⑥西虎国(西砂漠のティターニア)
彼女は、砂漠に立っていた。なぜ、立っているのか一瞬、理解することができなかった。なんでここに立っているんだろう、という考えが頭の中を巡った。思考が巡っていく過程で、自分には前までなかった知識が存在することに気付いた。
私の名はトウコツ……四凶のトウコツ。
それは、彼女にとって呪詛だった。世界を滅ぼす役目を背負う存在。確かに、なくなればいいと思っていた。だが、それは、現実世界での自分のことだけだ。世界がなくなればいい、なんて思ったことはない。何のバチが当たったのだろう。彼女は、それはそれは、大人しく生きてきた。それこそ自分の存在を殺して生きてきた。自分を殺して、人に合わせて生きてきたのだ。それは、彼女にとって苦痛でしかなかった。だから、自分の世界など滅ぼされようが存続しようがどうでも良かった。だが、この世界を滅ぼすことと、自分の世界が滅んでもいいと思うことは、全く違う。世界を滅ぼすということは、多くのモノを奪うということだ。彼女はその重みに耐えられなかった。いや、耐えたくなかった。
「おい、大丈夫か?」
通りかかったのか、ラクダに乗った商人だった。
「大丈夫よ」
そう言って、トウコツは自分の喉がカラカラなことに気付いた。
「水がほしいわね……」
小さなつぶやきだった。しかし、商人は人が変わったように、自分の水を差しだした。
「これは、あなたの大切な水じゃないの?」
彼女は普通の日本人だ。砂漠で生活したことはない。だが、砂漠で水がどれだけ大事かという知識はあった。
「貴女様に飲んでいただけるなら、本望です。この命も惜しくありません」
その台詞と同時に、自分にはなかった知識がフラッシュバックのように脳に甦った。これが、私の能力だわ、と。
「食糧もほしい」
彼は、持っていた食糧を全てトウコツに差し出した。世界を滅ぼすために存在すること、この人を魅了する能力。なんて浅ましい。自分の運命を呪った。同時に彼女は、そのことを受け入れた。呪われた運命ならば、とことん、自分の能力を利用してやろうと思った。残虐に冷酷にこの世界を滅ぼそうと思った。この商人の命も事情も、考える気にもならなかった。
「ひざまづいて、命を乞いなさい。そうしたら、あなたを見逃すわ」
艶やかに笑む彼女の瞳には、暗い影が落ちていた。
彼は、その女性を砂漠に咲く一輪の花のようだと思った。
砂漠の真ん中で薄く長すぎる布を纏い、強い陽射しに照らされている漆黒の髪を風に弄ばれる姿は最初、怪訝にしか思わなかった。しかし、その瞳を見た瞬間、心を激しく揺さぶられた。目が惹きつけられて離せなくなった。大袈裟だが、運命だと思った。後に言う。一目惚れだったと。
彼は、その女性に声をかけた。あまりに自分の理想とする女性だったので、現実に存在するものだとは、思わなかったのだ。
「君は誰?」
彼の声は緊張と、砂漠での乾燥で、ガサガサとした声になってしまっていた。
「私の名はトウコツ。四凶の一人。西虎国を滅ぼしにきたの」
返答があるということは、その女性が現実の者で、理想の女性にガサガサの声を聞かせてしまったからだ。だから、恥じたが、内容がそれどころではなかった。
「それは、オレを西虎国の西虎だと知ってのことか?」
「ええ、そうよ」
彼女の声は、この砂漠には似つかわしくないほど、潤い艶やかな声だった。鈴が転がるように心地よい声。トウコツは聖母のように、悪魔のように、慈悲深く微笑んだ。西虎の心は、トウコツに捕まった。それは、偶然であったかもしれないし、必然であったかもしれない。
「この者を私の伴侶にする」
西虎は城に戻るなりそう言った。
「いきなりどうしたのですか?」
補佐の一人であるヘイカンが言った。
「言葉通りだ、ヘイカン。名はトウコツ。彼女をオレの妻にする」
「気でも違ったのですか?」
「そう見える?」
「いえ、そのようなことはございませんが、西虎という称号の者が妻を取るなど、聞いたことがございませんゆえ」
「じゃ、オレが最初だね」
にっこりと微笑む西虎に、ヘイカンは困った顔をした。
「出自もわからない者を妻に取ると、あなたの身が危険に晒されます。どうか、考え直してください」
「考え直す必要はないよ。彼女は、ある意味安全だよ」
「ある意味?」
西虎は、小声になった。
