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悪役令嬢は俺様王子から逃げられない

作者: 忍丸

「ふん。……それで?」

「だ、だから。私は、貴方との婚約を解消したいのです」

「そんな戯言を言っているのは、この唇か?」



 ――つう、と私の唇を彼の白い手袋をした指先がなぞる。


 ……ああ、私の口紅が彼の手袋を汚してしまった。


 べっとりと赤く汚れてしまったけれど、彼はそんなことは全く気にならないようだ。

 胸の鼓動が煩い。壁際に追い詰められているからだろうか、なんだか息まで苦しい。


 燃え上がるような紅い瞳を、うっすらと細めてこちらを見ている彼は私の婚約者。

 この国の第一王子、クラウスだ。

 艶やかな黒髪を持ち、普段は(・・・)優しげな笑みを浮かべ、国民からも広く愛される、この国の後継者と目されている王子――……。


 彼は私を腕の檻に閉じ込めたまま、手に嵌めていた白い手袋を口で挟んで引き抜いた。



「……クラウス。王子たるものが、そんな仕草……なんだか野蛮です」

「ふん、今は俺とお前しか居ないだろう? 誰に見られている訳でもないのだから、問題ない。

 ――それに。俺はディアナ、お前に直接触れたいんだ」



 確かに人払いをしているから誰もいないけれど――。


 ……それにしたって!!!


 私だったら恥ずかしすぎて噛んでしまいそうな台詞を、当たり前のように言い放ったクラウスは、手袋を外した手で私の頬に触れ――そのまま耳に触れてきた。やわやわと指先で耳を触られると、ぞくぞくと背中に甘い痺れが走る。

 顔が熱くなるのを自覚して思わず眉を顰めると、彼はくくく、と喉の奥で笑った。



「や、やめてください。私に触れないで頂けますか。婚約を破棄すると言ったでしょう? こういうことは……」

「だから、ディアナ。俺はお前との婚約を解消する気はさらさらない。そもそも、俺達の婚約は王家とお前の家の間で定められたものだ。お前の一存で勝手に破棄できるわけがないだろう。

 普段のお前であれば、こんなことを言い出すはずはないのに。……何があった?」

「う……」



 クラウスは私の耳元に顔を寄せると、鼓膜にじん、と響くようなよく通る声でそう囁いたあと――



「それに、その他人行儀な言葉遣いも辞めろ。――俺と、お前の仲だろう?」



 それから、私の耳朶に唇を落とした。

 ――ぞく、と背中に快感が走る。

 身体が芯から熱くなる。ああ、もう、なんてこと――……。


 彼の瞳の奥には、激しい炎が燃え盛っているのが見えた。

 私はどうすればこの眼の前の男が婚約を解消してくれるのかが解らなくて、途方にくれてしまった。


 ああ、どうしたらいいんだろう。

 どうしてもこの幼馴染で俺様で王子様な彼との婚約を解消しなければならないのに――。

 私は胸に絶望が広がるのを感じながら、私の運命を変えたあの日のことを思い出していた――……。


 **********


 あの日は、溶けそうなほど熱い夏の日だった。

 ギラギラと照りつけてくる日差しの中、涼を求めて少し離れた湖へと馬車で遠出していたときのこと。

 扉を開け放ち、なるべく薄着をしていたつもりだったのだけれど、それでも馬車の中は熱気で恐ろしいことになっていた。

 侍女に扇子で仰いでもらいつつ、額から滴り落ちる汗をハンカチで拭きながら、湖に到着するまでの辛抱だと自分に言い聞かせ、なんとか凌いでいたのだけれど――私はとうとう倒れてしまったのだ。


