思い出の詰め合わせ
思い出は、ある日突然よみがえるものだ。それが楽しかったものであろうと、些細なことであろうとも。思い出とカテゴライズした以上、私にとっては重要なものだ。
現在部屋にいる私は、ただ混乱し。呆然と立ち尽くしていた。
何故。
どうして。
そんな感情が胸を渦巻く。
今にして思えば、それは現実逃避に近いものだったのだろう。最近あった何気ない出来事にすがりつきたくなるくらい、私に突きつけられた事実はあまりにも重たく。信じがたかった。
……なので、少しだけ時間がいる。この現実を辛うじて受け入れるために。
辛うじてとは、そのままの意味だ。これを私は、今すぐ完全に受け入れは出来ないだろうから。
だから……。話をしよう。
昨日まで確かに平穏だった、日常の話を、私の心の防衛もかねて。
※
『エスプレッソ・ロストラブ』
「……失恋したんだ」
私がアルバイトとして働く、カフェ『モチモチの木』のカウンターにて、その男性――。秋山くんは肩を落としながらそう呟いた。
店内は個人経営というのもあり、そこまで間取りは広くない。ついでに今は平日の夕方。かつ中途半端な時間だからか、お客さんもいない。故にその場にいた私とマスターは、秋山くんの漏らした呟きが嫌でも耳に入ってしまった。
「……告白、したの?」
「うんにゃ、彼女いたんだけど、その子にフラれた」
「……あー」
彼の話に耳を傾けていた私へマスターがウインクする。それに私は会釈して、ひょいとカウンター内のレンジ前まで行き、それを投入する。
彼、秋山くんがここに来たのは偶然らしかった。
あてどなくさ迷い、この店を見つけ、そのまま転がり込んだらしい。
珍しい事ではない。ここの隠れ家的な外観がそうさせるのだろうか。日々のしがらみに疲れ、偶然迷い込んだ新規のお客さんがカウンターに座り、私やマスターと何の気なしに語る。『モチモチの木』では、それなりにある光景だ。
ついでにマスターの観察眼は物凄いので、「あ、この人常連の匂いがする」と思ったら、惜しむことなくサービスする。さっきのウインクはその合図だ。
「経営のためよん」なんてマスターは言うけど、その実、誰よりも正確に人の心の揺らぎや綻び。哀しみや消耗を察し、そっと傍に寄り添う様が、そんな打算的な感情だけには見えないのは……私の勘違いではない筈だ。
古い常連さんにチラリと聞いた話では、喫茶店を経営する前はカウンセラーだった。なんて噂もある。あくまで噂で真相は闇の中だ。
「てか、知らなかった。秋山くん、彼女さんいたんだ……」
「ん、今年の、二月くらいから。ほぼ俺の部屋に入り浸ってたよ」
「仲、良かったのね」
「……ああ、良かった。そう思ってたよ」
どうして別れちゃったの? と、聞くべきか聞かぬべきか。その辺の匙加減は私にはわからない。ので、私はただ待つ。
やがて、秋山くんの元にエスプレッソが届けられた。
通常よりも小さなカップに入れられた、二口、三口分位しかない、特殊な抽出法を用いたとびきり濃いコーヒー。
それを秋山くんは、砂糖も入れずに一気に飲み干した。
「……苦ぇ」
「エスプレッソだもの」
「そりゃそーだ。……無作法な飲み方でごめん」
「……無作法?」
「エスプレッソはブラックで飲むのはマナー違反。本来の飲み方じゃないって聞いたぜ」
「ああ、そういう。……マナー違反って言うより、楽しみ方の問題よ。ブラックで飲むのがダメってわけじゃないの。それはそれで美味しいし」
「へぇ……なんだよあいつ。作法なんて堅苦しい言葉使うから、俺はてっきり……」
コーヒーは通ならブラックで。と、言う人もいる。好みの問題だからどっちでもいいと私は思うけど。が、エスプレッソに関しては、間違いなく。是非お砂糖を入れるのをオススメする。
最初、香りを感じながら一口。
二口目で苦みと酸味を楽しみ、三口目で甘みと余韻を味わうのが、エスプレッソの楽しい飲み方。ワインを香りや口当たりと一緒に味わうのと、少し似ていると思う。勿論、甘味は抜けるが、砂糖なしでも近い感覚は味わえる。美味しいエスプレッソは元々三層に分かれるように淹れられているのだ。
そう私が説明すると、秋山くんは力なく笑いながら、「あいつ……適当か、半かじりの事言ってやがったのか」と、肩を竦めた。
チン。と、レンジの作動が終了する。私が取りに行こうとしたら、マスターは無言で私を手で制して、スタスタとレンジの前へ向かうのが見えた。
「両方好きって……」
ポツリと、秋山くんはうつむいたまま呟く。声は震えていた。
