよ。気絶するのもやむなしってところね」


 相変わらず釣りをしている男は、ため息をついた。おそらくここは私の無意識の世界で、水面の向こう側が私の意識世界。ベッドの傍の窓枠から見える空に無意識に憧れを抱いていて、だからこの世界は一面が空なのだろう。


「どこの世界からも一番遠い場所、ね。私の心の中にあるのだから当たり前か」


 男は答えない。心の中に勝手に住んでいるこの男をどうにかして理解したいと思うのだが、寡黙なうえに表情も読めない。

 けれど、怒られたり怒鳴られたりするわけでは無いので、隣に居てなぜか安心できるのだ。桟橋に腰かけて少しの間ぼうっと過ごす。もしかしたら一瞬の出来事かも知れないけれど。


「また、来られたら来るわ」

「長い付き合いになることを祈っている」


 男の言葉を少しだけ嬉しいと思いながら、私は自ら水面に身を投じた。





 三度目は真夏の暑い日。


「外の世界ではね、戦争をやっているの。ほっといたって人は死ぬものなのに、馬鹿みたい」


 誰にもぶつける事の出来ない静かな怒りを彼にぶつける。彼は周りの人と違って仕方がないとも、そんな事を言うなとも言わず、ただ「そうか」と呟いただけだった。


「結婚したんだけどね、旦那様は連れて行かれてしまったの。全く、病弱の筈の私が、……私だけが、どうして生き延びているのかしら」


 黙っていた男はふと思いついたように答える。


「私に会うため、と言う理由だけでもいいのではないか?」

「……そうね、問題は私がそれを起きた時に覚えているかどうかなんだけど」

「起きた時に心が少しでも軽くなっていれば、それでいい。……けれどもうここへは来るな。こんなに頻繁にここへ来るのでは君の体に相当の負担がかかっているだろう」



 四度目。見慣れた自分の両手はすっかりしわだらけになり、桟橋を歩く足もおぼつかない。もっとも現実世界では寝たきりになってしまってそれすらも出来ない筈なのだが。


「ここは相変わらず静かねぇ」

「何だ、また来たのか。もうここへは来ないと約束しただろう」


 男の声は相変わらず若いままで、ぶっきらぼうだけれども優しさがにじみ出ている。顔は見えないが、きっと自分の選んだ夫と似たような顔をしているのだろう。先に旅立ってしまった夫に話しかけているようで心が弾んでしまっている。あの人もいい男だった。思い出の中で美化されているかもしれないけれど。


 外の世界は随分と騒がしくなり、どんどん目まぐるしく変わっていく。年老いた身にはついて行けなくなってしまった。

 それでも一つだけ、頑張って勉強した。最近発売されたやさしい心理学の本は男の正体を解き明かす手がかりになった。


「あなたは私の人格の男性的な部分らしいわよ。心理学用語でアニムスって言うらしいの」

「さっさと向こう側へ戻れ」


 珍しく男の声は焦っている。全く動かないと思っていた顔を少しだけ傾けた。帽子の下から少しだけ目が覗いている。優しく、けれど意志の強そうな瞳。


 多分、これが最後。だから伝えたかった言葉を口にする。


「ありがとう。ふふ、自分の一部に言うなんてなんか変ね」



 彼女は、水面に落ちることなく消えた。

 男は立ち上がり、釣竿を持ちながら桟橋を歩いて行く。


「こんな男に礼を言うなんて、どうかしてる」


 涙をこらえながら。

 やがて男が消え、世界も消えた。


 最果てで最奥の、物語。


消してしまうのが何だかもったいなかったので取り敢えず。次は別視点で。

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