 後から聞いた話によると、私の状況はとても深刻な状況だったらしい。

 今だから解る(・・・・・・)。私は熱中症になってしまったのだ。

 熱中症のせいで、すとん、と意識が落ちてしまった私は、気がつくとベッドの上に寝かされていた。

 その時、近くに侍女がいたのだけれど――彼女は大慌てで医者を呼びに行き、駆けつけていた家族が直ぐにやってきて、みんな目に涙を浮かべて私の回復を喜んでくれた。


 けれども、私の回復を喜んでくれている家族を目の前にしても、私は只々混乱するばかりだった。

 その時私の心の中を支配していた感情は――困惑。

 だって、その時既に私は『ディアナ』であって『ディアナ』では無かったのだから。


 目覚めた時、私の中には『ディアナ』という記憶と、『日本の女子高生』という記憶がふたつ存在していた。

 物心ついたときからのディアナの記憶は勿論のこと、それに加えて――日本で生まれ、そして高校2年生という若さで死んだ少女の記憶も存在していたのだ。


 女子高生だった私の直接の死因までは覚えていない。いつも通りに朝に目を覚まし、いつもどおりに母親に見送られて家をでて――それからの記憶がぷっつりと途切れている。

 けれど、死んだのだという感覚はある。……なんだか不思議な気分だった。


 ……異世界転生。

 まさか、創作の世界のことが実際に私に降りかかるとは思わなかった。


 誰にも気付かれないようにそっと瞼を下ろして神に祈った。

 ……どうか、嘘であって欲しい。倒れたせいで、変な妄想が頭を支配しているだけであって欲しい――。

 けれども、一向に頭のなかに渦巻く『誰かの記憶』は薄れてくれなくて、私は『自分が』異世界に転生したのだという事実を飲み込むしか無かった。


 それからの私は大変だった。

 頭のなかに突然もう一人の人間の記憶、知識、感情が流れ込んできて、処理能力を優に越えてしまった私の脳は悲鳴を上げた。

 熱中症から回復したばかりだというのに、今度は違う原因で高熱を出してしまった私は、倒れた時に私を診てくれたお医者様の元でしばらく養生することになった。


 高熱を出してしまった私を診たお医者様は、どういう診断を下したのかは知らないけれど、私を家族の元から引き離し、落ち着くまで放っておいてくれた。それはとても助かった。なにせ私にはふた家族分の記憶があるので、この世界の家族を目にすると、頭が混乱して仕方がなかったのだ。

 お医者様は私の混乱が収まり、気分も落ち着いてきたところを見計らって、話を聞いてくれた。


 頭がおかしくなったと思われるのではないかと、恐る恐る事情を説明した私に、お医者様は語った。



「そうか……それは災難だったね。

 そういった『別の世界』からの記憶が突然蘇るという患者はまれに居るんだ。

 医者の間では『界渡り』と言われているね」

「治療法はあるのでしょうか」

「いいや、無い。その記憶は、確かに君の中に突然沸いて出てきたものだ。

 だけどね、君は自分の中の記憶をどう思う?」

「……どうって」

「嫌だと思うかい? 若しくは違和感があるかな。捨て去りたいと思うような」



 柔らかな笑みを浮かべた初老の医者は、私にそんな質問を投げかけてきた。

 そっと胸に手を当てて考える。

 確かに、『ディアナ』の常識ではありえない知識が、頭の中で渦巻いているこの状況は違和感しかない。

 けれども、この記憶が私の中にあることが嫌かどうかといわれると――……。



「嫌ではありません。……なんとなく、心の何処かで『彼女』も『私』であると理解しているような気がします」

「そうか。ならば、それは飲み込むしか無い。飲み込んで、噛み砕いて。自分のものにするしかないのだよ。……だって、それは『君でもある』のだから」



 お医者様が語った言葉は、まるで凪いだ水面に一滴の水滴を落としたように、静かに波紋を広げ……そして、心の奥に染み込んでいった。


 ――『彼女』と『私』。全く違うけれど、どちらも私なのだろうか。


 それから、私は時間を掛けて、『ディアナ』である自分と、『日本の女子高校生』だった自分を混じり合わせていった。私の中でふたりが上手く混ざり合っていくと次第に熱も引いてきた。

