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23.騎士に従う者

 ルネが回復するのを待って、三人は穢れの大地へと歩き始めた。戦いで消耗していたルネを、これ以上無理をさせるわけにはいかないという、ヴァンの思いやりだろう。

 正直、ありがたかった。あの戦いは、全力を尽くして挑んだのだ。

 彼らは、ルネのことを想って、戦ってくれた。とても優しく、そしてとても不器用なやり方だった。


 左胸の奥に痛みを感じ、右手で鎧の上から、胸の辺りに触れる。

 シャレットを失うという、悲哀と絶望。シャレットと戦うという、悲壮と緊張。

 それが入り混じったこの感情は、言葉にし得ない苦しみでしかない。

 ルネは、前を歩くヴァンの大きな背中を見つめた。


 ――大きいな。


 確かに、今回は二対一だった。けれど、たとえ一対一でも、ヴァンと戦えば負けるだろう。自分がどれだけ強くなろうと、ヴァンはその一歩先を進む印象がある。そんな彼は、その強さの根底に何を持っているのだろうか。

 ずっと、それを考えていた。

 今なら、それがわかる気がする。

 そして自分は、ヴァンと同じものを持ってはいけないということも、わかった。

 やがて外界が荒野へと姿を変えて行く。そしてしばらく先へ進むと、穢れの気配が強く濃くなっていく。

 肌に痛みを感じだす前に、三人は祓穢外套を羽織る。

 それほど間をあけずして、荒野は終わる。

 そして目の前に現れたのは、灰色で覆われた、鉄錆の匂いが漂う世界。人の存在を拒む、穢れの大地だった。


「ルネ、感じるか?」

「……ええ」


 シャレットの放つ鉱力を、ルネは余すことなく感じていた。それは、悪魔の正体がシャレットだからであり、他の悪魔相手では不可能な芸当だった。

 シャレットの気配は、以前にルネがヴァンたちと調査へ赴いた場所がある方向にあった。

 彼らはゆっくりと、しかし確実にその場所へと歩いていく。時折、悪魔が近づいてくることもあったが、ヴァンやユノンの攻撃に恐れをなしてか、それも次第に減って行った。

 そして、太陽が灰の空の向こう側で、頂点に上り詰めた頃。

 ルネの目に、灰色の砂によって、ややくすんだ白い幌が見えた。

 そしてその傍らに立つ、少女の後ろ姿も。


「シャレットさん……」


 三人の存在に気付いたシャレットは、ゆっくりとこちらを振り返る。

 ヴァンとユノンが立ち止まり、ルネが前に出る。

 彼女は一切の表情を削り落したその顔で、何の光も灯していないようなその目で、ルネと相対した。


「シャレットさん。あなたに会いに来ました」

「何故ですか?」

「あなたを連れて帰るためです」


 シャレットからの返答はない。

 もうその理由もわかっている。彼女にとって、変える場所などないのだ。それを哀しいと思う心も、壊されてしまっているはず。

 それでもルネは言う。


「僕は、あなたを従者にします。そしてルーヴェの町に帰ります。あなたがどれだけ嫌がったとしても、僕は絶対に譲りません」

「…………」


 ルネの決意を前に、シャレットは無言だった。

 ルネが剣を抜く。青白い刀身が灰色の空に映える。それを見てか、シャレットも半身引いて構えた。

 相対す二人。

 どちらが合図をするわけでもなく。

 同時に動いた。




 以前、知り合いの騎士に聞いた話だ。

 悪魔を屈服し、従者にさせる方法は、たった一つ。

 相手を殺さず、圧倒する。

 これがどれほどまでに難しいことか、大抵の人間は理解出来ない。そんな時、ヴァンはこう言うようにしている。


 ――鉱術を使わず、剣技だけで、悪魔を殺さず完全に封じ続ける。


 すると大抵の人間は首を傾げる。そして鉱術師の大半は、鼻で笑う。

 前者はその難しさが分からず、後者はそんなに難しいことが出来る人間などいるはずもない、と思う。要は、ヴァンの言ったことを出鱈目だと思うのだ。

 そしてごく一部の鉱術師だけが、その難易度と、騎士が少ない理由を知り、愕然する。

 騎士としての容量を持ち得ていることや、魔剣を手に入れることなどは、運や金銭の問題だ。

 しかし、この悪魔の屈服だけは、真に実力あるものにしか出来ない。

 悪魔を圧倒的に上回る戦闘力。

 一瞬の気の緩みもなく、いつまで続くかもわからない攻撃をし続ける集中力と精神力。

 それを持たぬ人間に、悪魔の屈服は不可能だ。


 ――その意味でいえば、今の状況はそう悪くはない。


 ルネはシャレットを間合いに入れず、自分の間合いギリギリで、彼女の手足を切り裂き続けていた。シャレットが『不死』の特性により、傷を癒しても、すぐさま斬り捨てる。そしてその場に釘付けにしていた。