「両方好きって言ったんだ。だから考えたいって。昔からの友達に告白されて。頭が訳わかんなくなったって泣いて。んで、結局あっちを選んだ。俺といるのも好き。だけど、告白してきた男の傍にもいたいなぁって、思ってしまったって」
かける言葉が見つからなかった。
「つい一月前まで、楽しく二人で過ごしてたんだ。それが、シルバーウィークであいつが実家に行って帰ってきたら……いきなり……」
はた。はたと、カウンターに水滴が落ちる。
それを見た時、私はもう言葉を探すのを止めた。
マスターが暖めたバウムクーヘンを秋山くんの傍に置く。「バウムクーヘンでぇす」なんて、明るくも暗くもない、いつものトーンで。
「俺、頼んでな……」
「私からサービスよぉん。因みにエスプレッソもお代はいいわん。そっちは綾ちゃんからって事で」
「……でも」
「いいよ。秋山くん。コーヒーは奢るわ。何ならもう一杯、彼にツケてもいいよ?」
「……ははっ、じゃあ、ブルーマウンテンでも頼むかな」
泣き笑いが決壊し、秋山くんはカウンターに突っ伏した。
後に残るは慟哭だった。
好きだったんだ。本当に。泣きたいのはこっちだった。ほぼ四六時中一緒だったから、部屋が寒い。そんな悲痛な、低い呻き。
男の子が泣くのをカッコ悪いとは思わない。だって痛いのを痛いと言って何が悪いと思うし、誰もが泣く場所は必要だ。そう私は考えるから。でも……。
それは、九月終わりの出来事だった。何でだろう。その時ふと、彼の顔が私の脳裏に浮かんできて、同時にある事実に気がついた。
小さい頃から一緒だけど。今でこそ恋人だけれども。私は彼が泣いている所を、一度たりとも見たことがないのだ。
※
『ワンパンガール』
大学キャンパス内にて、その声は轟いた。唸りを上げ、掴みかかるようにこちらへ突進してくる男の鼻息は、あり得ないくらい荒かった。
「竜崎綾ぁ! 滝沢辰を、俺にぃいっ下さぁあああいっ!」
返答は拳。
彼にやる時は加減するそれを全力で。
震脚と呼吸をシンクロさせ、腕を砲弾に見立て、敵の身体の中心線。その中にある人体急所が一つ。鳩尾を貫いた。
大木すらへし折る勢い。が、それを目の前の男は受けて大幅に後退するも、確かな笑みを浮かべながら仁王立ちしていた。
「耐えきったぞ。竜崎綾。俺はもう、一撃では沈まん」
「……動かないで」
「それは出来ん相談だ。俺は辰の元へ行く。この身体は、行けと叫んでいる……!」
そう行って、その男、安部はゆっくりと足を踏み出し。その場で崩れ落ちた。
大男が倒れた地響きの後に静寂がその場を支配する。そこで私は、ようやく残心を解いた。
「だから言ったじゃない。動かないでって」
身体に残り、反響した衝撃には耐えられなかったのだろう。当然だ。一撃で沈めると宣言した以上、加減などしない。この男相手ならば尚更だ。何故ならば……。
「だいたい、彼は……私のものよ?」
誰にもあげる気はないのである。
それは、十月初めの出来事だった。そのあと現場を見ていた大学の空手部やらボクシング部やらから猛烈な勧誘を受けたのは、また別のお話。
……使ったの八極拳だったんだけどなぁ。
※
『ドッペル・ウォー』
「綾ちゃん綾ちゃん。ドッペルゲンガーって考え方によっては最高だと思うのよ」
写真サークルの部室にて、そんな事を突然言い出したのは、牡丹先輩だった。
「ドッペル……何ですかそれ?」
「あり、知らない? ドッペルゲンガー。自分とそっくりな人間が目の前に。あるいは自分の知人に接触するって話よ?」
「……クローンとは違うんですか?」
「ヒトのクローンはすぐ死んじゃうらしいわ。厳密には自分の写し身が意思を持って現れる。つまり何がいいたいかと言うと……。綾ちゃんが二人いたら、私と辰君で二倍可愛がれると思うのよ」
この人、実は凄く頭がいい筈なのに、たまにこうやってバカな事を言い出すのは本当に何なんだろうと思う。切実に。
「いや、何でそんな話ですか。そもそも写し身? なんてどうやって出るかもわからないのに!」
「そうなのよね~。ま、都市伝説に近いものだからね。自分にそっくりな人が現れた時の恐怖。なんていうのがテーマなんだろうけど……いまいちお姉さんにはピンとこないわ」
そうして、こうして醒めやすくもある。この人こそ猫みたいだな。なんて思いつつ、私はもし自分が二人いたら? そんな妄想もとい想像をしてみた。
……彼は喜びそう。私が二人になったキャッホォイ! 位は叫ぶだろう。変態だし。
二人という点を悪用してくるかもしれない。具体的には思い付かないけど。
逆にどっちを愛でるか悶えるかもしれない。
自意識過剰に見えるかもしれないけど、それくらいはする……よね?