 そこに至るまでは随分と時間が掛かったけれど――ある日、窓から満天の星空を見上げた瞬間に、複雑に絡まり問題を複雑にしていたものが解けたような気がした。


 きらきらと輝く星々。その眺めは、嘗て『女子高生』だった私が好んで見ていたものだった。

 やたらと豊富な星の知識が浮かんでは消える。よっぽど『彼女』は星が好きだったのだろう。


 ……ううん。今でも好きだわ。


『異世界』の夜空は、『日本』とは比べられないほど星の数も多いし、明るい。数多の星がちかちかと瞬きながら私を見下ろしている様はいつまでも見ていたいくらいだ。


 ……ほろり、と涙が私の瞳から零れた。

 ああ、なんて。……なんて、美しいのだろう。


『彼女』が好きだった星を、『ディアナ』である私が見て、『彼女』と同じように心が震えるほど感動して……温かな涙が頬を伝った時。『私』と『彼女』は完全に混じり合い――『ひとりの私』になった。


 同時にとてつもない寂しさが私の心を襲った。

『ひとりの私』になること――それは『女子高校生だった自分』の日本に残してきた家族との永遠の別れを意味したから――。


 それから私は暫く静養して、家に戻った。


 もうこれで、混乱することはないだろう、そう思っていたのだけれど。

 今度は、全く別のことで私は頭を悩ませることになった。

 私の中の『女子高校生だった私』の記憶が言っている。

 この世界は『乙女ゲーム』の世界だと――。

 私はそのゲームの中でいう『悪役令嬢』なのだと――。


 そして私はこのままだと、ヒロインとヒーロー達に断罪され、国外追放されてしまう運命なのだと――。


 **********


 私の目を紅い瞳がじっと見つめている。

 私の心の変化を見逃すまいと、彼は私の目を真っ直ぐに覗き込んでくる。その燃えるような瞳に見つめられると、私の心臓はいつも激しく鼓動を打つ。


 ……彼とは、今までは婚約者としていい関係を築いてきた。

 国のために決められた婚約。――けれど、小さな頃から一緒に長い時を過ごしてきた彼とは、ただの婚約者以上の関係であったと思う。

 ううん……違う。互いの間に芽生えた温かな気持ちを、ふたりで大切に育んできたのだ。


 でも、この世界の『真実』を知ってしまった私には、彼とこのままの関係でいられない。

 破滅することを知っていて、彼とこのままでいられるほど私は強くない。


 だから、私はお医者様の元から戻ってからは、彼から距離を置いた。

 今日は本当に久しぶりに彼の元を訪ねたのだ。そうして、婚約破棄を申し出た。



「理由はどうしても言えないのです。どうしても……」

「…………ふん」



 私はそう言うと、彼の紅い瞳から視線を逸した。

 言えるはずもない。私が『乙女ゲーム』の所謂悪役で、貴方を他の女に盗られまいとして――色々とその女……ゲームでいうヒロインに色々とやらかした挙句に貴方に直接断罪されるなんて。


 ぎゅっと下唇を噛みしめる。

 今はこんなにも私に甘い言葉を囁いてくれる貴方も、あのヒロインに出会った瞬間にそちらに心惹かれて――私を捨てるのだ。それはゲームの中で定められた物語(ストーリー)

 ゲームの中の私達は、婚約者でありながらも何処かぎこちない関係だった。だからこそヒロインに付け込まれるのだ。


 ゲームの中の私達とは今は状況が違うかもしれない。

 私とクラウスの関係はぎこちないどころかうまくいっていると思う。

 けれど、今この瞬間、私達がどういう関係であろうと、物語が始まってしまえば、抗いようのない物語の奔流に流されてしまうのではないか――そういう予感があった。


 それは私の弟――実は彼も『乙女ゲーム』の攻略対象だったりする――がある日、私に向かって何気なく話した世間話を聞いたときから確信に変わった。


「姉様、今日変な令嬢に出会ったんだ――」と、弟が困惑気味に語った話の内容を理解した時、ぞっとして背筋が凍った。


 実は『ゲーム』開始前に、ヒロインは私の弟に出会うイベントがあるのだ。それはちょっとした顔見せ程度のイベントなのだけれど、本来は道端で肩をぶつけたふたりが、互いに詫て去るだけのイベントのはずなのに、そのヒロインと思しき令嬢は弟に詰め寄り根堀り葉掘り色々と聞いてきたらしい。

