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14.シャレットの夜

 シャレットの夜は、一般的な町人に比べて遅い。

 町で唯一の食堂兼飲み屋は、夜遅くまで営業していて、シャレットはそこで働いているからだ。

 今日も彼女は、ランプの光に照らされた店内でせわしなく働いていた。薄暗い店内を右往左往し、食事や飲み物を、そして大抵はお酒を運んでいた。

 もっと都会、たとえばダルグベルンやハーペンスなら、夜でももっと明るいという。鉱術で光を灯すらしい。シャレットは見たこと無いが、もしそれがあれば、この店内ももう少し明るいものに出来るだろうな、なんて考えてしまう。

 無意味なことだけれど。


 時折お尻に手を伸ばす客をあしらいつつ、シャレットは厨房に戻る。店長は料理を作り、店長の妻であるミーシャは酒を注いでいる。町一番の美人と評判の彼女目当てで来る客も、少なくはない。

 ミーシャが顔をあげる。


「あ、シャレットちゃん。そろそろ上がっていいわよ?」

「えっ、いつもより早いですよ? 今日はいつもより、お客さん多いのに」

「だからよ」


 ミーシャが苦笑する。


「あいつら、酔っ払ってくると私たちに絡みだすからね。私には旦那がいるから大丈夫だけど」

「私だって、いつもあしらっていますよ?」

「馬鹿ね。あいつら普段は遠慮しているのよ? シャレットちゃんに手を出したら、バーボルさんに診てもらえなくなるからね。でも、今はルネ君いないでしょ?」

「それはそうですけど――」


 言いかけて、思わず手で口を閉じる。けれど遅すぎた。ミーシャがすごく嬉しそうで楽しそうな笑顔を見せていた。

 この人は、自分とルネとの関係にとても興味を持っていた。


「でしょ? 迎えに来てくれる王子様はいないのよ?」


 王子様って……なんて思ったけれど、口には出さない。


「ルネ君、嫌がるだろうなぁ。シャレットちゃんが酔っ払いたちにあんなことやこんなことをされたりしたら――」

「へ、変な言い方やめて下さい!」


 顔を真っ赤に染まって怒るが、ミーシャはむしろそれを楽しんでいた。


「はいはい。でも、もう帰った方がいいのは本当。バーボルさん心配するし。ほら、お姉さんの言うことはちゃんと聞くものよ?」


 と、ウインクを投げられる。同性なのに、ドキドキしてしまうくらいに魅力的だった。別の意味でまた顔が熱くなる。


「……わ、わかりました」


 ぷい、と顔を背けて口を尖らせる。しかしその仕草も、ミーシャを楽しませるだけだった。


「おーい、酒まだかー!」

「はいはい、ちょっと待って! それじゃ、シャレットちゃん」


 ばいばい、とミーシャは注いだ酒を客たちに運び出した。シャレットはミーシャに礼をし、店長に「お疲れさまでした」と声をかけ(返事がないのはいつものことだ)、奥に引っ込んだ。

 支度部屋を通り過ぎる。簡素なイスと机と、酒類が積まれているこの部屋。いつもならここで着替えているのだが、今日は面倒くさがって、家から直接ウェイトレスの格好で来たのだった。割と良くあることで、町の人も「またか」と苦笑するようなことであった。


 ウェイトレス姿のまま、外に出る。

 街灯もない町は暗闇に包まれていた。空に輝く無数の星と、少し欠けた月の光だけだった。

 その薄明かりを頼りに、シャレットは帰路につく。

 自分の足音と、虫の音だけが聞こえる。暖かい空気が冷えて、土と草の匂いがした。

 もう夏も終わるんだな、などと思い、ルネが来た春過ぎのことを思い出した。


 前任者のランドはとにかく気が短くて、我が強くて、シャレットとも喧嘩ばかりだった。ミランに至っては決闘まで行おうとしていた。シャレットを始め多くの人が止めて、事なきを得たが。

 そんな、己の信条に真っ直ぐな人だったから、皆が止めたのにマラキアの丘へと行ってしまった。そして戻ってはこなかった。

 その時は、酷く落ち込んだ。何だかんだいっても、彼は友達だったのだから。


 その代わりに、ルネがやってきた。ランドとは打って変わって穏やかな性格で、年下だけれど、とても紳士で。それなのにどこか可愛げがある男の子で。

 言葉にする意味なんてないと思うけど、強いて言うなれば、そういうのが理由になっていたんだと思う。


「……王子様、かあ」


 騎士よりも、まだそっちの方が似合う。ただし、ちょっと抜けた王子様だけど。

 くすっ、と小さく笑った。

 しかしその直後、胸に空虚なものを感じる。いつもなら隣にいるはずの彼が、今日はいない。ただそれだけなのに、とても辛い。


 ルネは、穢れの大地へ旅立った。マラキアの丘に行ったなどと言ってはいたが、嘘だということくらいお見通しだ。そしてそんな嘘をつくのだから、行き先は穢れの大地くらいしかない。

