26.エピローグ
ヴァンたちは、ルーヴェから少し離れたリシュタットという町を訪れていた。
そしてヴァンは今、町の外れにある、暗い路地裏にいた。日当たりの悪さのせいで繁殖した黴の匂いと共に、腐った食べ物と汚泥のような水の香りが、鼻腔を突き刺さる。日の当らない分だけ肌寒く、非常に健康には悪そうな場所だった。
元はこのリシュタット、それほど大きな町だったわけではない。ルーヴェよりは栄えていたが、凡百の町と大差ないものだった。
しかし、国境近くに防衛拠点としてハーペンスが作られてから、状況は変わる。
ハーペンスとローザの丁度中間にあるリシュタットは、中継都市として加速度的に発展していったのだ。
しかし、その速さに町の成長が追いつかなくなっていく。町の拡大計画も、その計画自体がずさんであったため、辺縁地域は違法な増改築が横行しており、入り組んだ迷路のようになっている。またそのせいで、治安が悪い。
そしてヴァンがいるのは、最も入り組んだ辺縁部。無論、治安は最悪で、そこにいるのは犯罪者の類だけ。当然、一般人が迷いこめば、身ぐるみ剥がされ、犯されて殺されるような場所だ。
しかし、ヴァンの傍には誰も寄って来ない。そのような者たちにも、ヴァンの名は知れ渡っている――というわけではない。
彼の足元には、死体が六つ。全て彼を狙ってきた犯罪者であり、またヴァンが返り打ちした人間でもある。
「……おい、もう誰もいないぞ」
誰かに語りかけるような口調だが、そこにはもう誰もいない。監視していた人間も、ヴァンが追い払ったのだ。
それなら誰にヴァンは話しかけているのか――答えは、すぐに現れた。
暗がりから現れたのは、汚い鎧と黒髪の男。髪も口髭も適当に伸ばし、見た目には貧乏な旅人か、傭兵の類にしか見えない。いや、この場所にいるのだから、ただの犯罪者のようにさえ見受けられる。
「……ようやく思い出した。貴様は『無貌』か」
ちっ、と目の前の男――ミランが舌打ちをする。
無貌――諜報員、暗殺者として有名な男。その特殊な鉱術は空気のように気配を消し、外見を自在に変えられるという。
ヴァンも、ある事件で彼と関わり合いになった。ほとんどすれ違いに近い関係だったし、顔もみていない。だが、彼のせいで大概ややこしい事態になったことは忘れようも無い。
「お前は気配も顔も何もかもが分かり辛過ぎる。俺ですら誤魔化されるとはな」
ヴァンは不快そうに鼻をならす。
「お前、どこの誰の指示であそこを監視していた。それから、どうやってあの町に悪魔を喚び出した。答えろ」
魔鉱剣をミランへ向けて突き出す。
しかしそれに、ミランは応えない。その代わりに、腰に差した剣を抜く。自分の外見には無頓着な彼だが、その剣は綺麗に磨かれていた。
刹那。ミランの姿が消えた。
突然の出来事に一瞬だけ慄くものの、すかさず魔鉱剣を抜き、剣の腹を突き出すようにして、鉱術を発動させる。
だが、ヴァンの背後に現れたミランは、そのままヴァンめがけて剣を突き出した。
腹を貫く剣。
まるで腹から生えたような、綺麗な銀色の刀身。
しかし――ミランの表情が、すぐに歪んだ。
剣を離し、後ろに飛び退こうとしたが、衝撃が体を襲う。
バランスを崩して転倒し、背中をしたたか打ちつける。
転ぶと同時、ミランは顔を踏みつけられる。
――足の主は、ヴァンだった。
しかし一方で、腹に剣を差したヴァンもいる。同時に二人も、ヴァンが存在しているのだ。
咄嗟にミランが暗器を仕込ませた足を動かそうとするが、しかし足は微塵も動かない。その足が氷漬けにされていた。手の方も同じだった。
「諜報活動の方が得意とはいえ、さすが一流の暗殺者だな」
ヴァンの向いた視線の方へ、ミランも目を向けた。
するとそこには、腹に剣を刺したヴァンが――霧のように消え、代わりに魔鉱剣が姿を現わした。
支えのなくなったミランの剣は地に落ち、からんからん、と音を立て跳ねる。そしてその上に折り重なるようにして、ヴァンの魔鉱剣が地面に落ちた。
霧系鉱術『在影』。攻撃に反応して、自身と同じ質量の身代わりを作製。同時、本人は位相転換により、任意の場所を指定して瞬間的に移動できる。