 時折、『ゲーム』だの『攻略対象』だのという意味不明の単語を交えながら――。


 恐らく、ヒロインも私と同じような『界渡り』をした人間なのだろう。そうでなければ、そんな単語が出てくるはずもない。

 私は激しく打つ鼓動を感じながら、黙って弟の話を聞いていた。

 その後、初対面の相手に馴れ馴れしく接してくる見ず知らずの女を不気味に思った弟は、ヒロインを冷たく突き放したのだそうだ。

 するとヒロインは、弟に向かってこういったという――。



「今はそんな釣れない態度をしたって、学園に行ったら貴方は私の虜になるのよ。

 逆ハーレムの一員に加えて、可愛がってあげるわ――」



 弟は冗談だと思って、急いでその「頭のおかしい令嬢」の元を去ったようだけれど。

 私にとっては冗談で済まなかった。

 弟の語った内容――それこそが、この世界が『乙女ゲーム』の世界だと私に確信を持たせ、更には『ゲーム』開始とともに私達を物語の道筋に沿って、抗うことも許さずに『シナリオ』に巻き込んでしまうような――『物語の強制力』を予想させるものだったからだ。


 私はこのゲームの中での悪役。

 そして第一王子であるクラウスの婚約者。

 私はきっと、『ゲーム』が始まった瞬間、嫉妬に狂った本当の『悪役令嬢』に変貌するに違いない。


 **********


『ゲームの中の私』……『悪役令嬢』である私。

 クラウスをヒロインに奪われそうになった『ゲームの中の私』は、端から見るとなんともザルな作戦でヒロインに嫌がらせをするのだ。

 物語の終盤には観衆の中ヒロインを踏みつけて高笑いをする始末。……彼の心を引き留めようと、令嬢としてのプライドをかなぐり捨ててまで、ヒロインを傷つけるのに夢中のように見えた。


『ゲームの中の私』は必死だったのだろう。愛する婚約者の心を繋ぎ止めようと。

『ゲームの中の私』は嫌だったのだろう。彼が自分以外の誰かのものになるなんて。

『ゲームの中の私』は悲しかったのだろう。彼が自分には見せない笑顔を彼女に向けるものだから。


 ゲームをしていた当時は、『ゲームの中の私』のことを邪魔なやつだと思っていただけだったけれど。

 実際、『私』が『私』になってみると、痛いほど解る。


 どれだけ『ディアナ』がクラウスを好きだったか。

 クラウスの少し意地悪なところや、ちょっと強引なところ。笑うと可愛い表情をするところや、動物を好きなところ。両親を心から尊敬しているところや、国のために勉強を毎日欠かさずに努力しているところ。

 私以外の前では、優等生な王子を気取っているのに、ふたりきりになった途端、子供みたいに甘えてくるところも――全部、全部。彼のすべてが愛おしい。


 そんな『ディアナ』だったからこそ、嫉妬に狂い、賢い立ち回りをする余裕もなくなって、自分に不利な証拠を次々と残して、最後にはヒロインを虐げた罪で断罪されてしまうのだ。


 『私』は怖かった。そんな『悪役令嬢』変貌してしまうかもしれない自分が。

 『私』は怖かった。『悪役令嬢』として彼に蔑まれるのが。

 『私』は怖かった。愛しい彼に捨てられて、地面に這いつくばって仲睦まじいヒロインと彼を見上げるのが。


 ――だから、私は婚約を破棄する。そもそも婚約者でなければ、もしかしたら『物語の強制力』から逃れられるかもしれないから。


 クラウスは視線を合わそうとしない私に小さくため息を吐くと、ぽつりぽつりと話し始めた。



「なあ、ディアナ。お前は湖に行く途中に倒れてから変わってしまったな」

「……一体、なんのことでしょう」

「何があったのか、俺には教えてくれないのか?」

「貴方には関係ないでしょう?」

「関係がない、か……俺は、お前とは互いに想い合っていると思っていた」

「勘違いですわ、クラウス」

「………………ディアナ」

「なんでしょう」



 私がクラウスから視線を外したままそう答えると、彼は突然私の唇に自分のそれを合わせてきた。



「――ん、んんッッ!」



 するりと彼の熱い舌が滑り込んで来て、そのまま深く深く口付けをされてしまった。脚から力が抜けて、この場で崩れ落ちてしまいそうだ。

 頬が熱い。余りにも口づけが激しいものだから、上手く息が出来ない――!!