 ルネは魔剣一本しか持っていない。しかしその魔剣は、シャレットを切り裂くには十分な威力を持っており、シャレットへの攻撃は全く問題なかった。

 また、シャレットが武芸の達人でないことも幸いした。一応、護身術は学んでいたようだが、その程度ならばルネの地力が勝つ。

 ……それでも本来なら、ルネ程度ではシャレットを屈服出来はしない。『不死』の特性を除いたとしても、シャレットは金属悪魔として、相当の力を持っていた。

 ならば何が、二人の実力差を埋めているのか。

 悪魔の屈服は、体力を温存するのが定石であり、ある程度は手を抜くことも必要だ。一日二日で済めば運が良い方で、十日以上かかることもある。そしてその間は、不眠不休で戦い続けなければならない。体内で鉱力を生成出来る騎士でなければ、到底不可能な芸当だ。

 しかしルネは、始終本気で戦っている。そうすることで、二人の実力差は無くなる。しかし、体力の消耗は激しい。

 無論、ルネもそのことは知っている。しかしそれを知った上で、ルネは挑んでいるのだ。


 もう、止めはしない。

 ルネが負ければ、そのままシャレットに殺されてしまうだろう。そして、それを止める手立てはない。

 もしそうなれば、ヴァンたちはシャレットを殺すつもりでいた。たとえルネの意思とは違ったとしても、そうするのが最善だと思うからだ。

 だからヴァンたちは、その戦いを見守り続けた。




 一昼夜、彼らは戦った。

 ルネの体力は、とうに限界を超えていた。




 終わらない戦いは、翌日に持ち越した。

 ルネはもう、気迫だけで戦っていた。




 常人ならば気が狂ってもおかしくない攻防は、三日目へと突入した。

 もはや意識があったかどうかさえもわからない。




 そして、四日目の朝がやってきた。




 四日目の朝、日が昇り始めた頃、ユノンがふらつき倒れそうになった。咄嗟にヴァンが支えるが、彼女の顔色はあまり良くない。


「ユノン、大丈夫か? 少し、休むか?」

「ごめん、平気。徹夜は慣れてるから」


 そう言うと、彼女は杖を使って体を支え、そして元の姿勢に戻った。強がりであることはわかっていたが、止めたいとは思えなかった。

 最後まで見守ると決めた彼らは、ずっと二人の攻防を見守り続けていた。

 鉱術師にとって、己の体を律することは、そう難しいことではない。数日寝なくても、当たり前にに生きていられる。ただし、その消耗は決して小さなものではない。特にユノンは、鉱術の負荷に対する耐性が低いのだ。

 しかし今は、彼らの戦いを見届けねばならないのだ……どんな結果になろうとも。


 日が空に昇り、灰色に遮られた穢れの大地が、薄いながら照らされ始めた。

 響き渡る肉を断つ剣戟以外、何も響かないその世界で、初めて違う音が鳴った。

 ルネの体が傾き、それを支えるために一歩足を前に踏み出したのだ。

 たったひとつの所作だったが、シャレットにとってこれほどの隙はない。精根使い果たし、気力だけのルネには、彼女の一撃を受けるだけの力も残ってはいないはず。

 ヴァンはルネを助けようと鉱術を発動させようとするが――間に合わない。

 シャレットの拳が、真っ直ぐルネの顔目掛けて、突き出された。


 ――音はなかった。


「……何故、止めたんですか?」


 シャレットの拳は、ルネの鼻先手前で止まっていた。わずか数ミリで、ルネの顔は吹き飛ぶ距離だった。


「もう嫌です」


 ルネの問いに、シャレットは一切表情を変えること無く答えた。

 しかしルネには違ったようだ。シャレットの言葉を聞き、彼女の顔を見て、泣きそうになりながら驚いていた。

 ヴァンには無表情に見える表情のまま、彼女は言った。


「もう嫌です。あなたと戦うのは」

「……どうして?」


 問うルネにたいして、彼女はやはり顔色一つ変えはしない。


「あなたが、私の友人だったからです」


 シャレットの思いがけない一言に、ヴァンは耳を疑った。

 シャレットは、全てを壊され、悪魔にさせられたはずなのだ。

 それなのに、人を襲うという悪魔の本能を無視し、友達と戦いたくないという。まるで人間のような――人間だった頃のシャレットのような感情を持つなんて。そのようなこと、考えもしていなかった。

 悪魔化した人間は、悪魔としての本能を優先させるために、心を破壊する。そうしなければ悪魔化した際に不具合が生じ、失敗の原因になるからだ。シャレットだってそれをされているはず。

 ――いや、そうだ。町でシャレットと戦った時、自分やルネのことを、友人かと尋ねたはずだ。そしてその後、友人だと知って逃げた。

 彼女はもしかして、心を残したまま、悪魔になっていたのか? カノンのように、心を壊されたわけじゃないのか?