ここまで聞くと大層な術に聞こえるが、攻撃と同時に発動しなければ意味がない。しかも、レベル4でやたら鉱力を消費する上、鉱術発動まで平均3秒もかかってしまう。
鉱術の平均発動時間は、2秒前後だ。しかしこれは、遠距離鉱術師の扱うレベル5の、大規模な鉱術を含めての時間だ。レベル4までに絞れば、平均1秒以下だ。鉱術の飛び交う戦闘における1秒は、それこそ無限のように長い。
それが、3秒だ。近接戦闘用の3秒は、はっきり言って使い物にならない。
しかし、ヴァンは霧系鉱術が最も得意だ。普段はほとんど使わないが、それ故にここぞというときに扱い、相手を出し抜き勝利をもぎ取る。ヴァンの隠し球の一つだ。
「お前を見逃しておくと、俺の命も危うい。悪いが、ここで始末する」
手に持った魔鉱短剣は、ヴァンが普段から装備しているもの。サブウェポンというものになるのだが、この術を使う上では、必須の武器だった。
ハハハッ、とミランが笑う。
「お前、本当に悪いなんて思ってんのかよ?」
「思ってないな」
「だろうよ」
そして――
ユノンは、人の往来が激しい大通りにいた。ただ立っているだけだが、他にもそういう人はいる。そのせいか、歩く人々も立ち止まっている人々も、ユノンに気を止めることなどしない。それがこのリシュタットという町の有り様なのだ。
手持ち無沙汰に地面を見つめていたユノンだったが、暗がりからヴァンが現れると、すぐに彼に近寄った。
「終わったの?」
「……まあな」
仏頂面はいつものことだが、今回は単純に機嫌が悪そうだった。それは、兄妹だからわかるわけではなく、いつも彼のことを見ているからわかることだった。
その辺り、ヴァンがユノンのことをわかっているということとは、少し違う。
「逃げられた?」
「…………」
仏頂面を隠そうともしない。ユノンだけに見せてくれる顔。それを拝めることが、たまらなく嬉しい。
「あの野郎、瞬間移動に関わる特殊鉱術を持っていやがった。今度あったらすぐ殺す」
「そもそも『無貌』だと、気付けるのかしら」
「……」
更に機嫌が悪くなったらしいヴァンの顔が、とても面白い。
くすくすと笑うと、ヴァンに睨まれた。
「別にいいじゃない。あっちだって下手にヴァンに手を出したくはないだろうし。放っておいた方がいいわよ」
「…………それもそうだな。あいつ相手にするの面倒だしな」
言い訳がましく、まるで納得してなさげな顔を見て、ユノンは顔のニヤつきが止まらない。
そんなユノンを睨みつけるヴァン。二人は並んで、ゆっくりと町を歩くのだった。
ルネが目覚めると、シャレットが傍にある椅子に座っていた。差し込む朝日に照らされたシャレットは、いつもの給仕服を着ていた。どうやらその服が気に入っているようだった。
「おはようございます、ルネ」
「おはよう、シャレット」
無表情に挨拶をするシャレットに返事をして、起き上がった。シャレットを何度も説得して、何とか「ルネ様」とは呼ばないようにしてもらった。呼び捨てにされる方が落ち着くのだ。
また、彼女は「シャレットさん」と呼ばれることを嫌がった。「あなたは主で、私は従者。その関係を崩してはいけません」と言われたからだった。
立ち上がり、ルネは着替えるために荷物を取り出した。シャレットはいつの間にか、席を外していた。
そして、がさごそと荷物を探って着替えを取り出し始めた。
現在、ルネたち四人はリシュタットに滞在していた。ヴァンがこの町に用があったからだ。元々ルネは行き先を考えていなかったし、丁度良いので同行させてもらったのだ。
「これから、どうしましょうか」
着替え終わり、独りごちる。
元々、悪魔化してしまったシャレットと共に、いつまでもルーヴェにいるつもりはなかった。
シャレットを元に戻す――その方法を探さねばならない。
けれど、どうすれば良いのかがわからないというのが、本音だ。
かといって、ヴァンが知っているはずもない。ヴァンは悪魔化した彼女の姉――カノンを殺すために旅をしているのだ。ならば、聞いても無駄だろう。
そしておそらくは、そんな方法はないのだ。
――しかし、ないとしても、ルネは諦めるわけにはいかない。
諦めてはならないのだ。
