チョコレート味の回想《前編》
突然ではあるが私、竜崎綾はチョコレートが好きだ。
というか、基本的に甘いもの全般は大好物なのだが、その中でもチョコレートは別格である。
まず私が世界一大好きなコーヒーにとても合う。
オススメな食べ方としては、一人とろけるチョコだ。温かいブラックコーヒーの味と香りを楽しんだ後、ほどよく温まった口の中にチョコレートを一欠片放り込んでみて欲しい。トロリと舌の上で溶けたチョコの風味がコーヒーと絶妙に混ざり合い、至福の一時が訪れることだろう。
定番なのはミルクかホワイト。甘いのが苦手な人はビーターでもいい。
意外にもケンカすることなく調和して、マジかと思ったのは抹茶味だが、これ以上は話が逸れそうなので置いておこう。
とにかく、コーヒーとチョコレートの組み合わせは最強なのだ。
テストには出ないけど、私の辞書にはそう記されている。
もっとも私がチョコレートが好きな理由はこれだけではない。一番の理由は別にある。それは……。
「……出来た」
お部屋のキッチンにある冷蔵庫の前にて、私は完成した手作りチョコを眺めて、思わずぐっと拳を握る。
本日は二月十四日。恋した女の子には戦争と同義なバレンタインが今年もやってきていた。
ああ、笑うがいい。恥ずかしがり屋な私が、要塞並みに難攻不落だった彼にアタックをしかける正統な理由が出来るから……私は昔からチョコレートが好きなのだ。もはや戦友と言ってもいいだろう。
といっても、一緒に戦えるように……もとい手作りが出来るようになったのは去年のことなので、それまでは市販のもので勝負していたのだけれども。
さながら傭兵と雇い主。因みに歴代の傭兵らは彼を喜ばすことは出来てもちっとも討ち取ることが出来ず、ことごとく戦死していったのは……昔の話だ。
また、最終的には雇い主が突撃をしかけて、ようやっと仕留めた結果が、今の私達であったりもする。
閑話休題。
そんな私が彼に今年送るのは、シンプルなトリュフチョコ。一年目は彼好みなチョコレートブラウニーだったけど、今回は他にも頑張りたいものがある故の選択だった。
勿論、想いは去年に負けないくらい込めているのは言うまでもない。
出来たチョコを箱詰めし、丁寧にラッピング。これで第一段階は準備完了。次は……。
「さぁ、覚悟するといいわ」
誰もいないそこへ向けて、半ば自分を鼓舞するように私は宣言する。
いつもは彼が立つキッチンにて。まな板の上に置かれているのはニンジン。じゃがいも。玉葱。お肉。牛乳にシチューの元。
お分かりいただけるだろうか。〝私が〟料理をしようとしていることを……!
バレンタインデーに我が彼氏はまさかのアルバイトが入ったので帰って来るのは夜。だからこそ、私は『夕食を作って彼をお出迎えしちゃおう大作戦』をこの度実行することにしたのである。
やめろ余計なことするな。彼氏が死ぬぞ。バレンタインだからって処刑人にならなくても……。なんてヤジが飛んできそうなものだが、安心して欲しい。今ここに立つ竜崎綾は、これまでの私とはまるで違うのだから。
「フフ……フフフフフ……」
目を閉じて私はひきつり笑いを自然に浮かべてしまう口元を押さえながら、苦い回想に浸る。
思えばこれまでに随分と長くて険しい旅路を歩んできたものだ。
ロールキャベツは普通のキャベツを使った筈なのに何故か紫色に。
お味噌汁はお湯に味噌入れたらOKと勘違いしてたり。
卵焼きはパッション溢れる黒いスクランブルエッグとなる。
暴れん坊将軍もびっくりな私の料理スキルがたたり、実家では万年お箸とお皿並べ係だった。
彼が涙目になった回数は数知れず。
