20. 穏やかな時間
グラスに入れられた氷が、涼し気な音を立てた。
――平日の午前三時。
この時間になると、昼間に働く者達は繁華街から姿を消す。仕事終わりの一杯を終えたサラリーマンは明日の仕事に備え、今は夢の中だ。
「――やっぱり、視えているんですね」
真中太一の一件で世話になった彼行きつけのバー。カウンターの中央の席。そこに真琴は座っていた。
無言のまま、彼女の前に置かれたオレンジジュース。それに確信を得た真琴は、初老の店主へ問い掛けた。それに苦笑で返した店主に、真琴は一瞬、ばつが悪そうに俯くとすぐに顔を上げ、その瞳を真っすぐに見つめた。
「この前はすいませんでした。お店の中を荒らしてしまって」
「……いえ。実は少し助かっているのですよ。あの女性はこの業界でも有名でしたから」
夜な夜な違う店に現れては、客に姿を見せ、驚かせる女性。本人にしては、ただ、自分の存在に気付いて欲しいだけなのだが、店側からしたら迷惑に思っていたそうだ。
真中に押し付ける形になったが、彼女が暫く現れずに助かっているのだと、苦笑混じりに説明した。
「なので、お気になさらず大丈夫ですよ」
「うーん……そういうもの、ですか?」
「はい。それにしても、不思議な事は起きるものですね。長い事生きていますが、幽霊とお話するのは初めてです――…すみません。不適切な発言でした」
口をついて出た本音に、すぐ口を塞ぐ。若い内に亡くなった真琴に対して、配慮に欠けた言葉だったと思ったからだ。特に気にしていないと真琴が答えると、表情を和らげた。
「でも意外です。初めてだと、普通は緊張するものじゃないんですか?」
「貴方だから、でしょうね。最初にここに来た時も、貴方はずっと申し訳無さそうにしていました。そんな幽霊は初めてで……どこかで、また来てくれるのを待っていたのかもしれません」
「そんな事言っていると、通い詰めますよ?」
バーテンダーという仕事故か年の功か、恥ずかしげもなく言ってのけた彼に、真琴も冗談で返す。
生者と亡者――そんな違いを感じさせない、穏やかな時間が過ぎていた。
真琴がオレンジジュースに刺さるストローに口を付ける。水位は変わらないが、彼女は満足げだ。
真琴も最近知ったのだが、幽霊も飲食が出来るのだ。食べると言っても、物質を得る訳でなく、味だけなのだが。霊が飲食した物は、味が薄くなるだとか、変わらないだとか意見もあるが、真琴自身は食べる事ができないため試しようがない。
「ご馳走様でした。この後もう一人来るんですけど、場所を借りても大丈夫ですか?」
「どうぞ。私は気付かない振りをしていますので」
茶目っ気たっぷりに、片目を瞑ってみせた店主。ちょうど、真琴の前のグラスを片付けた頃に、入口のドアを通り抜け、金髪の女が現れた。眞弓だ。
目立つ席に座る真琴に戸惑いの色を浮かべ、店主の様子を窺うが、素知らぬ様子で気ままに閉店準備を始めた彼を見て、眞弓は安心したようだ。
「眞弓ちゃん! 久しぶり」
「桜庭さん……あの節は、どうも」
安竹家での一件が終わって数日。自宅でゆっくりしていた真琴の元に、眞弓が現れた。
辺りを気にする様に視線を巡らせると、相談があるのだと切り出した彼女。他言をはばかる話らしく、落ち着いて話せる場所でという事で、真琴がこの場所を指定したのだ。
やはりカウンター席は開放感があり過ぎたらしく、二人は隅のテーブル席へと移動した。
眞弓は暫し手元を見たまま言い淀んでいたが、覚悟を決めると真琴の瞳を見つめた。
「――おか、しいんす」
ポツリと、しかしとても重い、一石が投じられた。