とりあえず、今後の方針を考えるために、外に出て情報収集をしようと思い、荷物を動かそうとした時だった。
ぽとり、と何かが落ちた。
「ん? これは……」
落ちたのは、ネックレスだった。まだルーヴェが無事だった頃に、シャレットの誕生日プレゼントとして、空いた時間でルネが自作したものだ。
「ルネ、もう着替え終わりましたか?」
と、シャレットが扉を開ける。そして、ルネの持っているものに気付いた。
「それは何ですか?」
「ああ、これ? ほら、前に言っていた誕生日プレゼントですよ」
そう言ってルネは、シャレットにネックレスを付けようと、彼女に近寄る。
しかし、何故か彼女は一歩後ろに引いた。
「シャレット?」
どうして避けたのだろう――疑問に、シャレットは応えた。
「誕生日プレゼントという概念は理解できます。しかし、私はルネに、誕生日プレゼントを貰う約束をした記憶がありません」
――思わず、言葉を失ってしまった。
忘れていた。彼女にはもう、昔の記憶はないのだ。ルネが友人であったことや、ルーヴェが故郷だったことも全て、彼女は伝聞でしか知らない。「誕生日プレゼントを用意する」という約束も、彼女は忘れてしまっていたのだ。
「……ルネ?」
ルネの様子を心配したのか、首を傾げるシャレット。だからルネは、弱々しいながらも笑顔を貼り付けた。
「大丈夫ですよ、心配しないでください」
そしてルネは、シャレットに近づき、ネックレスを付けようとした。
「ルネ、だからそれは――」
「いいんです。受け取って下さい」
「でも、私に誕生日は――」
「無いって言うのでしょう?」
わかりきっていることだった。だから、敢えて尋ねる。
「なら……君が覚えている最初の日っていつですか?」
「……ルーヴェであなたたちと戦い、そして逃亡した日です」
それは、シャレットという人間との別れの日。
「うん……ならその日が、君の誕生日。新しい、再誕の日です」
付け終え、ルネは彼女の全身が見える位置まで下がった。
「うん、良く似合っている」
元々、仕事中でも付けられるようにと思って作ったので、給仕服には当然の如く似合っていた。
「そうでしょうか?」
シャレットは、自分の首元を見た後、首を傾げた。自分では良く分からないようだ。
「ええ、とても似合っていますよ」
笑顔はちゃんと作れただろうか、それだけが不安だった。
リシュタットに滞在して、数日が過ぎた。
人が立ち寄り、そして去っていくこの町は、居続けることのできない場所だ。肉体は置いておけても、心がそれをさせようとはしない。辿り着き、立ち寄り、そして去る。それがこの町の基本原理だ。
そしてその例に漏れず、ヴァンたちにも旅立ちの時がやってきた。
馬車の動く音や商人たちのがなり声、旅人同志の諍いも起きる大通り。ヴァンとユノンは、人ごみに紛れぬよう隅の方で、旅装束に身を固めて門の前に立っていた。
「お別れですね」
ルネが残念そうに言う。ルネとシャレットも、ヴァンたちと一緒にいるが、こちらは旅装束を身に纏ってはいない。ヴァンたちとは行き先が違うのだ。
「ハーペンスですか……今は国境紛争が激しいと聞きましたが」
今、ローザ王国は、バタトキア帝国との間で、国境紛争が起こっている。
バタトキア帝国は旧大陸中央部に広く領土を持つ世界最大の国である。現在、旧大陸西部のエウロパ地方においてバタトキアの侵攻が進んでおり、ローザ王国、エイループス聖国、グランバルタ連合国による三国同盟で対抗している状況だ。
そしてハーペンスは、ローザにおける最前線だ。
「あの場所に行けば、国内外の様々な情報が入る。虚実入り混じっているだろうが、悪魔を探すのに確実な情報など、そうそうありはしないからな」
「やっぱり、カノンさんを殺しに行くのですね」
「ああ。俺はそのために旅をしているからな。今さら生き方を変えられはしない」
「もし僕が、人間に戻す方法を見つけても?」
一瞬、ヴァンの動きが固まった。
「……そんな可能性が、あると思っているのか?」
「思っていますよ」
そこには、何の裏付けもない。
しかしルネの瞳に、迷いはない。狂っているのではない。可能性などゼロに等しいと知りながら、それでも諦めないだけだ。