 クラウスはそれから暫く、思う存分私を堪能(・・)してから、やっと開放してくれた。

 ――ずる、と思わず地面に座り込んでしまう。

 新鮮な空気を肺に送りこみながら、手で口元を隠した。

 そして、私を見下ろしている彼を上目遣いで見て――益々、私は赤面してしまった。


 私がつけていた真っ赤な口紅(ルージュ)。それがクラウスの口端にべったりと付いてしまっていたのだ。

 それをみた瞬間、実際に口づけをしていたその瞬間よりも、生々しく彼の唇の感触を思い出してしまって――私は羞恥心に堪えきれずに、思わず手で顔を覆ってしまった。


 けれども、彼は私がそうすることを許さなかった。

 私の傍にしゃがみ込み、顔を覆っていた私の手を引き剥がして、まるで自分の口端に着いた口紅を見せびらかすように、色っぽい笑みを浮かべたのだ。



「ディアナ。嘘はいけないな。……お前は感情が直ぐ表情に出る」

「……なにを……」

「お前の顔が、表情が。俺を欲しいと言っていた。だから、それに答えたまでだ」

「…………」



 余りにも私の気持ちが彼に筒抜けで、思わず泣きたくなった。


 ――そうよね、長年一緒に居たんだもの。私の気持ちくらい、すぐに分かるわよね……。


 彼に私の気持ちを隠しても無駄。

 自分の感情すら隠し通せない自分の不甲斐なさに失望していると、彼が何も言わずにこちらをじっと見つめいているのに気がついた。

 思わずクラウスを見つめ返す。

 私はその時、今日、彼に出会ってから初めて真っ直ぐにクラウスの瞳をみた。そして気がついてしまった。


 ――貴方が私の気持ちを直ぐに感じ取れるように。……私も貴方をよく知っている。感じ取れる。


 私は手を伸ばして、彼の口端に着いた口紅を指で拭った。

 クラウスは私に嘘はいけないと言った。強気な態度で、まるですべてを見透かすような表情で。

 ……けど、クラウス。

 貴方も、不安そうに瞳を揺らしているじゃない……。



「ごめんなさい……クラウス」

「……謝るくらいなら、俺に隠していることを教えてくれ」



 そっとクラウスの頬を撫でる。触れる度に胸がきゅうきゅうと苦しくなって、切なくなる。

 彼に触れるだけで、こんなにも愛おしさが募る。

 心が悲鳴を上げている。彼から離れたくないと、泣き叫んでいる。

 もっと、もっと彼に寄り添っていたいのに――。



「…………泣くな、ディアナ」

「……でも」



 私の瞳からはぽろぽろと涙が零れていた。

 視界が歪む。愛しいクラウスの顔が見えなくてもどかしい。



「正直に言ってくれ。……俺が、嫌いになったのか?」

「そ、そんなこと……!」

「ならば、次期王妃になるのに嫌気が差した? 違う? ……じゃあ、なんなんだ。

 なあ、ディアナ。俺を拒む理由を教えてくれ」



 クラウスは私の目から零れた涙を指でそっと拭った。



「俺は。……お前でないと」



 クラウスがそう言った瞬間、彼が切なげに顔を歪めているのに気がついて、思わず息を飲んだ。

 ぶるりと身体が震える。途端に激しい後悔が心の奥から溢れてきて、また涙がこみ上げてきた。



「違う、違うの。クラウス、貴方にそんな顔をさせるつもりじゃ」



 震える私の身体を、そっとクラウスは抱きしめた。

 感じた彼の温もりに、また心が悲鳴をあげる。

 ほのかに香る、嗅ぎ慣れた彼の匂いが、私の胸を更に締め付けた。



「怖かったの。怖かったのよ、貴方に捨てられるのが」

「……ディアナ?」



 するりと口から言葉が漏れる。

 ……ああ、とうとう本音を漏らしてしまった。