けど……最近の私は、彼の指導のもとで修行を積み、簡単なものならば失敗しないようになっていた。一度お菓子作りを成功させたのが自信に繋がったのだろう。
お菓子作りの師匠、牡丹先輩は「一人でじゃなく、辰君と一緒に台所に立つようになったかしらね?」なんて茶化していた。……否定出来ないのが恥ずかしくもあり、私も単純だなぁと呆れもするのは、内緒である。
「……よし。いざ! いざっ!」
皮剥き器を手に私は先ずはニンジンを手にする。彼みたいに包丁でスタイリッシュに作業できたなら格好もつくだろうが、贅沢は言いっこなし。
戦に赴く武者のような台詞を吐きながら、私は愛の手料理に挑む。別に何か言葉を発してないと不安になるからという訳じゃあない。ないったらない。
ドン! ガン! ボキッ! キンキンキンキンキン! という台所ではあり得ない音を出している気もするが、きっと空耳だ。
少々豪快に剥いたせいでニンジンがスリムアップし、芽を抉ったらジャガイモが異様に小さくなったり。玉葱の芯を切りすぎたようにも見えるが……まぁ大丈夫だ。問題ない。
そのまま鍋に具材を投入する。……おっといかん、なんか順番があったっぽいぞ。い、いや。シチューは煮込み料理だもん。愛情でたっぷり煮るから。きっと幸せならOKだ。
キッチンタイマーをセットする。後はアクをちょくちょく取って……と、思った瞬間に、私の顔は凍り付いた。
「えっ、ウソ! もう七時!?」
おかしい。料理始めたのは二時間前なのに。やはりジャガイモやニンジンを討ち取る……もとい下拵えするのに時間をかけすぎたらしい。
彼のバイトはもうとっくに終わっていて、そろそろ帰って来てしまう時間だった。これでは美味しいシチューの匂いを背景に「ご飯にする? お風呂にする? それともチョコレート?」が出来ないではないか。
「む、むぅ……」
仕方あるまい。
私はちょっと悔しくなりながらもコンロのツマミを捻る。弱火でじっくりといきたいが、時間短縮だ。
コトコト煮込む恋心は火力で補うことにしよう。辰は心情的に重い女が好み(多分)だから、甘いチョコと一緒に燃えるように突撃したらきっとノックアウトだ。
シチューのルゥも投入し、「美味しくなぁれ」と内心で呟きながらグルングルンとかき回す。
そこで今更ながら玉葱も肉も炒め忘れたのに気づいたが、強火だから問題……ちょっとありそうだ。
失敗した。バレンタインで、チョコは上手く出来たからちょっと舞い上がってしまったらしい。でもルゥ入れちゃったし……。ぐぬぬ。超強火でもあれば……!
「……ま、時間かけて強火で焼けばいいか」
私の恋と一緒だ。火は強くても彼になかなか引火しなくて……結構な長期戦だったのだから。
ボコボコと沸騰しはじめたお鍋を眺めながら、私はそっと目を閉じる。
今度はついニヤケそうになる口元を押さえながら、甘い甘い回想へ沈む。
あれはそう……高校二年生。彼とまだ恋人の関係になれていなかった……バレンタインデー直前。放課後の出来事だった。
※
彼が大好きなのは今も変わらない。けど、こんなことを言ってはあれだが、当時はその気持ちがもっと燃え盛っていた。
今はそう。さながら熱を保ったまま幸せに身を委ねているイメージだけれども、お付き合いする前は本当に! 徹底的に私の細やかなアタックがスルーされ続けていたお陰で、私の恋はますます燃えていた。
そんな事情もあり、通算十年に差し掛かろうかとしている初恋を拗らせた私が、昔馴染みの友人らと空き教室で作戦会議するのは、もう定番になりつつあった。
その日も確か、今も関係が続く大親友。田中結衣ちゃんと遠藤千明ちゃんを含めた三人で膝をつきあわせていた。