いっそ狂えば楽だろうに。彼はそれを選ばない。辛く険しく、終着がどこにあるかもわからない道のり。それをただ一人、重たい鎧と剣を身に着け、進み続ける。
いや――
ちらり、とシャレットへと視線を移す。ヴァンの視線に気付いたシャレットは、首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「いや……」
その仕草だけなら年相応に見えて、思わず苦笑する。
「ルネをよろしく頼む」
「言われるまでもありません。彼は私が守ります」
そこにルネが割って入った。
「ちょ、ちょっと待って下さい! シャレットは僕が守るんですから!」
「当たり前でしょーが!」
「あでっ!?」
今までぶすっと黙りこくっていたユノンが、杖でルネの頭を叩く。
叩かれた場所を痛そうに抱え座り込むルネ。それを尻目に、ユノンはシャレットの手を取る。
「シャレット、利き手はどっち?」
「右ですが」
「そう」
そしてユノンは、シャレットの右手の中指に、指輪をはめた。細い指輪で、赤色の宝石がついている。しかし、見たところ紅玉ではないようだ。
「火系の鉱力の結晶体。ま、赤色魔鉱の純粋バージョンとでも思って。上手く使えば、きっと役立つから。自分の身は自分で守んなきゃ、ね?」
「わかりました」
シャレットが強く頷いた。
「そこは、出来れば頼って欲しかった……」
ルネの意見は完全無視された。
苦笑していたヴァンだったが、顔を引き締める。
「さて……そろそろ行くぞ、ユノン」
「ん。わかった」
ユノンは彼の隣に並ぶ。
「縁があれば、また会おう」「さよなら。またね」
「ご武運を」「御息災を」
互いに別れのあいさつをして、ヴァンたちは門外へと歩き出した。
ルネとシャレットは、その後ろ姿が消えるまで、彼らを見送った。
「結局、何だったんだろうね」
ユノンが突然話しだしたのは、今回の一件のことだった。今は辺りに誰もいないが、この街道はローザでも随一の通行量を誇る故に、人と出逢うことが多い。
「今回のことって、一つ町が潰れたってこと以外、何もならなかったのよね」
「……そうだな。ルネやシャレットの人生も狂わされたが、それがなくとも、ルーヴェは消え去っていたのだろうし」
そう考えるなら、彼らは運の良いほうなのかもしれない。これから彼らを待ち受ける運命が、どれほど困難なものだとしても。
死ねばそこで終わる。己が信念を果たすことも出来なくなる。そういう意味で、ヴァンは死を何よりも忌避する。たとえそれが、何に起因するとしても。
しかし、
「それでもルネは、前へと進んだ。俺の選べなかった道を、な」
「……ねえ、ヴァン」
ユノンがおずおずと彼に声をかける。遠慮のない彼女にしては、それはとてもしおらしい態度だった。
「どうした?」
「その、あのね……ルネみたいに、姉さんを救うってことは」
「ない」
言い切った。
その有無を言わせぬ容赦のなさに、ユノンは閉口する。
「俺はもう、他の道を選んだりは出来ない。そのために戦い続けたし、そのための力も得た。カノンは俺が殺して救う」
「……そっか」
ユノンの声は、とても寂しそうに感じた。
だからというわけでは決してない。けれど、自然とその言葉は出た。
「もし、カノンを殺したら……二人で、アンミラに戻ろう。カノンの墓を作って、弔ってやりたい」
カノンを倒した後のことなど、今まで一度も考えなかった。けれど、今は少しだけ、その後のことも考えるようになっていた。
ユノンは虚を突かれたように目を見張った。
「ヴァン、あなた……」
次の瞬間、ユノンはヴァンに思い切りぎゅっと抱きついた。
「……ユノン、いきなりどうした?」
顔を綻ばせながら、ユノンはヴァンの体に頬をすり寄らせてきた。
「たまには、いいじゃない。それとも、嫌なの?」
途端、ユノンが不安そうな表情を見せた。
「いや、別に構わないが……何だか、やたらと機嫌がよくないか?」
「そう?」
「そうだ。何か、良いことでもあったのか?」
「うん。すごく……すごくいいことがあった」
嬉しそうに眉尻を下げて抱きついてくるユノンの重さを感じながら、ヴァンは微苦笑した。
これにて終了。
お読みいただきありがとうございました。