 そうなるともう『私』は『私』を止められなかった。



「貴方に捨てられるのが堪らなく恐ろしくて。捨てられるくらいなら、先に婚約を解消してしまえばって思ったの――」

「俺はお前を捨てたりなんかしない」

「……違うの、クラウス。そういうことではないの――」



 私は弱い。

 ううん、とても弱い。

 自分が傷つきたくないから、婚約を破棄してしまおうと思うくらい弱い。そして、愚かだ。

 私の言葉で、私の行動で、クラウスがどれほど傷つくか想像も出来なかったくらい愚かだ。


 実際彼が傷つく瞬間を見て――ようやくそれに気がつくくらい愚かなのだ。


『ゲームの中の私』を見て、『高校生だった私』は、嫉妬に狂う愚かな女だとゲームをプレイしながら思っていた。感情のままに後先考えずに動く、愚かな女だと。

 ……それは間違ってなかった。

 私は愚か。本当に愚か。……『ディアナ』という私は、感情に飲まれると後先考えられなくなる。

 それは『界渡り』をして、もうひとりの『私』とひとつになっても変わらなかった。


 私は愚か。だから、まるで『ゲームの中の私』が後先考えずにヒロインを虐げたように。

 私は先のことなんて何も考えられなくなって、彼に縋り付いた。


 クラウスを好きな気持ちが、愛おしいと思う気持ちが。私の中に渦巻く狂おしいほどの感情の激流が。

 私を狂わせる。どうしようもない女に仕立てる。


 ――もうどうにでもなれ、と私は彼にすべてを打ち明けた。


 **********



「……『界渡り』。そして、『ゲーム』か」



 クラウスは小さくそう呟いた。



「だから、今のお前は以前と違うように感じるんだな」

「……ええ。貴方の知る『ディアナ』はもういないわ」

「そうか」



 そう言うと、クラウスは私の首元に顔を埋めた。

 吐息が首筋にかかって、とてもくすぐったい。

 思わず身を竦めると、クラウスは急に笑いだした。

 肩を揺らして笑いだした彼に困惑していると、クラウスはぎゅう、と私を強く抱きしめた。



「……く、くっくっく。

 何を悩んでいるのかと思えば。そんなことか」

「そ、そんなこと!?」



 ――私がこのところずっと頭を悩ませていたことが「そんなこと」だなんて!


 その言葉を聞いた瞬間、怒りがこみ上げてきたので、両手でクラウスの身体を引き剥がした。

 そして、彼を睨みつけると――クラウスの綺麗な紅い瞳は楽しげに細められていた。



「要するに、『ゲーム』が始まらなければいいのだろう」

「……へ?」

「鍵はそのヒロインとやらだな。……俺に任せておけ」



 クラウスはさもなんでもないことのようにそう言うと、また私を自分の方へと強く引き寄せ、思い切り抱きしめた。

 彼は先程までの不安そうな様子から打って変わって、酷く機嫌が良さそうだ。

 私は彼の発した『任せておけ』という言葉が、とても不穏なものに感じておそろしくなった。

 一瞬、頭に酷く恐ろしい想像が浮かんで、私は顔から血が引いていくのを感じた。



「く、クラウス? もしかして、ヒロインに酷いことをするつもりじゃあ――!」



 クラウスは時に無茶をする時がある。私から彼を奪いかねないヒロインと云えど、ゲームをプレイしていた時は、自分の分身として親しんできた相手だ。出来れば酷いことはやめて欲しい。

 私のそんな想いを感じ取ったのか、クラウスはくく、と喉の奥で笑った。



「……心配するな。ディアナが考えているような酷いことはしない。

 つまりは、そのヒロインが学園に入学しなければ……更には俺と出会わなければいいのだろう? 