 確かに、ヴァンやユノンといった、穢れの大地に慣れている人がいる。その上、彼も騎士としての才能に目覚め、強くなったらしい。

 それでも、心配の種は尽きない。

 彼の仕事が、そういうものだというのは理解している。それでもシャレットは、不安だった。

 彼のことが大切だから。彼には無事でいて欲しいから。


「……余計なお世話なのにね」


 口にしても、あまりすっきりはしなかった。

 彼には彼の目標がある。それを邪魔する権利を、シャレットは持ち合わせていない。

 それでも――それでもルネには危険なことをやって欲しくはない。それが自分勝手な我がままで、決してルネには強要出来ないが。

 そして、恋愛以外だと聡い彼は、自分のちょっとした態度をすぐに読みとってしまう。

 それでも彼は、シャレットのことを考えていながらも、自分の思う道を進む。

 わかっている。それが間違ってはいないことくらい。でも、正しいわけじゃないのだ。

 だから、辛いのだ。


「そんなこと言ってなんか、いられないね」


 立ち止まって、空を見上げる。

 星空に、ルネの笑顔を見た気がした。

 だからシャレットも、彼に微笑んだ。

 そう、ルネは明日帰ってくる。それは間違いない。

 笑顔で迎えよう。それが自分に出来ることで、きっと彼も望んでいること。そして笑顔は、自分の卑小な感情を塗りつぶしてくれる、何よりの特効薬になる。


「よしっ」


 軽く胸の前で拳を握って、また歩き始めた。

 しばらく経たないうちに、家へと着いた。未だ光が灯っているのは、バーボルが遅くまで勉強をしているからだ。医者は一生学ばねばならないというのは、バーボルの口癖だ。

 彼の邪魔をしないよう、裏手からそっと入る。履物は……翌日戻せばいいかとそのまま置いておく。そして、足音をたてないように、ゆっくりと歩く。いつもやっていることだし、バーボルも気づかない。いつものことだ。

 ただ、いつもと違うことがあった。


「…………もう……が……?」


 バーボルの部屋の前を通った時、聞き慣れない声がした。

 バーボルの声ではない。彼の声は、年相応にしゃがれている。しかし今聞こえたのはもっと若い声に感じた。

 来客? こんな遅くに?


 ゆっくりと、扉に耳を当てる。微妙に聞き取りにくさはあったが、きちんとシャレットの耳に入ってきた。


「いえ町長、さすがにあの二人がいる状況で行うのは無理があります」

「しかし早く成果を出さねば、研究が打ち切りになってしまう。そうなればルーヴェはまた貧困に喘ぐことになってしまうのだ」


 何の話をしているのだろう。研究? バーボルは何か特別なことをしていたのか。それも、ルーヴェ全体を左右するような大きなことを。

 町長の焦りを帯びた声と、バーボルの苦悩が混じった声は、やけにシャレットの胸中を揺らがせた。


「……良い素体が見つかれば、また話は別なのですが」

「いるではないか。アレを使えば――」

「いえ、あの子はまだ研究の余地があります。今ここで消費するには、あまりにも惜しい。第一、ランドで一定の成果は出たでしょう?」


 思ってもみない名前が出てきた。

 ランド? 一定の成果? どういう意味だ。彼はすぐにマラキアの丘に行ってしまったはず。町長やバーボルと、何かをしていたことはなかったと思う。

 苦虫を噛み潰したような、町長の声が聞こえてくる。


「たとえ成功例でも、倒されてしまっては意味がない。マラキアの丘に置いておけば問題はないと思ったのに……まさか、銀髪の悪魔がやってこようとは」


 銀髪の悪魔……ああ、ヴァンのことか。

 確かに彼がいたから、マラキアの丘の悪魔は倒された。しかしそれとランドが何の関係があるのだろう?

 その疑問の答えは、すぐにわかってしまった。


「ランドの悪魔化は最高の結果だった。だが、倒されてしまえば、もはや何の価値もない」


 ――自分の耳が信じられなかった。


 人間の悪魔化という事例があることは、知っている。

 しかし、それが出来るのは一部の上位悪魔だけであり、それも滅多に起こらないことであるはず。シャレット自身、お話や伝説の中でしか聞いたことのないようなものだ。

 それを、人の手で行っている? しかも、こんな……こんな身近で。

 恐怖で足が震える。眼がちかちかして、めまいがする。お腹の底が、重く冷えていく気がした。歯がカタカタと鳴ってしまいそうになるのを、思い切り噛み締めて踏み留まらせる。

 動悸が激しい。鳴り止めと祈っても、止まらない。この音が、中の二人に聞こえてしまいそうで怖い。

 信頼していたバーボルが、親のような存在だったバーボルが、こんな……こんな恐ろしいことに加担している。とてもじゃないが、信じられなかった。


 ……いや、そうだ。きっと彼は脅されているのだ。町長に弱みを握らされて、無理矢理手伝わされているのだ。

 そうやって、無理矢理自分を納得させた。そうでなければ、心が壊れそうだった。あんな優しい人が、自ら進んでこんな恐ろしいことをしているなんて、考えたくなかった。


 ――逃げなきゃ。ここにいたら危ない。


 早く逃げて、明日戻ってくるルネたちに伝えるのだ。ルネなら、こんな荒唐無稽な話だって信じてくれる。ヴァンやユノンも、もしかすると信じてくれるかもしれない。

 彼らなら、何とかしてくれるはずだ。

 扉から耳を離す。すると声はもうほとんど聞き取れなくなる。

 それに少しだけ安心し、もう一歩下がって、裏口へと戻ろうとした時、


「いけねーな、盗み聞きは」


 聞き覚えのある粗野な声を耳にしたと同時、シャレットは首に軽い衝撃を感じた。

 そして、シャレットの意識が闇に落ちた。

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