お題はそう……。何であの辰はこっちのアタックに気づかないのか……だ。
「綾、わかったよ。アイツきっと不燃ごみだわ。ヤベェだろアレ。アホなの? 近くにこんなめんこい(可愛い)幼なじみいるのにさ。その子が見てるこっちがキュンキュンするくらいアタックしかけてんのに……無反応はヤバイだろ」
「それだよ。本当にわからないな。その……一応聞くけど、男色の気はないんだろう?」
お前天才か? それが一番可能性高くね? という顔でポニーテールの活発そうな女の子、千明ちゃんが発言主に顔を向ける。
一方、結構な風評被害を投下したふわふわウェーブのかかった黒髪の女の子……結衣ちゃんは、どうなの? といった顔で私を覗き込む。
「ない、よ。うん。ないわ。だって彼も初恋あったみたいだし……ちゃんと女の人だと思うもん」
実際に私は姿を見たことがないけど、多分アレだ。小さい頃に話していた、図書館にいたという紙芝居お姉さん。しっかりとは思い出せないけど彼が珍しく私にそっけなくて、そこへ行くのに躍起になっていたっけ。
でも、当時図書館で紙芝居なんてやっていただろうか? まぁいいか。
「ヤベェ、その相手もメチャクチャ気になるが……いや。いいか。重要なのは、ちゃんと女に興味があるってわかったことだ」
「そうだね。それは大きい。よし、綾。今こそ好機だ。突撃して押し倒してしまえ」
「いや何でそうなるのよ!」
私が憤慨してそう叫べば、千明ちゃんと結衣ちゃんは苦虫を噛み締めたかのような物凄い顔になった。
表情でなんとなくわかる。「じゃあ他にどうしろって言うんだ
」という口にはださない声が耳に届いた。
「バレンタインのチョコレート」
「毎年あげてる」
「帰り道」
「ほぼ毎日一緒に帰ってる」
「家」
「ベランダから飛び移れちゃうくらい近いわね」
「チュー」
「な、ないっわよ!」
「裸」
「し、小学校の中盤くらいまでは、たまに一緒にお風呂入ってた……かな」
「……現状」
「……あうう」
「げ・ん・じょ・う!」
「ただの、幼なじみデス……ハイ」
何でよ! と思ったけど、これもしかしなくても近すぎて眼中にない……? そう私が推測を述べると、さっきまで詰問係をしていた結衣ちゃんが「エレスコレクート!」とドヤ顔で叫びながらパチンと指を鳴らす。後から聞いたら、君は正解だという意味らしい。
「もうね。目の前で全裸になるか、押し倒す位しか活路はない気がするんだよ」
「あっ、綾。アレ着ようぜ。童貞殺すセーター。通販で届くだろ」
「千明、君天才か? 名案だよ。……ってちょい待ち。滝沢君って童貞?」
「……さ、さすがに童貞だろ」
「いや、アレ中身はともかく見た目はいいから……どこぞのお姉さんと流されるままに一夜の過ちを経て、僕らに気づかれぬまま日常に戻ってたり……」
何だか話をあらぬ方に飛ばしながら、結衣ちゃんは顔をひきつらせる。お陰で私もまたつい想像してしまう。
巨大な本棚が乱立する、迷宮を思わせる図書館の奥。紙芝居用のテーブルの影で抱きしめ合う、彼と妖艶なお姉さん(あくまでイメージ)の姿が……。
「……ヤベェよ超ありそう。最悪キスくらいは……っと、すまん綾。冗談。冗談だ」
「た、ただの空想さ。ファンタジーだとも」
私を置き去りに目の前で盛り上がる二人だったが、突然慌てたように手足をばたつかせる。泣くなよ~と白い歯を見せながら千明ちゃんが私の頭をペチペチ叩き、結衣ちゃんはキャンディを差し出してくる。
……何かこの二人といい、彼といい、たまに私を子ども扱いしてしてやいないだろうか。
それでも甘味に罪はないのでキャンディは受け取りつつ。私はカランコロンと口の中でそれを転がしながらもう一度彼のことを考える。