 今後一切。未来永劫……な」

「そ、そうなの?」

「ああ。……だから、心配するな。ディアナ」



 クラウスは私の首元に顔を埋めて、甘えるように顔を擦り付けながらそう言った。

 私はその言葉にほっと胸をなでおろしたけれど、甘えていたクラウスが首筋に唇で触れてきたので、一瞬にしてそんな気分は吹き飛んでしまった。



「……やっ、クラウス! 話の途中……あっ……もう、ドサクサに紛れて腰を触らないで!」

「いいだろう? これからも俺とディアナの婚約関係が続くことに決まった(・・・・)んだ。

 全くもって問題ない」

「そそそそそ、そういうことではなくって……!!! というか、いつの間にそう決まったの……!?」



 両手でなんとかクラウスから逃れようとするけれど、彼の手はがっちりと私を掴んで離さない。

 それにあちこち触ってくるので、体中が熱い。


 終いには彼は色々なところに唇を落とし始めた。

 リップ音が聞こえるたびに、ぞくぞくと全身に甘い痺れが走る。身体とは裏腹に、心はいっぱいいっぱいだ。羞恥心で焼け焦げてしまいそう。


 そうして私の心も身体も蹂躙したクラウスは、最後に止めを刺しに来た。



「いつの間に? 俺が決めた。当たり前だろう。

『ゲーム』なんて訳のわからないもののせいで、お前と別れるなんて御免こうむる。

 ――ディアナ。お前は俺のものだ」

「…………ッ」



 クラウスが燃えるような紅い瞳で、私を見つめながらそう言ったものだから。

 私の身体はまるで雷が落ちたように震えて……身体の芯から蕩けそうなほどの幸福感が湧き上がり、私は思わず脱力してしまった。


 ――ああ、もう。もう、もう、もう……ッ!!!


 心の中ではクラウスに悪態をついているのに、どうにも力が入らない。仕方がないので、くったりと彼の身体に自分の身体を預けた。


 そんな私を見て、クラウスは楽しそうに笑うと、好きなように私の身体のあちこちに触れ始めた。



「ふん、どんな事情があろうと、お前を俺が逃がすはずがないだろう。

 それに、俺はそんなことよりもやらねばならないことがある」

「……なにかしら」



 私は流石に胸は死守せねばと思って、怪しい動きをしているクラウスの手を妨害していると、彼は酷く楽しげに言った。



「――『界渡り』で変わってしまった、新しいディアナを至急知らなければならない。

 別の人間の記憶が流れ込んできたから変わってしまったのだろう?

 さあ、ディアナ。『新しいお前』を俺に教えてくれ。俺にはその権利がある」

「でも」

「駄目なのか?」

「…………『新しい私』も好きになってくれる?」

「ふん。まだそんなことを言っているのか」



 クラウスは片眉をあげて不敵に笑うと、ぐいっと私の顔に自分の顔を近づけてから言った。



「――何度も言わせるな。

 お前がどう変わろうと。お前になにがあろうと。

 ……お前は俺のものだ」



 クラウスはそういって、今度は優しく私の唇に啄むような口づけをした。

 ちゅ、と唇から微かな音がすると、私は悟った。


 ――ああ、なんてことだろう。

 私はなんて人から逃げ出そうとしたんだろう。

 本当に私はどうしようもない。こんな私を、心から愛してくれている人から、どんな事情があったとしても逃げ出そうとしていたなんて。


 もうこの人からはどうあっても逃げられないんだわ。


 この人のとんでもなく心地いい腕の中から、私は一生――……



「クラウス。私、星が好きなのよ」

「……ああ。一緒に見に行こう」

「クラウス。私、『ゲーム』でも貴方が一番好きだったわ」

「そうか。それは嬉しいな」

「クラウス。あのね、あのね――」

「どうした? ディアナ」



 私はクラウスの顔を両手でそっと挟んだ。

 そして、私の中の溢れ出て止まらないクラウスへの気持ちを全部込めて、私を逃してくれない最愛の人に、多分人生で一番だろう笑顔を向けた。



「……ずっと、これからも一緒に居て。私を捕まえていてね」



 そう言って、私は彼の柔らかな唇に、自分のそれを重ねた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 私も、私も! 「俺様王子が気弱になる瞬間」にやられました~ くぅっ。たまらん! 王子の色気と熱量にも、モダモダ~~悶え~~~ はっ、ほぼ変態(汗) でも、そのくらい素敵でした。 ヒロ…
[一言] 2人の心情がよく伝わってきて、とっても素敵な作品ですね。 ヒーロー目線な続編、ぜひ読んでみたいです。
[良い点] 短編の作品って、普通はどこか駆け足感があったりして主人公の気持ちについていけないこともあるのですが、この作品はとても丁寧に書かれているな、と感じました。 ディアーヌの今生と前世が一つになる…
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