溜息歩道橋
茜さす歩道橋によっかかっている少女を見ました。
頭上から少女を見てみます。頭のてっぺん、そこから肩までかかる髪は黒く、滴っています。雅な雰囲気を持っている少女です。
彼女の服は黒のブレザー。ひだひだがあるスカートで、冷たい風が吹くたびに揺れます。最近の女の子では見られないぐらい膝丈までスカートの長さを伸ばしていました。いやいや、私が時代遅れなのでしょうね。このスカートの長さは今では案外普通なのかもしれません。
そんな少女の正面へと移ります。
はあ。
白い吐息が空中に吐き出されていました。
下には車が走っています。ぶぉん、ぶぉん、と少女がいる歩道橋の下を通るたびに車たちが唸ります。
少女は首に巻いたマフラーに顔をうずめました。溜息を隠すためかもしれません。マフラーの中から白いもやが立ち上がります。
私は少女の隣に着きます。宙に漂うだけでは足元が心もとないのでたまに、誰かの隣に居たりしています。ここが落ち着くのです。私に心というものがあるというなら、確かにそれが落ち着くのです。
それにしても彼女は何をそんなに悩んでいるのでしょうか。
さっきからずっとこの歩道橋にいるのです。歩道橋の真ん中に立ち、じーっと何かを堪えているかのように手を歩道橋の手すりに置き、車と先にある大きなビル群を見つめているのです。あるいは、そんなものどうでもよくて、空気を見ているのかもしれません。
空気には私のように息づく者達が居ます。それらに耳を傾けていたのかもしれません。
少々気になったので、もう暫く此処に居ることにします。
少女の隣で同じように手すりにもたれ掛かってみます。そして息もできないのに、とりあえず格好だけでも息を吐いてみます。
はあ。
空中に何か異質なものが出てきた気がします。例えば、辛さや、悲しさや、後悔や、それこそ苦しい痛さを感じました。
隣の彼女はやはり何かに悩んでいるようです。
例えばどんなことでしょうか。
彼女は今ブレザー姿。それに女の子です。高校生でしょうか。
高校生なら、勉学に関してきっと悩むことが多いでしょう。周りについていけない自分の頭脳に限界を感じます。何故私はこんなに馬鹿なのか、周りは出来ているのに、私は何故、何故、そんなことを思い悩んでここに来たのかもしれません。
ここの景色は良いものです。明日を望めます。
先のビル群を見ます。ちょうど赤い夕日に照らされた茜色の空を見て、なんて美しいのだろうと自分の悩みなんてばかばかしく思えてきます。
少女は顔を俯かせました。目に涙を浮かべます。
この悩みではないみたいです。
ではどんなことを悩んでいるのでしょうか。
近しいものなら家族なんてものでしょうか。
社会の最小のくくりである家族。組織であるのなら確かにその悩みはつきることはありません。夜になると少女の家ではけたたましい両親が発する声の騒音と痛みが広がる嫌な音が響く、そんな現状なら少女の悲しみや辛さは何億倍も大きいでしょう。
あるいは最後に両親の声を聴いたのはいつだっけ、というような疎遠な家族なら、その悩みも理解できます。
少女はその場に蹲りました。何かつぶやきます。しゃくりまじりのつぶやきでした。
まだ私は少女の中身を見ません。そっと寄り添って、少女が感じることのない私の手を背中に添えて、よしよしと撫でました。しかし、この少女は泣き止みませんでした。
歩道橋の真ん中にいるのに、誰も来ないせいで少女がここで苦しんでいることは誰も気づきません。ここは静かな場所でした。孤独を感じて、空虚に感じるにはもってこいの場所でした。
少女は自身の靴に手を掛けます。
私は驚いて、空中に飛び上がりました。私の存在に気付かないのは知っていました。だからそう言うことで驚いたのではなく、少女のこれからの行動が分からないから驚いたのです。
少女はまだ何か意味ありげに悩んでいました。
くるくると私は蹲った少女の頭上を回ります。
少女は悩んでいました。
もしかしたら、友達関係かも知れません。この年代には多いのです。人間関係のもつれ、しかも恋愛に関係するものならなおさら。少女は愛する人に愛されなかったのかもしれません。愛されていても、届かなかったのかもしれません。
寒空の下それを感じとるのは簡単です。私は一人だ、なんて大勢の中にいても、どこにいても分かってしまいます。恋愛なら愛されない無気力を感じますでしょう。
少女の真正面に、歩道橋の向こう側に飛びます。飛ぶと、足元はおぼつかなくなります。私の真下に今し方車が通りました。ずっと向こうにはバスと大きな貨物車両。大きな車が立て続けにやって来るのが見えます。
少女は変わらず、何かを悩み続けます。蹲り、震える手で靴に手を掛けたかと思えば、脱ぎ始めます。すぽっと案外簡単にローファーと言われるのでしょうか、そんな靴が脱げます。
もっと難しく、何かにこの靴がつっかえたのであれば少女はそこでやめたのでしょうが、結果的にやめませんでした。止める手立てがここにはないのです。この場は一人だけしかいません。一人はそれを可能にしました。
少女はお腹に手をやります。くしゃっとお腹のブレザーを力強く握り絞めます。少女の頬は寒さからか、少女自身の熱でまんまるの赤が灯っていました。そのまま立ち上がり、何かに向けて睨みます。赤い光が彼女のお腹に遮りました。