「……あ」
が、そこで私は根本的な問題に気がついた。そもそも、彼……にも問題があるが、一番の課題は別にある。急に変な声を上げた私を不思議そうに見る牡丹先輩。そんな彼女に向き直りながら、私は「最高にはなりません」と、話を切り出した。
「だって私が二人になったら、絶対彼の取り合いになります。大惨事ですよ」
「……お姉さんはその発言の甘ったるさに胸焼けしそうね」
大惨事だわー。と、笑う先輩。然り気無く「辰君爆発しねーかな~」なんて呟くのは、もう恒例だ。だから……。
「爆発はダメです。私が泣いちゃうので」
ぐぬぬ……。と、言葉に詰まる牡丹先輩が可愛かった。ついでに。その発言がご丁寧に録音されてて、私がアタフタするのはまた後日のお話。十月半ばの出来事だった。
※
『一矢報いる』
メリーとたまにお出かけするようになって、早いもので一月が過ぎた頃。私とメリーは彼の誕生日プレゼントを探しに、一緒に街に出ていた。
互いにあーだ。こーだ。言ってるのが楽しいなんて思うが、隙は見せぬ。何故ならば……。
「ねぇ、じゃあ十月二十四日は、三人でお出かけ……」
「しません。私と彼の二人きり。メリーは部屋で一人寂しく鍋でもつついてなさい」
「酷いわ~。この子酷いわ~」
酷いのはどっちか。何で彼の誕生日に彼女たる私から彼を盗らんとするのか。この泥棒猫。
「いいじゃない。クリスマス。大晦日、バレンタインにホワイトデー。全部綾が独占するのよ? 誕生日位私に譲ってよ」
「……最近、気づいたのよ」
「気づいた?」
ワントーン声を落としながら私が話せば、メリーは不思議そうに首をかしげた。私がキッと睨むも、涼しげな顔。そうこれだ。私をおちょくるようなそれだが、たまに寂しげな感じになる。……が、私から言わせれば、そうなるのがおかしい。だって……。だって……。
「彼って、そういうイベント事の前か後って、必ずフラッといなくなるの。何でかしらね?」
「へぇ。ソウナノネー。ナンデカシラー? フシギネー」
「原因はお前だぁああ!!」
穴埋めか! 埋め合わせか! どっちが誘ってるんだか知らないけど! そういえば社会人の中には、仕事の関係上そういうイベントはズラして楽しむ事もあるのだとか。……オノレ。
「他意はないわ」
「ねぇ、メリー。すまし顔でそれ言えば解決すると思ってない?」
「……ちょっとだけ」
「こ……の……!」
「他意はないわ」
「キリッとした顔してもダメっ!」
「いや、ホントにないのよ。行事ごとに関してはお互い驚く位……あ、実際驚いた事はないけど不干渉なのよねぇ」
例外はハロウィン位よ。と、メリーは呟いた。
……ちょっと意外。気が合うなら予定は立てずとも、お互いどう過ごすかとかは聞いたりしないのか。よくわからない。
「……何かこう、変に親密なのに、変なとこはドライよね。メリーと彼って」
「……〝夢見るのが恋人たち〟と言うわね。そういう意味で捉えれば、私達は恋人ではないのかも。悲しいわー」
「メリー白々しい。……誰の言葉?」
もしかして。と思ったら聞くようにしてる。もしかしたら、彼の言葉に返せるかも。何て思うから。出来た試しはないけど。
「アレキサンダー・ホープ。詩人さんよ。よかったら調べてみて。さっきの言葉。実は続きがあったりするの」
「へぇ~。どれどれ……」
〝夢見るのが恋人たち。目覚めているのが夫婦だ〟アレキサンダー・ホープ。
スマホで調べて、すぐにメリーにタックルをしかけたのはご愛敬だ。
「夫婦もだめ!」
「ちょっと分けてくれれば……。子どもだけでも」
「誘拐かっ!」
「いや、本当に最終的には辰のたね……」
「言わせないわ!」
「そうしたら、子どもに辰って名前をつけて、心血愛情そそいで可愛がりまくるわ」
「怖いわよメリー! 一矢報いるどころか百本くらい矢が放たれてるっ!」
「それでも綾は倒れないのよね~。弁慶かしら?」
「脛蹴るわよ?」
「ジョークよジョーク。メリーさんジョーク」
それは、十月下旬に差し掛かろうかという頃のお話。何だかんだ楽しく終わった、日常のショッピングのヒトコマだった。
※
『そして現実へ』
まだまだ色んな思い出がある。十一月にも沢山。けど、メリーとのエピソードを回想した瞬間、私は現実に引き戻された。
「う……あ……」
声が、上手く出せない。
脳が理解しきれていない。
目はテレビのディスプレイに釘付けだった。
「嘘よ……」
一昨日部屋の近くで会った時、何だか様子がおかしかった。けど……。けど……。
そこには、今日起きたありとあらゆるニュースが羅列される。そこに……。私が通う大学、その女子大生が殺害されたというニュース。その最新情報が放映されていた。そして……そこに記されている名前は紛れもなく……。私がメリーから教えてもらった、本名だった。
十二月九日。メリーの誕生日……その三日前。
彼女はこの世から姿を消した。