妹。そんな単語が頭を過る。考えれば考えるほど、彼の中にいる私はそのポジションが当てはまりすぎて……ちょっと泣きたくなった。
「綾、厳しいことを言うようだけど、早めに決着をつけるべきだとボクは思うんだ」
そこで不意に真面目な声色で結衣ちゃんが話し始めた。ゆっくり顔をあげる。いつになく真剣な表情の結衣ちゃんがいた。
「僕らの世界は広いようでまだ狭い。田舎の高校生なんてそんなもんだ。けど……来年には僕らは自分のことで精一杯になり、そのまた来年にはそれぞれの道へ進むだろう」
「結衣、前置きなげぇ」
「やかましい。まだボクのターンだ。腰を折るな脳筋その2」
その1は誰だろうと思いつつ、私は話の続きを促す。
彼女はキャンディをもう一つ取り出して、おもむろに包み紙を剥がしはじめた。
「今までは、周りは身内だらけだった。虚ろな美少年と大和撫子の幼なじみ。そのイメージがあるからこそ、君らの関係は揺らがず、周りも変わらなかった」
「高校入ってから、綾に構わず滝沢を狙う女チラホラ見るけどな」
「千明ステイ」
「……わんっ!」
結衣ちゃんの手でキャンディが放られて、千明ちゃんがそれを上手に口でキャッチする。拍手を送る余裕はなかった。
「大学は、まぁボクも行ったことないけども、環境が激変するだろう。想像してみたまえ。そこでもし、滝沢君にとっての本物が現れてしまったら?」
「ヤベェよ、絶対UMAだろそれ。欠片も想像つかねぇ」
「千明、そろそろ口を縫い合わしてやろうか?」
「止めろ。手芸部のお前が言うと洒落にならん」
両手で口を押さえる千明ちゃん。それを見ながら、私は膝の上で拳を握りしめる。
二人とも好き放題に言っているが、心は同じ。素直になれ。そう言っているのだ。
思えば私は、今まで彼に甘えはしてもそれだけで、全部が全部遠回しだったように思う。真っ直ぐに。それがなかったのだ。
根底に辰ならいつかきっと。そもそも彼が誰かに惚れるなんて思えない。そんな気持ちがあったのだ。誰よりも振り向いて欲しいと私自身が思っていた筈なのに。
「バレンタインだ」
千明ちゃんがポツリと呟く。ガリッと彼女は歯であめ玉を砕きながら、ニタリと不適な笑みを浮かべる。
「そこでそろそろ、決着をつけようぜ。真っ向勝負だ。恋した女は猪ってな。ぶちかましてやれよ」
心の炎がまたより強くなる。
そうだ。今年こそ。きっと彼に私の気持ちを伝えて。そして……!
「私、頑張る」
ぐっと胸の前に拳を掲げながら決意表明すると、二人は静かに頷いてくれた。そうだ。いっそ今年のチョコは手作りに……。
「たっ……たたた大変だぁ!」
その時だ。凄まじい勢いで空き教室の扉が開けられて、誰かが転がり込んでくる。クシャクシャの天然パーマヘアに黒縁眼鏡。彼の友人である松本健太くんがそこにいた。
「辰っ! こっ、こくはっ! せいと、かいちょっ! ヤベェ!」
「ヤベェのはテメェの日本語だバカ松。……滝沢がどうしたよ?」
息を切らし、慌てたようにパクパクと口を開く松本くんに千明ちゃんが一喝する。
その隣では結衣ちゃんがドウドウ。落ち着いてとジェスチャーしていた。
「さ、松本くん、深呼吸~。はい、そこであくび」
結衣ちゃんの助言で名状しがたい顔になる松本くん。すると、彼はそこでようやく呼吸が整ったらしく……。そのまま、弾かれるように私の方に顔を向けた。
「辰が! 生徒会長に呼び出された! 多分アレ流れ的に……告白だ!」
「………………え?」
その瞬間、私の心が奈落に落とされる。
それは、私が十年くらいかけてようやく決意した行動そのものだった。