少女の瞳は悲し気に濁っていました。もう周囲の喧騒も、車のエンジン音も聞こえていません。
少女は手を掛けます。歩道橋の手すりに手を掛け、一歩その上に立ちました。
風が強く吹きます。びゅっと、大きな何かが彼女を阻みます。
私は少女に向き合いました。少女に向け頭を振るも、見えてないでしょう。ちょっとやってみたくなっただけです。
私はようやく少女の中身を感じとりました。彼女の中の記憶が私に入り込みます。
少女はとてもとても悩んでいたのです。
周囲には何も言えませんでした。その悩みは一人で解決しなければならないものだと思い込み、じっと息を潜めていました。そして、恥ずかし気にお腹を見るのです。そのお腹は汚れているように見えました。
恐ろしかったでしょう。悲しかったでしょう。苦しかったでしょう。
少女は誰にも言えず、しかしそのことを友達にも伝えることが出来ず、こうしてここで泣くしかなかったのです。友達を見ると、みな笑い、幸せそうなのに、自身は……改めて見やる少女の体は、とてもとても醜かった。この場所は、錆びた歩道橋の真ん中は、汚らしい少女の最後としては最高のものでした。
私はそうは思わないですが。
少女はまだ若かったのです。まだまだ明日を見つめられる炎がその目に宿っていました。その炎を今は見られないけれど、溜息を洩らした時にはあったのです。それを忘れないでいてほしかった。
「もう無理なの」
少女は小さく呟きます。
歩道橋の向こうへ行くために、大きく足を上げました。
私はじっとそれを見つめます。じっとそれを見つめて、歯を食いしばりました。
少女の足元には青信号で止まっっている車達の姿がありました。まだか、まだ進まないのか、そう告げているように車の一人はクラクションを鳴らします。そのクラクションの先に目を移すと、青信号に変わっているのに動いていない黒い軽自動車がありました。車の運転手は少しばかりぼんやりしていました。
「さんざん考えた」
少女は小さな時間の隙間に呟きます。悲し気な悲鳴を込めて、少女は呻きます。
まだ迷っています。
上げるか、否か。
もう一日生きるか、もう一日生きないか。
明日を見つめて、少女の瞳の奥には暗く濁った未来しかないのです。
「さんざん今日死のうって決めた」
クラクションがしつこいぐらい鳴っていました。
突然少女の思考の映像が私の脳裏に過りました。
それは夜の机で、一人寂しくスケジュール帳を見つめている背中が見えました。そんな少女は思い詰めた表情でぺらりと次の月を開けました。どこも真っ白のスケジュールなのに、その日だけ少女は気にかけていました。何もない真っ白の日なのに、そこを指でなぞるのです。愛おし気に、哀しげに。
『だめ』
私は少女の後ろに回り、ない体で少女の体に飛びつきます。抱き寄せすが、少女には伝わってはいないでしょう。ほんの少し風が吹いた程度に感じるかもしれません。
『だめ。ここで死んじゃ、後悔するよ』
私の残った意志が少女を放っとけませんでした。
『この先良い事があるかもしれない。もしかしたら、あなたの汚れた体でも受け入れてくれる人が現れるかもしれない。あなたは死んじゃいけない』
私は必死でした。伝わりもしないのに、必死で止めていました。そうしないと私の後悔晴れません。私はそのためにこの意志をずっと持っていたのかもしれません。誰かに伝えるために。今この時のために。
伝われ。
伝わって。
手遅れになる前に。
『どれだけ辛くとも、この先きっと救われる一瞬があるはずなんだ。どれだけ酷い人が居ようと、どれだけ辛い境遇だろうと、必死に生きている人に、報われないなんてことない。絶対そんな一瞬があるはずなんだ。だから、だから……』
溢れそうになる過去の記憶を私は抑えました。
『だから、だから』
ぐっしょりと私の姿は涙と血で濡れていました。
『明日死んでいいから、お願い』
少女の体がぴくっと反応した。
『今は諦めて』
「だれかいるの?」
少女は振り返りました。
するとそこには大きな大きなまんまるな茜色の光が落ちていくところでした。水平線が赤と黒でかすみ、幻想的なまどろみを見せます。それを包み込むようにどす黒い赤と澄み切った青が水彩絵の具のように滲み、薄い白の雲がぽつぽつと浮かび上がっていました。
それは私の知っている中で一番きれいな、そして一番大好きな光景でした。
びゅっと風が吹きます。冷たくて動くのすら嫌になってしまうそんな風です。
私は少女に気付かれたのではないかと、ばっと離れ空中で少女を見つめました。少女はその光景に見とれて、目を細め、細い涙の線を目から流しました。
「あ……れっ?」
少女は足元を見ます。どことなく震えている気がしました。手すりの手はすぐに引かれて、足は立っていられずその場で崩れ落ちます。次から次から溢れる涙を茜色は染め上げ、光り輝かせました。
ぼんやりとしていた運転手は車達の列は動き始めました。クラクションは鳴りやみ、少女のすすり泣く声と車のエンジン音だけが大きく唸りを上げていました。
ほっと一息つき私はそよそよとまた空中へ浮かび上がります。
歩道橋の降りた端には、見慣れた花とお供え物がありました。
そのお供え物はどれもいろとりどりで、私にはどれも似つかわしくないものだな、と私は自身が歩道橋から落ちた記憶や後悔と共にその場にそっと捨て置きました。