⑧青竜国(東夜のナイトメア)
「弟か……」
一人は、もう、戸籍上は弟ではない。もう一人の弟は、本当に居るかもわからない。そう、わからないはずだった。この世界でのことは現実ではない。だから、あの弟が本物か確かめるすべはない。だが、感覚でわかる。確かに、血のつながった弟だと本能が叫んでいた。父に……そっくりだったからだ。自分は、全く似ていないと称される父。冷徹で、優しくて、悲しみを抱擁している大企業のトップに立つ男。青竜が越えなければならない高い壁。正直、弟のことなど、どうでも良かった。自分の人生に関わるとは思っていなかった。目を瞑り思い出す。彼との出会いを。
「はじめまして、青竜。俺は四凶のトウテツと言います。あなたの異母兄弟です」
青竜の前に現れたのは、真っ黒な印象の男だった。年齢はわからないが、青年と少年の間の外見をしていた。月のない夜だった。青竜城の玉座でいろいろなことを思案している時に、突如闇の中から現れた人物だった。
「異母兄弟?」
青竜は、四凶のトウテツということよりも、異母兄弟という方に意識がいった。
「たぶん、あなたは兄です。俺もあまり信じたいとは思わないけれど。この世界で起きることは、現実で起きていることではない。だから、信じなくても構いません。むしろ信じなくていい。俺は……母は、捜されるのを望んでいない、そうあなたの父に伝えてもらえませんか?」
その表情から、何の感情も読み取ることはできなかった。ただ、凪いだ瞳を向けられて、青竜は、胸が痛んだ。トウテツには、悲しみしかない。
「父は、まだ貴方の母を愛しているのに?」
青竜の口からするりとその言葉が出た。驚きだった。複雑だった。父が自分の母とは違う女性を愛しているとすんなり認めてしまっていたのだ。
「愛しているからこそでは?」
「……君は何歳だ?」
「学生ですよ」
トウテツは敢て、自分の年齢を言わなかった。だが、学生、という言葉だけで全てを悟った。
「本当かわかりませんけれど」
本当だろう。青竜は思う。それによって、父が自分の母に対して不義理をしていたわけではないと悟った。
「母が死んでから生まれたのだな。確かに、あの父は、私の母を愛していた。愛していたからこそ、亡くなった時、深く絶望した。見ていられなかった」
「俺は、あなたの父には会ったことがありませんので、何とも言えませんが、あなたの父が、あなたの母さんを亡くした時に、立ち直れなかったから、俺が生まれたのでしょう。なぐさめたり、支えたりしているうちにそういう関係になってしまった、と言っていました。ですが、俺の母は、それは間違いだった、って言っていました。だから逃げました。あなた達の父は、なぜそんなに俺の母を捜すんですか?」
「本人からは聞いたことがない。だが、知っているこはある。一人の女性を必死にさがしていると。いくつも再婚話があるのに、しないのは、その女性のためだって。だけど、どれだけ探しても見つからないと」
「見つからないのは、どうしてだと思いますか?」
「まさか……」
亡くなってしまったのか?と言えなかった。あの、父が必死に探す女性が、いないなんてことになったら、父は今度こそ、自分も死ぬと言い出すかもしれない。父は弱い。その女性がいたからこそ、今の父がいる。必死に探しているからこそ、その思いに夢中になっているからこそ、生きているとしか思えない。
「教えてあげましょうか? この世界を終わらせてくれるなら教えます。いい加減、もう、現実世界に帰りたいとは思いませんか? 青竜である貴方がその任を放棄すれば、この世界の四分の一は終わります。すでに、もう、四分の三は俺の手の中に堕ちました。意地を張る必要はあるのですか?」
今の段階では、どこの国も堕ちてはいない。堕ちるのは時間の問題だと思うが。トウテツはハッタリをかましたのだ。
「四分の三が堕ちた証拠がどこにある。私は、国を守るのがここに存在する理由だ。それに、愛着もある。ここまで、この国を大きくしたのは、この私だ」
「そうですね、証拠は見せたいです。貴方は、自分の目で見ないと信じないタイプみたいなので。ですが、貴方を他の国に連れて行くことはできません。四国主は他の国に行くことが禁じられています。もし、四国主が各国の領土から離れれば、その国が滅びます。強制することで連れ出すことはできません。それが、ルールです。そのルールを破れば、俺が滅びます」