「彼女はオレに直接危害を与える力はないからね。むしろ、オレが彼女を側に置くことこそが、この国の安定に繋がると判断したんだけど」
「どういう意味か分かりかねますが」
「後でわかる……と言うだけじゃ信用してもらえないかな?」
「主君を信じない部下などおりませぬ。貴方が待てと言うのならば、待つのが部下の役目です」
「ありがとう。ヘイカンがいてくれて本当に良かった」
ヘイカンは西虎のこの笑顔に弱かった。器の大きな人に仕えることができて、本当に幸せだと思っていた。
「ヘイカン? 私の名前はトウコツ。よろしくね」
西虎には見せない笑みをトウコツはヘイカンに向けた。ヘイカンは真っ赤になり、狼狽えた。それを見て、西虎は面白くない顔をしていた。
「なんでオレには、笑顔を見せてくれないの?」
「その必要なんてないでしょう? 本人の了承もなしに、勝手に妻にしてしまうような人に見せる笑顔なんてありません」
不機嫌そうな西虎に、トウコツはそっぽを向いた。その仕草に、西虎は見惚れる。それに気づいたトウコツの眉間のシワは深くなった。
「便宜上のことだよ。君は、身分がないだろう? なら、オレの妻だってことにしておいた方がいい。もし、そうしなかったら、どこにいるつもり? 少なくてとも、この城にはいれないよ」
トウコツの眉間のシワは、ますます深くなった。
「便宜上よ。本当に妻になる気は全くないからね」
「ああ、今はそれでいいよ」
今はってどういうこと、とトウコツは思ったが、口には出さなかった。西虎の笑顔が全てを物語っている。
『私を好きになるなんて馬鹿な男』
トウコツは、そういう意味で好意を持たれることが好きではなかった。自分に好かれる資格がないと思っているからだ。しかも、今は相手を魅了するという能力がある。そのせいで、西虎は血迷っているのだ。正気に戻って、トウコツのことが好きなままだとは思えない。そんな相手に好意を向けられても、不愉快なだけだ。後であっさり、夢から覚めたように、好きな気持ちがなくなるに決まっている、とトウコツは思っているのだ。
「西虎様!」
すごい勢いで女性が入ってきた。
「妻を娶られるというのは本当ですか!」
怒りの表情をした女性だった。
「ご結婚とは、なぜですか? そんなことをする必要などないでしょう?」
「ホロウ、そんなに荒ぶってどうしたんだい?」
西虎国、補佐の一人、ホロウだった。トウコツを一瞥した。
「西虎様! 私は認めませんよ。こんな女、何をするかわからないではないですか!」
苛烈な印象の女性だった。その皮膚の色は焼けて黒い。瞳は赤なので、強烈な印象を塔息乙に与えた。彼女は、砂漠で産まれ、砂漠で育った遊牧民だ。彼女に砂漠でわからないことはない。
「もう、決めたんだ。決めたことを覆すのはいいことかな?」
「わたくしの助言には耳を貸さないと言うことですか?」
「決めた。それ以外にホロウに言うことはある?」
「いいえ、ございません。ただ、それと、この女性を認めるかどうかは、わたくしの個人的な意思で決めさせていただきます」
「そうだね、それをオレが強制することはできない」
気に入らない。ホロウの顔にはそれがありありと出ていた。
「よろしくお願いいたします。奥様」
ホロウは極上の笑顔だった。ただ、先ほどの会話を聞いた後では、その笑顔が怖い。
「よろしくね、ホロウ」
トウコツも笑顔で返した。彼女の笑顔には曇りがなかった。何を考えているか、わからない笑顔だった。ホロウは少し拍子抜けした。もっと気概がある女性ならば、怒っているだろうし、ここまでトウコツを認めない女性を前にして、曇りのない笑顔を向けられるだろうか。不思議な印象と、底冷えするような恐れを感じた。
「私に、この国の国家元首である西虎を害することができるとお思いですか? だとすればお門違いです。私はこの国の安寧を願っています。だから、西虎の妻となったのです。あなた達と願いは一緒です」
その言葉に、西虎は眉を顰めた。ヘイカンはトウコツの穏やかな笑みに、また、赤くなり狼狽し、ホロウは、何かの引っ掛かりを覚えた。だが、補佐二人には、こんな女性一人に何ができる、という思いがあったのだ。西虎だけが、難し顔をしていた。
「よろしくね、オレの奥さん」
難しい顔から笑顔に戻った。慈しむような笑顔に偽りはないように思う。だが、トウコツの心には彼の好意に対する不信が溢れる水のように吹き出していた。