 そんなことが可能なのかわからないが、今の彼女を見ていると、そんな気がしてしまう。

 シャレットは、ルネに言う。


「私にあなた方の記憶はありません。しかし、友人という概念は知っています。親しい人のことを、そう呼ぶはずです。私は、私と親しくしてくれた方を殺したくはありません。戦いたくもありません」


 ルネが哀しそうに眉尻を下げ、剣先を下す。


「……僕だって、戦いたくはないよ」


 それを聞いたシャレットが、初めて表情を変えた。

 唇を少しだけ噛み締める動作。何かを我慢するようだった。


「けれど、私の悪魔としての本能が、あなた方を殺したがっています。けれど、私は殺したくありません。だから逃げました。けれど、あなた方は追ってきました。だから――」


 彼女は目を瞑り、言った。


「私を追うのをやめてください。それが出来ないというのなら、ここで私を殺して下さい」


 お願いします――と、彼女は地に両膝を付け、跪く。

 あまりにも無防備なその姿を晒した彼女に、ルネは――


「……ふざけないでください。誰が、誰を殺すというのですか?」


 声を震わせ、怒っていた。


「ふざけてなどいません。あなたが、私を殺すのです」

「そんなこと、出来るはずがないじゃないですか!!」


 ルネの悲痛の叫びに、シャレットが目を開き、首を傾げる。


「何故ですか? 私があなたの友人だったからですか?」


 シャレットの問いに、ルネは弱々しく首を横に振った。

 そして、微笑んだ。

 痛々しく、虚しい笑顔だった。


「僕にあなたは殺せません――あなたのことを愛していますから」

「……愛している、ですか」


 俯き反芻するシャレットが顔を上げ、ルネを見上げた。

 ルネはそんな彼女に近寄り、片膝をついて肩を抱いた。


「僕は、あなたを救います。必ず人間に戻してみせます。だからそれまでずっと――僕の傍にいて下さい」

「……………………」


 無言で抱かれるシャレットは何か言いたそうに小さく口を開くが、何も音は漏れ出ない。眼は虚空を見つめており、ヴァンにはそれが何故かとても辛そうに見えた。

 ルネはシャレットを抱きしめたまま彼女と向き合い、そして穏やかに微笑んだ。


「帰りましょう、シャレットさん。ルーヴェへ――あなたの故郷へ」


 そしてシャレットの背中に手を回し、もう一度、強く抱きしめた。

 シャレットが、そんなルネの背に手を回した。

 強く抱きしめるルネの瞳から、一筋の涙が流れる。それは拭い去られることなく、流れるままに頬を伝い、顎から雫となって地に落ちて行く。

 落ちた涙は灰色の大地を濡らした。

 その一滴分の大地だけ、肥沃な黒土のように色濃くなっていた。


 ――抱き合う彼らを見て、ヴァンはようやくわかった。


 ヴァンは絶望に敗北し。

 ルネは希望に縋りついた。


 単純にそれだけではないだろう。それでも決定的な違いだ。ヴァンがカノンに立ち向かえなかったのは、ルネがシャレットに立ち向かったのは、その違いだったのだろう。力の有無じゃない。心の在りようだったのだ。

 ユノンは……きっと、気付いていたのだろう。だから、ルネと自身を混同していることを、嫌がっていたのだ。


「悔しいな」


 隣にいたユノンが、息を呑むのが分かった。それもそうだろう。初めて感じた――いや、もう忘れかけていた感情が、ヴァンの中に芽生えたのだから。


「大丈夫? ヴァン」


 ユノンが顔を覗き込んできた。長い睫毛が揺れて、その奥の瞳が心配そうに揺れている。口を少しだけしぼませるのは、彼女の癖なのだと最近気付いた。

 ヴァンは苦笑する。


「そんなに心配するな、ユノン。俺は問題ない。少し、あてられただけだ」


 そうしてヴァンは、二人の方へと視線を戻す。抱き合っている二人の姿は、今までの距離よりもずっと近く、そして遠く離れてしまっていた。


「……そう、少しだけだ」


 それをヴァンは、どこか哀しい気持ちで見ていた。

 あるいは、羨んでいたのかもしれない。

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