「国を守りたいと思うことが青竜として存在する限り、その意識に刷り込まれている。それを破ることは、自我の崩壊を意味する。本能的に知っている。悪いんだが、私は、自我の崩壊は免れたい。自我が崩壊すると、リアルに戻っても、自我は崩壊したままだ」
「忌々しいルールですよね。それに、その刷り込み。いい加減にしてほしいです」
「それを超越するのが四凶なのではないのか? 君だって、その刷り込みによって、この世界を滅ぼそうとしているのではないか?」
「残念ながら、この世界に存在する限り、ルールは順守しないといけないのです。刷り込みも一緒です。抗えないことぐらい、身を持って知っているのでは?」
「ならば、どうやって世界を滅ぼす」
「滅びる時は滅びます。考えてください。あなたは、いつまでこの仮想空間に囚われ続けるつもりですか? 早くリアルに戻りたいと思いませんか?」
「今はまだ、時ではないだろう。大体、ここにいる間に現実世界の時間がどれほど流れているのかが、わらかない。君はわかるのか?」
「俺もわかりません。ですが、早く帰りたい事情があるので」
「事情? それななんだ?」
「言うと思いますか?」
「いや、私が君の立場だったら、絶対に言わない」
一瞬、空気が歪んだ気がした。トウテツも、青竜もそれを感じた。トウテツの顔が喜びに満ちる。
「今、朱雀が堕ちました。さっきの四分の三が堕ちたというのは嘘ですが、これは本当です。四凶の一人、キュウキの気配が消えました。貴方にもわかりませんか? 朱雀の気配が消えたこと。領土が消滅したことが。キュウキは、役目を全うしました。キュウキの気配も消えたということは、勝負は引き分けのようですが。引き分けなのは、勝負です。朱雀が堕ちたことには変わりありません。滅びに近づきましたね」
トウテツは満足そうに笑った。まるで、今日はいい天気ですね、と清々しく笑うように。そうなることが当たり前のように。青竜は畏怖を覚えた。他人にここまで畏怖を感じるのは、初めてだった。
「私が堕ちなければ、決してこの世界は滅びない。そして、もう一人、滅ぼさなければならない絶対的存在がいる。君に滅ぼせるのか?」
青竜は、トウテツに畏怖を悟らせることはなかった。それなりの経験はしてきている。いい大人だ。あくまで強気の姿勢を貫く。トウテツに青竜の動揺が伝わることはなかった。
「何であっても滅ぼします……。それが俺の役目ですから。では、さようなら、青竜」
上機嫌のままトウテツは闇に掻き消えた。
「異母兄弟ね……弟は一人だけだと思っていたけれど……今、わかったところで何もできないな。彼は、ちゃんと育っているのだろうか……」
トウタクは利発で、頭の回転も速い印象を受けた。父から譲られた経営者としての立場が、青竜は合っていたようだ。人を見る目も備わった。彼は、トウタクという立場の意味や辛さを理解しているようだ。そんな頭が良い彼が現実世界でちゃんとした生活ができているのかが不安だ。彼の瞳に焦りがあったからだ。何を焦っているかわからないが、原因は、現実世界にありそうだ。それが、この世界で彼の本質を酷く歪めているような気がする。
「焦りは禁物だ。事を仕損じる」
自戒してきた言葉でもあった。
「主上、話し声が聞こえた気がしましたが、誰かおりましたか?」
そこにいたのは、青竜国補佐の一人、ハカだった。
「いいや、大丈夫だよ。何も心配ない」
優しく微笑む。ハカの顔は真っ赤になった。彼女は、現実世界での青竜の婚約者に似ているのだ。
「主上、あまりハカを心配させないでください」
後ろから歩いてきたのは、補佐のもう一人、チフンだった。
「すまなかった。明日の朝議の案件をどうしようか迷っていて、考え事が言葉に出ていたようだ」
「熱心なのもいいですが、休息も必要です」
ハカが青竜の顔を心配そうに覗き込んだ。
「ありがとう、ハカ。君のおかげで、心が和むよ」
ハカが嬉しそうにはにかむ。いつも無表情な彼女が表情を崩すのは珍しい。それを見たチフンは、気に入らなそうに眉を顰めた。
「ハカ、これ以上、主上の邪魔をしてはいけない。行くぞ」
「ええ」
二人を微笑ましいと思った。青竜は急激に婚約者に会いたくなった。どうしているだろう、と彼女を思い浮かべる。一生を賭けて彼女を守ると決めた日から、青竜の心の中には、彼女しかいなかった。同時に重い役目を背負うことも決めた。それが、彼女を守ることだったからだ。それが重荷だとは思ったことがない、というのは嘘だが、彼女が一途に青竜を思い続けてくれるだけで、良かった。その笑顔も怒った顔も愛しい。だが、今、自分の側にいない。
「何をやっているんだ、私は」
つぶやきは風の中に溶けて消えた。